益田廣岱伝1 序章 この本文です。

益田廣岱伝2 歯が痛い

益田廣岱伝3 記述と歯科医師碑

益田廣岱伝4 新たなる資料

益田廣岱伝5 漢詩

益田廣岱伝6 小伝(叔父の纏めたもの)


            益田廣岱

 うさおの「おじいちゃん」の話です。と言うことは日出彦さんの「おじいちゃん」にもなります。うさおは「おじいちゃん」に会ったことはありません。生まれる前に亡くなってしまいました。
 親父の部屋には如何にも明治人らしい厳めしい姿の「おじいちゃん」の遺影が飾ってありました。親父はどうやら「おじいちゃん」を尊敬していたようです。世の親は斯く在りたいものです。
 と言うことで、うさおは息子に「親父」と呼ばせています。実は「おばあちゃん」の記憶も怪しいものがあります。覚えていません。やはり、明治人らしく毅然としていたようです。
 が、覚えていません。(これ、うさおの得意技ですね!)
 小さいときには「おばあちゃん」の家に遊びに行ったのになあ。「おばあちゃん」の毅然としているところは、孫のうさおとは、雲泥の差です。うさおはご存知の如く、面倒なことは大嫌い、嫌なことはちゃ、ちゃっとやって、好きなことは時間を掛けて・・・と言うお気楽な性格です。カッ、カッ、カッ。(^◇^)

 さて、「おじいちゃん」のことですが、これが意外に傑物だったらしく、ものの本に少し残っています。今ならinternet で検索すると、色々なホームページで「その人物名」を現れてくるようなものです。これはご自分の名前を入力して検索すれば、一発で判ります。同名異人がすごい業績を残していることが・・・。
「この名前は確かに私だが、福井県に住んでいないし、こんな歳でもないなあ」と、落語の「らくだ長屋」のように、こりゃあ俺だが、じゃあここに居る俺はいったい誰だ?てな感じでしょう。

 まっ、日出彦さんは大学教授ですから色々な研究論文がネットで、一杯出てくるでしょうが。


         抱かれているのが親父です。

 閑話休題。その文献とは「齒科醫事衞生史」と言うもので、戦前の昭和15 年10 月25 日に刊行されたものです。編集は日本齒科醫師會となっています。


            「齒科醫事衞生史」

 はい、「じいちゃん」は歯科医師だったのです。
 この本の中には、近代日本の歯科医業に功績のあった人物を取り上げています。これは歯科医師の人脈の系譜ともいえます。
 ここでは、日本の歯科医学を三つのジャンルに分けています。
「外人医師」系、「留学」系、「伝統医学」系です。
「おじいちゃん」は「留学」系ですが、これは後述しましょう。面白かったのは、「外人医師」系です。これは6 名の人物が挙げられ、いずれも慶応か明治の時代に渡来してきました。そのほとんどが、「香港」と「横濱」で財を成しています。この人たちの日本人の弟子たちが数多く居るのも特徴的です。
 以下にその6 名の略歴を簡単に記しますが、中にはこれは小説かドラマに使えるんじゃないかと言う人物も居ます。

 初っ端は、ウィリアム・クラーク・イーストレーキ(William Clark Eastlake 亜墨利加(米国人)氏です。この人は中々の人物で、明治政府の中央とも関係が深かったようです。生年は1834 年03 月25 日、没年は1887 年02 月26日です。履歴が大変はっきりしています。
 明治14 年(1881 年)の秋に横濱の居留地、百六十番館で開業したとあり、その後、福沢諭吉の紹介で麹町一番町十二番地に転居して全うしていますが、ヘボン博士らとも親交があり近代日本の礎となったらしいです。この人じゃありませんよ。ドラマにしたいのは。


     ウィリアム・クラーク・イーストレーキ

 2 番は「大瀬の半五郎」って、廣澤寅蔵じゃあないんだから。ヘンリー・ウヰン(Henly Winn)氏で、同じく米国生まれ、1850 頃に生まれて、1890 年頃没したみたいですが、みんな晩年は帰国する人が多く、その消息の多くは不詳です。
 その当時の外人医師はほとんど居留区の外人や高級船員を相手にしていましたので、あまり日本人を見ていませんが、新聞だったか、街頭チラシの広告に「口中一切治療仕候 百八番 ウヰン」というものが残っています。治療所は横濱百八番で、「山手に面した河岸で、前田橋と谷戸橋との中間に位する商館である。」とあるので、現在のフランス山の麓、元町のとっつきの辺りだと思います。

         ヘンリー・ウヰン(一番右下です)


 セント・ヂョーヂ・エリオット(St.J.Eilliott )氏。これも米国人で米国人が多いですね。1838 年頃の生まれで、大正4年頃没したらしい。教え子の日本人医師らは英語があまり理解できなかったのか、あまりにも人使いが荒いので、馴染めなかったのか、家族との付きあいも少なかったようですね。
 明治3 年(1870 年)に横濱の山手に住居を構え、海岸の五十七番館を借り受け治療所とした、とありますが、住居の山手二百十一番は今の共立女学校のあたりです。


          セント・ヂョーヂ・エリオット

           当時の共立女子学園

 ハラツク・マーソン・パーキンス(H.Mason Perkins)氏も米国人で何もかも不詳で、日本や香港に金を稼ぎに来ていたのかもしれません。
この人は明治7年(1874)に、エリオット氏の跡を継ぎ、治療所を海岸通りの五十七番館に設けます。横濱山手百七十八番に住居を構え、裏は太神宮に續く靜な住宅地でした。パーキンス氏は明治14年の秋に帰国しますが、その後、杳としてその消息を絶ち知る由も無いと言うことだそうです。


        ハラツク・マーソン・パーキンス

 さて、注目の外人医師、アレキサンドル(Alexandre)氏の登場です。明治5年頃、佛國から日本に砲術の教師として松江藩に来ました。軍人さんだったのでしょうね、軍医も兼ねていたのでしょうか。横濱で開業した後、築地・銀座に転居します。
「治療所の看板に自動式の上下顎の開閉する人形に義齒の見本を竝列する看板を出し、時人之を「パクパクの看板」と云い衆人の注目を引いた。(明治事物起源より?)」とあります。広告の何かと言うことを良く知っていた人物です。松江から一挙に東京に出てきます。並々ならぬ手腕だと思います。
 「其の後アレキサンドルは某地に行きて佛語の教師となりしといひ、或いは櫻井一齋氏に招聘せられしといふも詳らかでない。」
 風説に言うというところでしょうか。なぜ砲術指南の先生から、歯科医師となり、外国語教師となったのか。立身出世、転落、没落のドラマがあり、何故、庇護者の下に赴いたのか。
 更に言う。「明治十五年三月二日本邦で歿して法名を「法海直入信士霊位」と記して居るが、死亡地は詳らかでない。」
 ???。おい、おい、法名が判っていて墓が判らないなんて、不思議ジャン。なんだか、スパイものを読んでいるようだなあ。
「尚アレキサンドルは在邦中ハナといふ女性と同棲してゐた。」じゃあ、日本人の血縁が居た可能性もあるじゃないか。なぜこの人は、生年も不詳なら辿った足跡も不詳なんだろう。ねっ、こりゃあドラマでしょ。


               アレキサンドル


 ギュリツキ(Theodora W. Gulick)氏。 米国人です。急に気が入らなくなっちゃたな。まっ、ちょっと紹介しときましょうか。明治12 年に来航して来て、横濱でわずかな期間(4ヶ月くらいね)開業後、神戸に行って歯科医を開業しています。横濱に関することも少しだから、こんなもんでいいか。

               ギュリツキ


 さて、「おじいちゃん」の名前は、「益田 廣岱(こうたい)」。と言います。広い平らな所って意味ですね。
 如何にも、たこにも、江戸時代の漢方医の倅と言う名前です。お寺さんとも縁続きと言うことですから、仏教的な意味も込められているのかもしれません。

 先ほどの「齒科醫事衞生史」によれば、「益田廣岱は埼玉縣大里郡明戸村大字石塚の医師益田優昌の長男として慶應元年(一八六五年)三月一日に生れ、幼少の頃は同郡妻沼町歓喜院で修學した。其後東京に出で、慶應義塾に學び、十九歳にして渡米した。時に明治十六年である。」とあります。
 この妻沼町の歓喜院が親戚のお寺さんで、この深谷の町に帰って来るならと、渡米費用50 圓を用立てたと言います。医師であり、仏門にも繋がりがあり、渡米後はクリスチャンにもなったようです。(節操が無い訳ではないらしい)

 医師益田優昌の父は稀代の人で、深谷の郷士だったが武芸全般を能くし漢方医をやる傍ら、江戸は神田に出て道場を開き剣術を教えていました。帰郷して後、天領地だかの深谷城の剣術指南番もしていたらしい。
 小さいときに本家の蔵に、この爺さんの槍、刺股、薙刀、刀剣などがあったと、日出彦さんが言っていたと思います。(親父だったかな)うさおはまったく記憶がありません。あの暗い蔵の中に入って、金田一少年と同じ事を考えていました。
「やべえよ!何か憑いて来るんじゃねえのか?明り取りも遥か上の方で暗いし、いかにもそれ・・じゃん!」
 この爺さんのところに、或る夜盗人が入りました。不審な物音に気づいた爺さんは、長押にあった薙刀をやおら取るや否や、「曲者、ござんなれ!」と呼ばわり、盗人に切りつけた。(危ないって!)
 盗人は、手のひらを裂かれ、嗚呼と叫んでその場を逃れました。しかし、狭い村のこと、村に医師など早々に居ません。已む無くその盗人は爺さんの元へ。爺さんは一目見て気づいたが、何食わぬ顔で治療したといいます。
 この本家は、代々漢方医の家系で、郷士として名字帯刀を許されていました。医療費の代わりに田地田畑を貰い、名主総代並みに成っていたというのですから、結構悪いねと思います。商売人っていうのかなあ。
 田舎の墓には「藤原の朝臣(あそん)益田の何某」と彫られています。家系図が残っており、藤原朝臣俵藤太秀郷が始祖と書かれています。うさおが「ビンラディン氏」ではなく「藤原氏」である証拠はここにあります。


益田家の武勇伝 盗人撃退事件(風貌は想像です)

                益田優昌

馬車道の瓦斯燈 (2003年3月13日)

現在の横浜・みなとみらい、昔はこの鉄道で居留区へ (2003年3月13日)


     歯科医師免許證
          埼玉県 益田廣岱
          慶応元年三月一日生
 西暦千八百九十年六月北米合衆国ハーバード大学歯科部ニ於テ受領シタル卒業證書ヲ審査シ明治三十九年法律第四十八号歯科医師法及明治三十九年勅令第二百四十五号ニ依リ歯科医師タルコトヲ免許ス。
仍テ此ノ證ヲ授与ス。
 大正十三年十一月十二日
     内務大臣   若槻 礼次郎
 本免許ハ第五二号ヲ以テ歯科医籍ニ登録ス
     内務省衛生局長 山田 準次郎
              齒科醫師免許證

 さて、渡米した「おじいちゃん」ですが、「渡来後は医学修業したが、明治二十年六月即ち二十三歳にしてマサチュウセッツ州ケンプリッヂのハーヴァード大學齒科學部に入學し、同二十三年六月七日卒業、ドクトル・メヂチーネ・デンタリエーD.M.D.の學位を得た。同年十二月同州の開業試験に合格し開業免状を授与された。」
 う~む、渡米の折には、鉄道強盗に会い頭を撃たれ、九死に一生を得たが、日本から持っていった路銀を消失したらしい。最も日本では大金の50 圓も、向こうに行けば遊銭にもならなかったと手紙が来たそうです。とにかく、苦学をしながら医業に専念したそうで、その当時のハーヴァード大學には日本人は2名しか居らず頼るものも無かった。現地では親切なホームステイ先(ハワイの医師、ニコルス氏)が見つかり、大変日本人びいきの人らしく、何かと面倒を見てくれ、あまつさえ、うさおの親父も関東大震災が無ければ、そのホームステイ先に来るように請われていたらしい。(なにしろ記憶の絶つ人のうさおゆえ、大きな間違いがあるかもしれませんが)


左がおばあちゃんで右が優昌の妻女つまり大祖母です

           妻子とともに

 「明冶二十六年六月帰朝し、同月直に内務省歯科医術開業免状第五十二一号を授輿せらる。其晩年(震災後)所持の免許証(再下附)の写は次の如くである。」(上の免許證参照)
 ここで「じいちゃん」は留学系のはしりとなるのでした。ハーヴァード大学時代に財閥の子息(2人の日本人の一人、やはり医学を志す)と親交が出来、帰朝後すぐに歯科医師の国家免許の判認官となれたのは彼のお陰です。家にある「おじいちゃん」の写真が厳いかめしいのは天皇陛下に拝謁したときに着用に及んだ大礼服だったからです。そこで正七位という位を木杯とともに貰います、後に銀杯も貰えたようです。
「明治二十六年十月醫術開発試験委員を命ぜられ、三十一年四月、三十五年四月と相次で重任した。
 明治二十七年五月には、米国東洋艦隊臨時齒科醫を嘱託せられ、叉明治三十六年三月には功績によつて正七位に敍せられ、又三十九年には明治三十七八年戦役の際報国の賞として木杯五個竝に賞状を賜り、大正五年十二月は銀杯一個を賜つた。」の記述にそのことが書かれています。この頃になると医業も隆盛になり大きく稼ぐようになります。

「同月横濱市石川に開業したが、三ヶ月にして同市谷戸坂に移り、更に一ヶ年後境町に転じた。」

 石川町は先にも書きましたが山手の兎端口にあります。麓には寿町があり名前は素晴らしいのですが、今も昔もスラム街で、昼間でも路上に寝ている人がいます。そのような人にCacco 隊員がカメラを向けようとしたので、危うく止めました。恐いですよ。ドキドキ。


 石川町 打越のあたり (2003年3月13日)

打越橋: 昭和3年に横浜市に架けられた打越橋は,支間21.3mの上路アーチ橋である.規模は小さいが,側面形状には意匠的なくふうが施されている。当時の橋梁工事に関連する技術上の成果としては,永代橋の下部工に圧気潜函工法が採用されたこと,また数多くの下部工の締切工事の安全と迅速性をはかるため,初めて鋼矢板が使用されていたことなども忘れてはならない。
出典:日本の橋 -鉄の橋百年のあゆみ-、1984年6月1日、日本橋梁建設協会編、朝倉書店

 その当時でもあまり良い人気(じんき)ではなかったのでしょう。すぐに谷戸坂に移り住みます。谷戸坂というのはフランス山の麓のことで、元町の入り口に当ります。「港が見える丘公園」の下の方と言えば通りがいいですね。この辺りは今は観光地ですが、慶應の時代はフランス軍の駐留地であまり日本人が住んでいない地域だったと思います。外国の高級船員が多く住んでいた様で、この船員相手に今の石川町付近英語が堪能なことを駆使して暴利を貪ったのでした。何しろ外人が信用して診てもらう唯一人の日本人の歯科医だったようです。(ハーバード大学出と言うのもあったかもしれません)それまでは外国人医師が外国船員たちを診ていました。


谷戸坂あたり (2003年4月6日)

谷戸坂の碑 (2003年4月6日)

 境町とは、今で言うところの日本大通のことで、横浜公園の東側、今の朝日新聞社の辺りに治療所がありました。隣には、遠藤スーベニア店、佐藤政五郎商店(鐵を扱っていた。後に衆議院議員になった)が並んでいたそうな。ここで少し吃驚なのは、この境町の辺りの商館は、ほとんど長八の門下による左官屋の手になったもので、もしかすると結構な鏝絵なども存在したかも知れません。伊豆の長八が考案した海鼠塀と白漆喰は当時、流行しました。今でも地方や大きな料亭では見かけることが出来ます。(柘植義春の「長八の宿」を参照されたい)


日本大通 (2003年3月13日)

日本大通 右側の白い建物が現在の朝日新聞社の処 (2003年3月13日)

この茶色の建物あたりが当寺の住居だと思う 後ろは横浜公園・スタジアム (2003年3月13日)

 そして嫁さんを貰います。
「室は長井寓蔵の二女「むめ」(明治十二年生)で三男二女を儲け、長男廣徳は、父業を繼承しない。」
 長井兵助の直系と言う家柄です。長井兵助と言えば、江戸開闢のときに西方の侍だったので禄を離れてしまい、江戸に出て居合い抜刀術を広めたことで有名です。
 もともとは伝統医学系の歯科医で、柘植の入れ歯などを作っていたと言われています。 まっ、そんなこんなで和洋歯科医師同士の婚姻関係だったんでしょう。


              祖母 むめ

 「おばあちゃん」の若いときの写真を見ると結構、今風の顔をしています。「恋のからさわぎ」に出ていた「左官屋さん(ガテン系の美人さん)」に似ています。資産的には長井家のほうが上だったとかで、嫁いで来た時に「ばあや」を連れてきたそうです。その給金は長井家から出ていたと言うので、驚きです。
 家には書生たちが居て、住まいと食事を与えていたようです。この書生たちはその後、歯科医師としてひとり立ちし、歯科大学を興すもの、歯科医師会会長になるものと中々のものです。
 この当時はなんと保土ヶ谷に山を所有し、山守を雇っていました。大きな商店主や外国人事業者は、自分の山を有し、山頂が主人の家、中腹が番頭、麓が手代と言う按配に住むのが、お金持ちのステイタスでした。同じ様にこの山に居を構えたかったのでしょう。一躍名士、分限者の仲間入りです。

 しかし、順風満帆だったのは、ここまでです。政治的や野心も無く、事業、蓄財の才も持たぬ輩がある天変地異を受けることによって、失意のどん底に落ちます。この文献に言います。
「関東大震災に遭遇して總てを烏有に歸したる後、同市神奈川區子安町三二〇四番地に開業、生を終るまで繼續した。」「廣岱は晩年に臨牀の傍、西寺尾町六六六の閑地に隠宅を設け老後を養つてゐたが、昭和七年一月十二日、六十九歳を以て死去、十四日葬儀を營んだ。」
 関東大震災に遭遇し全ての財を無くした「じいちゃん」は、一気にパワーを無くします。
 新子安の片隅に治療所を設け隠棲するように暮らし始めます。西寺尾に隠居所を持っていたようで、そこには今、叔母が住んでいます。(家業の歯科医を継いだのはこの叔母だけです)


子安町の診療所があったと思しき所 (2003年3月13日)

怪魚を退治するライ隊員 (2003年4月6日)

 うさおの家系に医師か学校の先生になった人が多かったのですが、親父はその中でも一風変わった道を歩み、強電系の電気技師になります。子供たちは親を見て育ちますので、皆、技術者になりました。
 日出彦さんは弱電系の技術者となりましたが、今は幼少より望んでいた大学の先生になりました。家系的には先生(医者か学校の先生)」と呼ばれる職業に戻っちゃいましたね。
 うさおは土建業に身を投じ、建築屋として糊口をしのいでいます。
 多分に個人史になっちゃったかなぁと、またも反省しつつ、次回は橋の欄干がいいかなあと考えているうさおでした。

 おまけに、ちょいとレトロなものが残っている港の見える丘公園(フランス山)や、山下公園をご紹介します。Cacco 隊員の力作です。
 フランス山は、維新から明治に掛けて駐留していたフランス軍を偲んでそう呼ばれています。このフランス軍の中には、函館の五稜郭に義によって参加し、殉じた将校もいます
 山下公園は関東大震災の瓦礫を埋め立てて作られました。公園の前の道路は駐車場として開放されていましたが、今は道路規制されて見る影もありません。
 日本大通は、言わずと知れた嘗ての横濱の居留区の中心街で、横濱が西欧文化に接し始めた歴史的な街です。
 今では数少なくなった煉瓦建物です。山高帽で歩いて見たい気もするなあ。


フランス山公園 (2003年4月6日)

フランス山公園 公園内の改修 (2003年4月6日)


山下公園
 (2003年4月6日)

山下公園 (2003年4月6日)

山下公園 (2003年4月6日)