祖父の漢詩 


 益田廣岱は漢詩も能くしたと謂われており、廣徳叔父が纏めたものが残っています。絵も描こうとしたらしく、真っ新な金屏風を仕入れて来て、そこに筆を入れようとしたので、家族始め、書生一同も勿体ないから止めましょうと進言しました。それでも筆を入れると言うので、皆で目を覆ったそうです。
 とりあえず祖父の漢詩です。うさおは漢詩はてんで判らないので、解説は嘘っぱちです。
 この小冊子には、叔父益田廣徳の鉛筆の添え書きがあります。それも、参考にして詠まれた経緯を推測してみます。兄の日出彦の読み解きも参考にしています。


祖父の漢詩 表紙 雑題(其ノ一)

 其の一とあるので、其の弐もどこかにある筈ですが、手元にはありません。


祖父の漢詩 ○恭奉賀大西隣子刀自喜字之盛典

 「大西社長夫人」鉛筆の添え字。
大西社長の妻女隣子夫人の喜壽のお祝いを詠んだ詩だと思われます。益田広徳著「益田廣岱」にそのような記述があり、祖父の処に夫婦揃って治療に来ていたようです。大西正雄社長は、横浜の著名な財界人で、横濱電線製造(現古川電工)、東洋製薬、横浜製鋼、大安生命保険(現プルデンシャル生命)の社長を歴任していました。


大安生命保険本社屋(現存せず)

祖父の漢詩 ○少年時代遊東都得病

 東京に遊学に出てきた時のことを詠んだのでしょうか。患って父と共に郷里に戻ったようです。慶応義塾で学んだことは知っていますが。



祖父の漢詩 〇失題

 何処か山奥に湯治に出かけて、心身ともに爽やかになったという詩でしょうか。


祖父の漢詩 ○送夾栖君之漢江

 「来栖三郎大使」鉛筆の添え字。来栖大使が漢江に赴くので、横浜港から見送った詩でしょうか。日出彦さんは来栖大使について知っていて、有名な方だと教えてくれました。調べてみると、第二次世界大戦の時の駐ドイツ特命全権大使で、日独伊三国軍事同盟締結時の駐ドイツ大使だった方で、終戦後はGHQから公職を追われてしまいます。戦前、祖父の処に治療で来られていたのか、漢詩のメンバーだったかは存じませんが、船出の見送りをするほど、親交があったようです。


祖父の漢詩 〇恭弔恩師稻村英龍大僧正

 「妻沼しょうでん様」鉛筆の添え字。渡米させてくれた恩師の稲村英龍大僧正の死を悼みて詠める詩でしょうか。


祖父の漢詩 〇訪病夫人干別莊

 「来栖大使夫人」鉛筆の添え字。病の床に臥す来栖大使夫人を見舞ったときに詠んだ詩でしょう。子供がそばに付き添って心配そうにしています。


祖父の漢詩 〇和土宜大僧正韻

 「京都仁和寺管長」鉛筆の添え字。益田家は代々真言宗です。仁和寺の僧坊に出かけたのでしょうか、大僧正の読経を聞いて心身共に軽くなった様を詠ったのだと思う。


祖父の漢詩 〇偶成

 「震災の時かも知れず」鉛筆の添え字。「偶成」とは、朱熹の漢詩で、たまたま出来た詩という意味です。五十余歳と言う年齢を考えれば、関東大震災が襲った時代かもしれません。
「少年老い易く 学成り難し
 一寸の光陰 軽んず可からず
 未だ覚めず池塘 春草の夢
 階前の梧葉 已に秋声」 朱熹


祖父の漢詩 〇梅雨偶成

 「右仝」鉛筆の添え字。窓際に座して、霧雨を見ていると、50年など一瞬のことのように思えるという詩。やはり関東大震災を経験した気持ちが影響していると思われます。この震災で、八重という幼い娘を失っています。


祖父の漢詩 〇大正十二弔土宣法龍猊下

 「前記」鉛筆の添え字。土宣法龍猊下が亡くなられたときに、詠まれた詩。先ほどの和土宜大僧正のことでしょうか。


祖父の漢詩 〇弔中山沖右衛門氏

 「横濱財界名士」鉛筆の添え字。中山氏も境町に治療によく来ていたようです。その方が亡くなられたときには、弔辞として漢詩を詠じたと思われます。



祖父の漢詩 〇新年雪

 正月に新雪が降ったのでしょうか、書窓から皇居に向けて礼拝した。天皇の徳は萬民に及ぶ、有難い気持ちで寿いだものだってことかな。いかにも明治の人と言う感じです。


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