益田廣岱 小伝 


 叔父の益田広徳は、父である益田廣岱を大変尊敬していました。血を見るのが嫌いな叔父は、歯科医師を継ぎませんでした。どこかおっとりして、世間の荒波とはかけ離れた暮らし方をしていました。父を思うその想いが募り、父親の伝記「益田廣岱」を作りました。
 もともと、文系の意識の高い叔父ですから、一度このような小冊子を作りたかったのかもしれません。


益田廣岱 表紙

 益田廣岱

東京製線株式会社重役 深沢鏸吉氏 序
横浜興信銀行重役   後藤 努氏 序
           益田広徳  著

序
益田廣岱氏は我國西洋歯科医術の先覚にして武蔵國大里郡の人、幼にして頴悟、研学の志深く先代優昌氏の後を嗣ぎ医業継承のため夙に東都に出でて慶應義塾に入り英獨等の語学を修め更に進んで米国に渡航し苦学力行西洋歯科医術の将来性あるを洞察し進んでハーバード大学に入り歯科医学を研究し研鑽数年一八九一年(明治二十三年)六月業卒へて歯科医学博士の学位を得、更に臨牀研究数年にして明治二十六年六月帰朝し横浜境庁に卜し開業して患家の治療に従事せしが温乎たる風貌と霊妙なる手腕とにより門前常に市をなせり。余が義父大西正雄夫妻口腔を病み氏の治療を乞い其の人格に服し交友多年、殊に義祖母隣子の如き治療手術を受くるのみならず進んで氏が一家と交わり懇親を結べり、余氏と面識なきも嗣子広徳君の知遇を得、又義祖母を通じて氏が人格の崇高なると家庭の円満なるとに嘆美せり、氏は又明治二十六年以来其深遠なる学識と経験とにより抜んでられて医術開業試験委員となり又自ら門戸を開きて子弟教養の任に当たり新業に盡瘁裨益する所甚大なりき。
広徳君に先に医術を欲せず実業界に入りしが温厚篤実忠孝の念深く先人の徳を慕うて先に益田廣岱なる書を刻して江湖に送り今珠嬢が先代の遺業を継ぎ日本女子歯科医学専門学校に入学せしを好機として同書を再刻せんとして来たり序を求めらる。余浅学菲才もとより其任にあらざるも辞するに詞なく蕉辞を?ねて以て序とす。
 昭和二十年 霜月
  従六位 深沢鏸吉

序
太閤孝高に問うて曰く天下何者か最も多きや応へて曰く人也復問うて曰く何者か最も少なきや、応へて曰く人也太閤嘉せり。
勿論史実は問わず余亦人の少なきを憂うる者なり、世の人誰か富貴を希はさらん然れども唯富貴を希うは是一人の富貴にすぎず世の益する所なし、却而富貴なる者傾城傾国の難を招聘せること
古今東西尠からず時局を顧みて甚感に堪えさるなり
吾益田廣岱先生の如きは世の名利に超然として一人の富貴を希はず青年にして遠く米国に医を学修し帰国唯世のため後学のため全霊を捧げられる真に至誠博愛の士と謂ふべし、息広徳氏人となり先生に髣髴余幸に交り深し
本書を著はさるるに当り題字を乞わるること三度余其人に非ず
熟感して本文を草す。
 昭和二十一年四月二十八日
  後藤 努

父益田廣岱逝いて十有三年、年経るごとに追慕の念深く其小傳及業績を綴って知己に領って遺香を偲ぶのよすがとす。
唯関東大震災により日記其他の資料の大部を烏有に帰し詳述し能わぬを怨とす。草稿には詩を収録し字義を附す。
本書を執筆するについて東京都日比谷圖書館と上野圖書館へ行く事二回左記の著書を読み負ふ処が多い。
 日本歯科医師会編纂歯科衛生史、松尾保著歯科医事輯覧
  著者しるす

目録
写真 横浜興信銀行頭取 書   柳沢 紘一   氏
   益田廣岱像 
書状 元左右田銀行重役     左右田 棟一  氏
書状 神奈川県歯科医師会長   山本 光三郎  氏
書状 東京歯科大学長      奥村 鶴吉   氏
書状 元美術研究所長      矢代 幸雄   氏
書状              中山 沖右衛門 氏

一 小 傳
二 業 蹟
三 遺 稿
四 雑 記


柳沢 紘一氏 書

診療室

祖父益田廣岱

前略 御尊父十三回忌に当り御作成の伝記御寄贈難有存候。
早速拝見致し目の当り御尊父の面影に接する心地致し今更ながら追憶の念に打たれ申候。御尊父の逝界に於ける第一人者たることは豫てよく承知のことなるも漢詩などの御趣味のあることは始めて承知致し其高雅なる人格に一層経緯を催す次第に候。 後略
 昭和十九年十一月二十二日  左右田 棟一

拝啓 甚暑之折柄愈々御清福之段奉慶賀候。
さて今回はお父君御経歴頂戴仕り奉鳴謝候。御厚意により本会よりの報告に光彩を得候段、洵に難有早速日本歯科医師会に通達可仕候
右不取敢以書中御礼まで申述度候 敬具
 昭和十二年七月十七日 神奈川県歯科医師会長 山本 光三郎

拝啓 故益田先生御伝記御恵送被下拝受仕候厚く御礼申上候。
平素御無沙汰にのみ打過居候次第申訳御座なく候不取敢御挨拶迄
 昭和二十一年六月六日   奥村 鶴吉

恭啓 御尊父益田廣岱翁の略伝御編纂御寄贈賜り奉深謝候寔に御孝心の至りに候 御尊父の霊億々満足の事と拝察仕り候 小生少年時代境町に在住いたし御尊父の御治療を受けたること数知れず五十年前の記憶恍として夢の如くに御座候先は御礼如斯御座候恐々煌々
 昭和二十二年四月三日  矢代 幸雄

前略 幼少の項祖母や父母につれられて境町の御宅にしばしば伺いましては治療を願ったこともあります只今御写真を拝見して記憶は順次うかびあがってまいりました 後略
 昭和二十八年十一月二十六日  中山 沖右衛門

一.小傳

益田廣岱は慶応元年三月一日埼玉県大里郡明戸村大字石塚、益田優昌の長男として生れ、優昌は医師を業とし傍農業にも従事した、明治九年勉強する為に同郡妻沼町歓喜院に奉公し大僧正稲村英龍師に就き修行す。明治十一年項画家漢学者などと住職稲村英龍師の御供に加はり徒歩にて奈良、京、大阪から高野山に昇る。
後歓喜院より選ばれて給費生なり東京に出で慶應義塾に学び、明治十六年十九歳で渡米した。学都ボストンに至り苦学して、ハイスクールに通ふ。
明治二十年六月ドクトル、ニツコルス氏の書生となりマサチユウセツツ州ケンブリツジのハーヴァード大学歯科学部に入学し、二十三年六月七日卒業、ドクトル、メジチーネ、デンタリエーの学位を得たこのとき最も喜びたるは親戚以外友人以外実にドクトル、ニツコル氏であった。帰朝してからもⅩマスになると文豪の著書が届けられ廣岱の詩がテニソンに似ているといつて、テニソンの詩集が送られた事もある、同年十二月米国合衆国政府の開業試験に合格し開業免状を授与された。明治二十六年帰朝し、六月内務省歯科医術開業免状第五十二号を授与せらる。初め横浜市石川に開業したが、三ヶ月にして谷戸坂に移り、更に一ケ年後境町に転じた。大正十二年関東大震災の為に自宅は焼失し和漢洋の蔵書ことごとく灰となり神奈川区子安町三二〇四番地に開業、生を終わるまで継続した。明治二十八年十月、同三十一年四月医術開業試験委員を命じられる、三十五年四月と三度試験委員に任じられた。明治二十七年横浜歯科医学研究講師を嘱託せられ、同年五月米国東洋艦隊臨時歯科医を嘱託せられた。明治三十二年赤坂離宮の菊花拝観を許され三十六年三月功績によって正七位に叙せられ、三十九年三十七、八年戦役の際報国の賞として木杯五個竝に症状を賜った。又大正になってから多年の功労により大正五年十二月銀杯一個?に辞令書を賜った。妻は東京市芝区松本町七、歯科医長井寅蔵の二女むめ(明治十二年生)で長井兵助の従姉に当たる。
廣岱は臨床の傍西寺尾町六六六の閑地に隠宅を設け老後を養つてゐたが、昭和七年一月十二日六十八歳を以て死去、戒名を智賢院広徳清岱居士といふ。十四日葬儀を営む。墓は生家の近くにあり。趣味としては漢詩を嗜み晩年万葉集にも親しんだ。尚ほ運動には水泳を行ひ、著書には歯牙の価、わが遊学の記がなどがある。
(年月不詳日本歯科医事衛生編纂集出表せらる、)昭和十五年日本歯科医師会長血脇守之助氏より歯科医事衛生史を寄贈せらる。
昭和十九年益田広徳著益田廣岱成る。(昭和二十年珠、専攻部卒業以来勤めていた横浜興信銀行をやめて日本女子歯科医学専門学校へ入学す。)
昭和二十一年十月東京歯科大学長奥村鶴吉氏より大学設立認可記念式招待状来る。
昭和二十二年三月日本歯科医師会名誉会長血脇守之助氏御逝去の報来る、昭和二十四年三月、珠日本女子歯科医学専門学校を、同校医学士の称号と精勤賞を受けて卒業す。ついで六月珠歯科医師国家試験に合格す。廣岱が西暦千八百九十年米国合衆国国家試験に合格してより此に六十年を隔て、遺業を継ぐ。
註。稲村英龍師には膝下を離れてからも常に消息を傳へ帰朝してからは折を見て歓喜院や京都の栂尾山の隠居所に老僧を訪れた。
ハイスクールではトミー氏の手傳をしながら勉強した。
医術開業試験委員は十三年に渡り委員長は長興専斎氏後後藤新平氏であった。(一度大阪で他は東京で其職務に就いた。)
横浜歯科学研究会は毎月一、二回開催し月謝は無く報酬として盆暮に石油一缶、タオル一ダース等届けられたが数年後に閉会した。米国東洋艦隊歯科医の嘱託は約十年継続した。
同業の友は高山記斎氏、伊沢信平氏で詩壇の交友は歓喜院時代の先後輩が多く、しばしば来られた方には新渡戸稲造氏、寧静木村利右衛門氏、矢代幸雄氏、左右田喜一郎氏がある。
長井兵助については某藩の典医の出で代々入歯、歯抜、口中治療及び居合抜を業とす、又松井源水は曲独楽と歯療とを以て業とすとある、
門に入り一家をなした主なるものは次の如くである。
塩島元四郎氏 東京市開業
大久保潜龍氏 神田区駿河台に開業、東京女子歯科学校を設立す、
関田保太郎氏 埼玉県開業
佐藤梅次郎氏 新潟県開業
吉川繁次氏  長野県飯田市開業
梅原稔氏   青森県青森市開業
岡部鱗次郎氏 仙台市開業
丹羽信氏   長野県飯田市開業後羽生と改姓
長谷川明一氏 新潟県開業
奥村鶴吉氏  医学博士、昭和二十一年東京歯科大学長
山本光三郎氏 横浜市開業神奈川県歯科医師会長元横浜市会議員横浜歯科医師会長
菅沼明氏   横浜市開業
菅沼亥惣次氏 横浜市開業
三輪某氏   静岡市開業
斉藤清氏   東京市開業
斉 幸治氏  仙台市開業
福田重次郎氏 静岡県伊豆開業 医師、歯科医師
落合某氏   東京市開業
園田貞造氏  埼玉県開業

二.業績

少壮御関を出でて帝都に入り慶應義塾に学び語学を研究し更に遠大の志を抱いて渡米し苦学力行西洋歯学医術の将来性あるを洞察し進んでハーバード大学に入学し研鑽数年業卒へて帰朝し居を横浜に定めて口腔医術を開業し傍ら子弟教養の任に当り我国泰西医術の拡張に盡粋する所少なくなかった。
泰西医術の我国の傳来せる経路は詳らかでないが大略左の如くである。
支那から漢学によって傳はり葡萄牙人、和蘭人から南蠻医学或は蘭医学として傳はり、来朝せる外人歯医医から直接に傳はり又日本の留学生が歯科医術を学び帰国して本邦に紹介したものである。私塾についても之等の人々が当たったが明治中世になって高山記斎氏がドクトル、ヴァンテンボルグに師事して明治十一年帰朝し次いで伊沢信平氏が二十四年ハーバード大学を卒業し独逸に渡り、コツホ教授につき講習を受け二十五年帰朝し、益田廣岱は明治二十三年ハーバード大学を卒業し、更に金充填の大家歯科医リビー氏につき指導を受け、明治二十六年帰り、いづれも歯科医術試験委員となり又学徒のために私塾を開いた。

三.遺稿

ハーヴァード大学 齒科ドクトル 益田廣岱

〇少年時代遊東都得病
奮 然 負 笈 遊 東 京
苦 雨 酸 風 痼 疾 生
隨 父 驅 車 歸 舊 里
草 蘆 晝 靜 午 眠 淸

〇梅雨偶成
霖 雨 標 梅 大 月 天
晝 窓 独 坐 意 凄 然
回 頭 往 事 一 場 夢
空 夢 人 生 五 十 年

〇大正十二弔土宣法龍大僧正               
名 事 夙 響 地 東 西
法 位 抜 群 徳 望 崇
巳 了 傳 燈 帰 寂 滅
頻 悲 烏 語 夕 陽 空      

〇恭奉賀大西隣子刀自喜字之盛典
玉 樓 新 築 出 風 塵
多 福 入 門 常 似 春
喜 字 齡 來 更 钁 鑠
壽 莚 今 日 酌 芳 醇

〇炎熱如烹坐而到朝
夜 来 炎 威 恰 如 烹
厳 外 沈 沈 夜 気 清
斜 月 残 燈 時 未 明
遥 聞 遠 寺 焼 鐘 声

〇和土宣大僧正韻
洗 暑 飛 泉 涼 味 生               
夢 醒 浮 世 一 身 軽
不 知 何 日 訪 禅 室
倶 聞 清 風 流 水 声

字義土宣大僧正仁和寺管長法龍猊下ナリ

〇偶成
五 十 余 年 夢 一 場
甞 來 世 味 幾 炎 涼
省 身 微 笑 有 何 物
胸 底 唯 余 鐵 石 膓

〇恭弔恩師稻村英龍大僧正
驅 車 卅 里 晩 春 天
靈 骨 深 埋 利 水 邊
回 顧 往 事 皆 如 夢
數 坐 法 筵 参 清 禅

〇忌中山沖右衛門氏
人 生 如 夢 又 似 烟               
魂 魄 一 去 呼 不 還
春 日 葬 氏 芳 樹 下
芳 名 不 朽 幾 千 年

〇訪病夫人干別莊
靜 臥 病 床 閑 院 中
愛 兒 侍 側 孝 心 濃
水 淸 風 夾 松 林 夕
池 畔 月 明 感 無 窮

〇新年雪
雪 満 四 山 年 亦 新
書 窓 早 起 拝 宮 宸
旭 旗 松 竹 家 々 酒
帝 徳 無 窮 及 万 民

〇失  題
百 里 車 行 初 夏 天
白 雲 深 處 有 温 泉
水 淸 山 秀 心 身 夾
留 浴 三 朝 骨 欲 仙

〇送夾栖君之漢江
春 日 送 君 濱 港 頭
汽 笛 一 聲 引 離 愁
料 知 明 月 船 窓 夢               
穏 渡 長 江 萬 里 流    

字義来栖君来栖三郎氏漢口領事米國大使ニ歴任濱港横濱港ナリ

四.雑記

歯科医師免許證
     埼玉県
          益田廣岱
           慶応元年三月一日生

西暦千八百九十年六月北米合衆国ハーバード大学歯科部ニ於テ受領シタル卒業證書ヲ審査シ明治三十九年法律第四十八号歯科医師法及明治三十九年勅令第二百四十五号ニ依リ歯科医師タルコトヲ免許ス。
仍テ此ノ證ヲ授与ス。
 大正十三年十一月十二日
  内務大臣   若槻 礼次郎
本免許ハ第五二号ヲ以テ歯科医籍ニ登録ス
  内務省衛生局長 山田 準次郎

横浜市歯科医師会会則第二十八條ニ據リ貴下ヲ横浜市歯科医史編纂顧問ニ委嘱仕候也
 昭和三年十一月十五日
 横浜市歯科医師会長 山本 光三郎
益田廣岱殿

表彰状
     益田廣岱殿
貴下ハ斯界ノ先覚者トシテ斯道ノ向上発展ニ盡瘁セラレタルノ功不少今ヤ聖帝御即位ノ礼ヲ挙ケサラルルニ際シ銀杯壱組ヲ贈呈シ表彰ス
 昭和三年十一月十四日
  神奈川県歯科医師会長 池田 徳太郎
     
表彰状
     益田廣岱殿
貴下ハ多年本会ノ発展ニ盡瘁セラレタル功績尠カラズ依テ今回歯科医師法改正ノ爲メ本会解散ニ方リ總回ノ決議ヲ以テ銀杯壱個ヲ贈呈シ其功労ヲ表彰シ併セテ感謝ノ意ヲ表ス。
 昭和二年三月三十一日
  横浜市歯科医師会長 近藤 恵観

弔詞
本会々員益田廣岱君突如トシテ長逝セラル君ハ本邦歯科学会ノ先覚者ニシテ夙ニ米國ニ学ビ業ヲ卒エテ帰リ本県ニ開業セラルルヤ学徒其門ニ集ル者多ク後進ノ教ヲ得テ今日我ガ業界ニ重ヲナスニ至レルモノ亦不尠時ノ政府亦君ヲ歯科医師試験委員ニ任ジ以而其道ノ向上啓発ニ努メシメ其功績ノ大ナルヤ實ニ我ガ歯科界ノ国宝ナリト云フベシ茲ニ神奈川県歯科医師会ハ恭シク霊前ニ香花ヲ贈リ弔詞ヲ捧グ賀クハ君ノ霊来リ響ケヨ 再拝
 昭和七年一月十四日
  神奈川県歯科医師会会長 関川 康民

前略 今回本会にて横浜市歯科医史の編纂を仕り度と存候が同時に東京にても日本歯科医史編纂の事あり本市の医史は尤も重大なる位置を占む可き事と存じ候が此之際恐入候得共先生の御助力により左記御回答相煩し度只管御願申上候。
  横浜市歯科医師会 山本 光三郎
 
記
一、先生の渡米年と御帰朝の年
二、横浜市開業の当時に於ける本市同業者の模様
三、横浜歯科医学研究会の講師としての年?に終りの年
四、医術開業試験委員任命の年?に退職の年
五、奥村鶴吉君入塾の年?に退塾の年
六、其他御記付の点
  欄筆

昭和十九年一版
昭和二十八年十一月二十六日 再刻
    著者 益田 広徳

※?の字は旧字の「并:ヘイまたはピョウ」の字です。 当用漢字に無いので変換出来ませんでした。

 祖父益田廣岱が医術開業試験委員に任命されたことから、正七位に叙勲されたときの貴重な資料が、ネット上にありました。特別のご許可を頂いて再掲させて頂きました。大変感謝です。詳しくは以下のブログをご覧ください。
 この中に歯科医師の同業の友、伊沢信平氏の名前も見えます。

https://kazuo1947.livedoor.blog/archives/cat_377503.html

叙正七位
            魚住完治
            益田広岱
            緒方正清
            渡邉晋三
            伊沢信平
            緒方収二郎
            伊庭秀栄
            佐々倉永三郎
            寺田織尾
            土岐文二郎
            秋元隆次郎
            橋田茂重





益田廣岱 外傳

 ここで、うさおのうろ覚えな爺さんの話を並べてみます。

〇ボストンに行く列車で強盗にあったとか、拳銃で撃たれた話も聞くが怪我は無かったのか、お金は盗られたらしい。
〇持って行ったお金五拾圓は貨幣価値が違い遊銭にもならなかったと聞いています。

〇益田家の本流だと聞いているツクイさんについては、あやふやで、関係が分からない。

〇境町(日本大通り)に住んでいた。診療所は、横浜公園の前の日本大通りに面していた。 横浜開港資料館の地下にある古い住宅地図を見ましたが、名前は出ていませんでした。
 叔母の話では、朝日新聞社の斜め前あたりで、あの当時の風潮で借家だったかも知れない。

〇田舎の墓には「藤原の朝臣(あそん)益田の何某」と刻まれていたのは見た記憶があります。

〇叔母の話では、診療所の隣には、遠藤スーベニア店、佐藤政五郎商店(鐵を扱っていた商人で、後に衆議院議員になったそうです)が並んでいた。

〇保土ヶ谷に山林を所有しており、山守を雇っていた。山守の対価は山で伐採された樹木の売却費を当てたそうです。

〇絵、漢詩が趣味だった。

 うさおより記憶の確かな兄の日出彦さんから教えて貰った外傳を述べておきます。

◎父から聞いていた話では、横濱から桑港(サンフランシスコ)に航路で、桑港から多分波士敦(ボストン)までは大陸横断鉄道で行ったようですが、途中列車強盗に遭遇したそうです。
 父からは〝手を挙げろ〝hold up"という学校では習わない英語を教わりました。お金は盗られたようですが撃たれはしなかった筈です。無事、波士敦に到着していますから。(ただ、この当時鉄道会社がいくつか連携して繋がっているので、何度も乗り換えたのではないかと思いますが。桑港ではなく西部劇に出てくる桜府(サクラメント)が始発かも。哈馬哈(オマハ)まで行って乗り換え?。調べると面白いと思います。)

◎家系は筑井(つくい)さんではなかったか。
 「つくいさん」の家は埼玉の益田家の裏隣にありました。筑井さんは孝平さんという方が当時の当主で、明さん(嫡男)の親です。孝平さんは智譽叔母さんの旦那の晋平さんと同年代だったように思います。また、優昌爺さんは孝平さんの二代前の当主の兄弟だったと思われます。
 小生の同級生に本家の男の子がいました。同じクラスにはなりませんでした。明さんは自分と同年ではなく一年か二年上だったと思います。智譽叔母(廣岱の娘)さんが明戸小学校の先生なったのは、何か力が働いたのかも。親戚なので。

◎益田家は石塚地区の小学校へ向かう道の先端にある増田家の人(名前は不明)が始祖です。近藤勇とほぼ同時代に、江戸に出て、剣術を習い、故郷に戻ってから、(長男だったけど弟に家督を譲り)分家して益田家を興しました。剣術の道場を開き、余技に漢方医もしていたようです。
 生涯妻帯せず、悠々自適で過ごしたそうです。家は養子をとって後を立てました。この養子が優昌ひい爺さんです。
当時、妻沼(?)小学校の校長をしていた「つくいさん」の子供で、頭が良いとの評判だったため、養子にしたそうです。
 このひい爺さんが益田家を裕福にした人で、いろいろ逸話がありますね。とにかく、かなりアコギに農地を買い集めて多くの小作人を使っていたようです。本業の医者はそれなりに繁盛していたようですね。何しろ、村に一軒しかなかったので。
 ところで、小生の同級生だった「つくいさん」ちの明さんも成績上位でした。本家である増田さんちの子も同級生でしたが、こちらはそれほどではありませんでした。いずれにしても、益田の血は「つくいさん」から来ています。

◎墓の銘が藤原であることは小生も確認しています。父からは藤原でも、むかで退治の俵藤太、つまり平将門を成敗した人の子孫であると聞いていますが、本当かどうかあやしい。

◎増田(益田)家は本来下流にある江原地区(隣は妻沼に近い)にいたそうですが、利根川の氾濫が何度もあって、今の石塚地区に引っ越してきたそうです。(明治なのか江戸なのか不明)
 その因縁で、小生が母と疎開した先が江原の小暮さんという家の離れでした。
 その他については、その通りかと思います。

◎ 益田(増田?)の一家(というよりもあの本家のあるあたりに住む一部落全体が利根川の氾濫にあい、安全な土地に移ってきたようです)が、かつて江原の方に住んでいたことが、後に廣岱じいさんが妻沼の歓喜院から資金援助してもらうことになる遠因の一つになっているのではないか(父や「たか」大叔母さんから(廣岱じいさんは)「神童」といわれていたという話も聞いているので、利発だったことが大きいでしょうが)と推察します。

◎少なくとも、「たか」大叔母さんは江原の方にも顔が利く人で、疎開先を探してくれた以外にも、小生がお供で江原の凄い旧家(大人になって思うとですが)にいって、そこの子と庭先で遊んだ記憶があります。


歓喜院聖天堂と本家の位置関係 googleより

余分な註釈

※木村利右衛門氏は、千葉の人ですが横浜に移り横浜正金銀行を設立し、横濱電気株式会社(後に東京電燈株式会社と合併します、初代社長は高島嘉右衛門氏、木村利右衛門氏は二代目)、横浜電線製造株式会社(現古川電工)の社長になります。先ほどの配置図で見ると、二つの会社は隣り合わせであったようです。
 木村利右衛門氏は漢詩を嗜んでいたそうですので、祖父廣岱とも趣味の交誼があったと思われます。うさおの父は、電気技師で東京電燈(後関東配電、更に後に東京電力)に勤めていました。祖父の紹介があったのかも知れません。


木村利右衛門像 横濱電気株式会社沿革史より

旧横濱正金銀行本店 現神奈川県立歴史博物館 2018年5月6日

※中山沖右衛門氏は、「横濱成功名誉鑑」によれば「元町貯蓄銀行」の頭取で、横濱村の名主で素封家です。なかなか面白いので引用します。
「横濱成功名誉鑑 元町方面の古老 中山沖右衛門君
君は横濱土着の家にして累世農商を營みしが、明治二年政府より両替渡世を命ぜられ中尾といへる屋號を付せらる明治四年玉川上水引用のことに關してその敷設の發起人となり、後七十四銀行の創立に参加せり、多年懸會議員名誉職市参事會員等に挙げらる、元町貯蓄銀行を起こし目下令息豊吉氏をして頭取たらしめ、明治三十六年十一月家督を讓りて分家し、自ら同銀行の取締役となりて老後を送らる、君は弘化二年三月一五日を以て生る」


横濱成功名誉鑑 表紙

当該ページ 中山沖右衛門像 横濱成功名誉鑑より

株式会社元町貯蓄銀行 名刺

吉田橋際の元町貯蓄銀行(正面の塔) 女性像が怖い

「横濱人物一口評 中山沖右衛門君
君は性活潑にして天才あり人望あるは君の一徳にして一見紳士と見ゆ、きみ若かりし時、何か屈託して家事には少しも頓着せざりし事あり、或る時嚴君之を戒めて云はく、勤愼と勤儉は實に人の其の元たるものなり、然るに今汝之れを修めずと云うは何ぞや、汝果して之を修むる事能わざる乎と細かに人の處世の道理を説く、是より奮然激励し身を愼み家を節す、幾千ならずして今の財産家となり、當市に嚴然頭角を露すに至れり、是君の才能に由ると云へ其實嚴君の教への結果に至れるものに非るなきを得ん乎、而して君は財を惜しまず、人を恤み亦財を抛って公私の爲めに盡すと、自愛せよ中山君健ならしめよ沖右衛門君
△不肖乍ら私し共も水道の事に付ては多少意見を云ふた事が有升たが或所より考へて見升と水道は重寶です實に無てなら無い物です御承知の通り當地には隨分度々失火が有升が皆大火に成ませんのは一は消防の働きとは云へ實に水道が有故です彼の聖人は諸侯の財寶は土地人民政治と云はれしが横濱の財寶は水道です」


横浜人物一口評 表紙

 さて、中山沖右衛門夫妻は祖父廣岱の処に治療に通っていました。先ほど述べたように中山沖衛門は、「元町貯蓄銀行」の頭取、取締役として知られていた著名な財界人です。横濱電気株式会社と東京電燈株式会社の合併のときの立会人の一人です。
 横濱電気株式会社といえば、東急高島町駅前から二代目横浜駅が掘り出されたときに、更にその地下から煉瓦造りの地下洞道が見つかりました。これが横濱電気が所有していた裏高島火力発電所の冷却水の取水道(多分帷子川からと思われます)だったのです。
 

第二代旧横濱駅 煉瓦基礎跡 2003年6月26日

煉瓦基礎跡 この地下から火力発電所が発見 2003年6月26日

大正四年 二代目旧横濱駅 横浜開港資料館蔵

 その当時の図面がこれです。


配置図 黄色が発電機 横濱電気株式会社沿革史より

 この地域の帷子川は汽水域となるところです。河川水の塩分濃度が海水の半分ほどで、鉄筋コンクリートの橋脚や擁壁などに、鉄筋の錆びによる爆裂が生じ、コンクリートを破壊していきます。取水の洞道が鉄筋コンクリート製ではなく、鉄筋の入らない煉瓦造であったのは頷けます。取水口は川底にあったと思いますが、結構ヘドロが堆積しており、現在、もし、取水口が存在していても埋没していると思います。でも、見てみたかったですね。


本社および発電所 横濱電気株式会社沿革史より

裏高島発電所 明治34年 横濱電気株式会社沿革史より

発電機と思われる 横濱電気株式会社沿革史より

子之神山變電所 横濱電気株式会社沿革史より

 煉瓦造りの変電所は、上部に付いた丸窓など、金沢八景駅の変電所に趣が似ています。


金沢八景駅変電所 2015年2月28日

 うさおの煉瓦趣味と合致しましたね。中山沖右衛門は、熱烈な鉄道マニアであったとも聞いています。鉄道友の会の会員で、「Rail Fan」はその会誌でした。

※大西正雄社長は、横浜の著名な財界人で、横濱電線製造(現古川電工)、東洋製薬、横浜製鋼、大安生命保険(現プルデンシャル生命)の社長を歴任していました。娘婿の深沢鏸吉氏は東京製線株式会社の重役です。


大安生命保険本社屋(現存せず)

※来栖三郎氏は、大使として有名な方だと兄から教えてもらいました。第二次世界大戦時の駐ドイツ特命全権大使であり、日独伊三国軍事同盟締結時の駐ドイツ大使でした。終戦後はGHQから公職を追われました。戦前から、祖父と親交があったのでしょう。

※新渡戸稲造氏は著名な人物で、日本の教育者であり、思想家です。札幌農学校(現北海道大学)の二期生で、農学にも長けた人物です。北海道や、台湾には赴任されていました。さて、祖父との関わりが今一つ、判りません。患者年て通っていたことも無いようですので、考えられることはひとつです。新渡戸稲造氏が台湾に赴いたのは、台湾総督府民政長官の後藤新平氏に招聘されたからです。祖父廣岱が歯科医術開業試験委員を行っていた時の試験委員長は長興専斎氏と、その後は後藤新平氏でしたので、後藤新平氏の縁で面識が出来たのではと考えています。

※兄が父から聞いた祖父の話では、ニッコルさんは父からも聞いたことがあるそうで、もう一人、リッチモンドさんという方の記憶があるそうです。兄の推理では、リッチモンドさんは「小傳」には出てこないので分からないけれど、一つの推理は「ご飯だよー」という英語が下宿先で最初に理解できたという祖父のエピソードから下宿屋の人だったか、もう一つの推理は10代か20代のころ、米国から父に洋行の話がきましたが、母親のむめさんに反対されて断念したというエピソードから、その時の身元引受人かも知れないというもの、いづれにしても、今では確認のしようがありません。

※兄によると歯科医師会の「歯の博物館」の展示コーナーに、見かけた冊子は埼玉(深谷の本家)のことなど、もっと細かに書かれていたものであったようだと言うことで、また、「歯の博物館」に行ってみましょう。


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