叔父の益田広徳は、父である益田廣岱を大変尊敬していました。血を見るのが嫌いな叔父は、歯科医師を継ぎませんでした。どこかおっとりして、世間の荒波とはかけ離れた暮らし方をしていました。父を思うその想いが募り、父親の伝記「益田廣岱」を作りました。
もともと、文系の意識の高い叔父ですから、一度このような小冊子を作りたかったのかもしれません。
益田廣岱 表紙
柳沢 紘一氏 書
診療室
祖父益田廣岱
※?の字は旧字の「并:ヘイまたはピョウ」の字です。 当用漢字に無いので変換出来ませんでした。
祖父益田廣岱が医術開業試験委員に任命されたことから、正七位に叙勲されたときの貴重な資料が、ネット上にありました。特別のご許可を頂いて再掲させて頂きました。大変感謝です。詳しくは以下のブログをご覧ください。
この中に歯科医師の同業の友、伊沢信平氏の名前も見えます。
https://kazuo1947.livedoor.blog/archives/cat_377503.html
叙正七位
魚住完治
益田広岱
緒方正清
渡邉晋三
伊沢信平
緒方収二郎
伊庭秀栄
佐々倉永三郎
寺田織尾
土岐文二郎
秋元隆次郎
橋田茂重
歓喜院聖天堂と本家の位置関係 googleより
※木村利右衛門氏は、千葉の人ですが横浜に移り横浜正金銀行を設立し、横濱電気株式会社(後に東京電燈株式会社と合併します、初代社長は高島嘉右衛門氏、木村利右衛門氏は二代目)、横浜電線製造株式会社(現古川電工)の社長になります。先ほどの配置図で見ると、二つの会社は隣り合わせであったようです。
木村利右衛門氏は漢詩を嗜んでいたそうですので、祖父廣岱とも趣味の交誼があったと思われます。うさおの父は、電気技師で東京電燈(後関東配電、更に後に東京電力)に勤めていました。祖父の紹介があったのかも知れません。
木村利右衛門像 横濱電気株式会社沿革史より
旧横濱正金銀行本店 現神奈川県立歴史博物館 2018年5月6日
※中山沖右衛門氏は、「横濱成功名誉鑑」によれば「元町貯蓄銀行」の頭取で、横濱村の名主で素封家です。なかなか面白いので引用します。
「横濱成功名誉鑑 元町方面の古老 中山沖右衛門君
君は横濱土着の家にして累世農商を營みしが、明治二年政府より両替渡世を命ぜられ中尾といへる屋號を付せらる明治四年玉川上水引用のことに關してその敷設の發起人となり、後七十四銀行の創立に参加せり、多年懸會議員名誉職市参事會員等に挙げらる、元町貯蓄銀行を起こし目下令息豊吉氏をして頭取たらしめ、明治三十六年十一月家督を讓りて分家し、自ら同銀行の取締役となりて老後を送らる、君は弘化二年三月一五日を以て生る」
横濱成功名誉鑑 表紙
当該ページ 中山沖右衛門像 横濱成功名誉鑑より
株式会社元町貯蓄銀行 名刺
吉田橋際の元町貯蓄銀行(正面の塔) 女性像が怖い
「横濱人物一口評 中山沖右衛門君
君は性活潑にして天才あり人望あるは君の一徳にして一見紳士と見ゆ、きみ若かりし時、何か屈託して家事には少しも頓着せざりし事あり、或る時嚴君之を戒めて云はく、勤愼と勤儉は實に人の其の元たるものなり、然るに今汝之れを修めずと云うは何ぞや、汝果して之を修むる事能わざる乎と細かに人の處世の道理を説く、是より奮然激励し身を愼み家を節す、幾千ならずして今の財産家となり、當市に嚴然頭角を露すに至れり、是君の才能に由ると云へ其實嚴君の教への結果に至れるものに非るなきを得ん乎、而して君は財を惜しまず、人を恤み亦財を抛って公私の爲めに盡すと、自愛せよ中山君健ならしめよ沖右衛門君
△不肖乍ら私し共も水道の事に付ては多少意見を云ふた事が有升たが或所より考へて見升と水道は重寶です實に無てなら無い物です御承知の通り當地には隨分度々失火が有升が皆大火に成ませんのは一は消防の働きとは云へ實に水道が有故です彼の聖人は諸侯の財寶は土地人民政治と云はれしが横濱の財寶は水道です」
横浜人物一口評 表紙
さて、中山沖右衛門夫妻は祖父廣岱の処に治療に通っていました。先ほど述べたように中山沖衛門は、「元町貯蓄銀行」の頭取、取締役として知られていた著名な財界人です。横濱電気株式会社と東京電燈株式会社の合併のときの立会人の一人です。
横濱電気株式会社といえば、東急高島町駅前から二代目横浜駅が掘り出されたときに、更にその地下から煉瓦造りの地下洞道が見つかりました。これが横濱電気が所有していた裏高島火力発電所の冷却水の取水道(多分帷子川からと思われます)だったのです。
第二代旧横濱駅 煉瓦基礎跡 2003年6月26日
煉瓦基礎跡 この地下から火力発電所が発見 2003年6月26日
大正四年 二代目旧横濱駅 横浜開港資料館蔵
その当時の図面がこれです。
配置図 黄色が発電機 横濱電気株式会社沿革史より
この地域の帷子川は汽水域となるところです。河川水の塩分濃度が海水の半分ほどで、鉄筋コンクリートの橋脚や擁壁などに、鉄筋の錆びによる爆裂が生じ、コンクリートを破壊していきます。取水の洞道が鉄筋コンクリート製ではなく、鉄筋の入らない煉瓦造であったのは頷けます。取水口は川底にあったと思いますが、結構ヘドロが堆積しており、現在、もし、取水口が存在していても埋没していると思います。でも、見てみたかったですね。
本社および発電所 横濱電気株式会社沿革史より
裏高島発電所 明治34年 横濱電気株式会社沿革史より
発電機と思われる 横濱電気株式会社沿革史より
子之神山變電所 横濱電気株式会社沿革史より
煉瓦造りの変電所は、上部に付いた丸窓など、金沢八景駅の変電所に趣が似ています。
金沢八景駅変電所 2015年2月28日
うさおの煉瓦趣味と合致しましたね。中山沖右衛門は、熱烈な鉄道マニアであったとも聞いています。鉄道友の会の会員で、「Rail Fan」はその会誌でした。
※大西正雄社長は、横浜の著名な財界人で、横濱電線製造(現古川電工)、東洋製薬、横浜製鋼、大安生命保険(現プルデンシャル生命)の社長を歴任していました。娘婿の深沢鏸吉氏は東京製線株式会社の重役です。
大安生命保険本社屋(現存せず)
※来栖三郎氏は、大使として有名な方だと兄から教えてもらいました。第二次世界大戦時の駐ドイツ特命全権大使であり、日独伊三国軍事同盟締結時の駐ドイツ大使でした。終戦後はGHQから公職を追われました。戦前から、祖父と親交があったのでしょう。
※新渡戸稲造氏は著名な人物で、日本の教育者であり、思想家です。札幌農学校(現北海道大学)の二期生で、農学にも長けた人物です。北海道や、台湾には赴任されていました。さて、祖父との関わりが今一つ、判りません。患者年て通っていたことも無いようですので、考えられることはひとつです。新渡戸稲造氏が台湾に赴いたのは、台湾総督府民政長官の後藤新平氏に招聘されたからです。祖父廣岱が歯科医術開業試験委員を行っていた時の試験委員長は長興専斎氏と、その後は後藤新平氏でしたので、後藤新平氏の縁で面識が出来たのではと考えています。
※兄が父から聞いた祖父の話では、ニッコルさんは父からも聞いたことがあるそうで、もう一人、リッチモンドさんという方の記憶があるそうです。兄の推理では、リッチモンドさんは「小傳」には出てこないので分からないけれど、一つの推理は「ご飯だよー」という英語が下宿先で最初に理解できたという祖父のエピソードから下宿屋の人だったか、もう一つの推理は10代か20代のころ、米国から父に洋行の話がきましたが、母親のむめさんに反対されて断念したというエピソードから、その時の身元引受人かも知れないというもの、いづれにしても、今では確認のしようがありません。
※兄によると歯科医師会の「歯の博物館」の展示コーナーに、見かけた冊子は埼玉(深谷の本家)のことなど、もっと細かに書かれていたものであったようだと言うことで、また、「歯の博物館」に行ってみましょう。