入江川散策図  その一  2003年1月3日・20日


入江川散策図  その一 散策図の凡例 2003年1月3日・20日


@富士見橋:冒頭の写真がそれ!入江川の河口は首都高速に沿って横に運河のように通っており、これも「入江川」と呼ばれています。橋の始めがこれ!船宿が多くあり遊漁船が多い処です。新子安の超高層が後ろに聳えていて、新旧の差を感じられます。この富士見橋の袂に漁船のドックがあります。今も現役で働いているようで、このインクライン(軌条)がなんとも雰囲気ですね。これから先、横浜港、東京湾での漁業はどうなるのでしょうか。あまり未来は無いように思えます。
 これも棄景の一つになって行くのかも知れません。上を走っているのは、首都高速横羽1号線ですが、今、ここの仕事をしているのであまり景色を楽しめないなあ。


入江川散策図  その一 富士見橋・入江川運河 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 取材するCacco 隊員 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 マラソンの旗を貰って来た うれしいライ隊員 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 ←ドック・欄干 → 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 ドック インクライン 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 ドック 高架下から富士見橋を見る 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 ドック 入江川運河を望む 2003年1月3日・20日

A入江橋:母は此の地の生まれで、幼少のときはこの濱で海水浴をしたと言ふ。昔は水も澄み砂濱だったやうで、生麦まで延びていた横濱市電は、「入江橋停車場」で、子安濱の海水浴客を降ろしたと言ふ。叔母なども若い時には、子安に海水浴に行き、寝てゐて生麦まで乗り過ごしたと聞く。
 朝には漁師が採れたばかりの蝦蛄(しゃこ)を茹で、天秤棒で担いで売りに来たさうで、大正、昭和のよき時代が目に浮かぶ。今は濱の面影も無ひ。
 さて、史実に言ふ。「京濱電気鐵道新子安駅は当時海水浴客誘致のために設けられた駅であっ
た。その子安の濱を明治の末に守屋此助が埋め立てをはかった。守屋此助は政治や法律にも通じた実業家であった。子安の漁民にとって埋め立ては死活問題で、当然のように反対運動が起こったが、紆余曲折の末に埋め立て申請は許可され、その地は後に「守屋町」の名が付けられた。」とあります。 ある意味、現在の味気ない子安は、この埋め立て事業が起因しているのかもしれないね。


入江川散策図  その一 入江橋から河口を見る 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 入江橋 手前のコンクリート基部は不明 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 入江橋 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 京浜急行や東海道線の下を流れる 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 入江橋の袂にあるバス停 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 網元さんと思われる豪邸があります 2003年1月3日・20日

B宮前橋:この橋は造形的にとても素晴らしい。入江川随一でしょう。大正ロマンが匂ってきそうな佇まいで、名前の由来は此橋の近くに『横浜一宮神社』があることに依るのだと思いますが。折りしも雪の舞い落ちる空模様で、絵の中にも淡雪が写っています。羽を広げている鳥は、鴎でしょうね。この橋と入江橋との間にJR線と京浜急行のガードレールがあって、子供の頃に母の実家に連れて行かれた私は、夜、母に手を引かれてこの川岸を帰って行くとき、川の水の黒さと電車の通過音が怖かったです。
 母の実家は綿問屋をしていたそうで、大正時代の全盛期には海外にも綿、布団の輸出をしていたと言います。その当時は太鼓持ちや芸者が爺さんを誘いに店まで顔を現したそうな。花街もこの近所にあったんでしょうかね?(戦前に反町にも花街があったそうです)
 横浜では真金町の遊廓しか私には思い浮かびません。小学生になるかならずの時に、この廓のお酉様に出かけ、紅殻格子(べんがらこうし)と雪洞(ぼんぼり)とぞろりとした下着のような服装の女性を見かけた記憶があります。(今なら、そんな恰好をした女性は街中に溢れていますが)大きくなったら絶対ここに来なくては決心を固めました。しかしながら翌年、防売法が施行され遊郭は無くなってしまいました。


入江川散策図  その一 Things seen in japanより投網漁 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 宮前橋 雪が舞い始めている 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 宮前橋 今とはだいぶ景色が違う 2003年1月3日・20日

 『横浜一宮神社』は、散策図の黄丸に示す場所にあり、夏になるとこの社の参道で、縁日があり浴衣を着せられて、出かけたことを覚えています。家からおよそ15分くらい歩くと社に辿り着きます。ここからの景色は多分、何十年前のそのままでしょう。確かに新子安の駅前に超高層は建ち、ランドマークタワー、ベイブリッジ、つばさ橋のイルミネーションが見えるので未来都市の感はありますが、見下ろせば明治乳業の配送所、入江川が昔ながらの鄙びた変わらぬ姿を見せています。人は時代により変わったと思いますが、この佇まいは戦前の昭和のままのようです。ここもドーナツ現象による都市の過疎化の中にあるのでしょう。
 さて「横浜一之宮神社由緒」によると、御祭神は、素蓋鳴(すさのう)尊、事代主(ことしろぬし)命、保食(うけもちの)命、面足惶根(おもだるかしこね)命(於母陀流神と阿夜訶志古泥神の二神)、水速迺売(みずはやひめ)命(水神社)が祭られています。
 すこし、その歴史を同書から見てみましょう。「子安の地は神之木台遺跡、大口坂遺跡、その他があることからも推察されるように、縄文時代の昔より人間にとって住みやすい環境が与えられた所でした。我々の祖先は海や山から自然の恩恵を受けて生活していたことでしょう。特にこの場所は現在でも海を望むことの出来る小高い丘ですが近代に入り海岸線を埋め立てるまではもう少し高い山でした。東 海道沿いに展開した子安の浜の漁師に取って、漁場を定める目印となっていたそうです。当然漁師の信仰を集め、また、東海道沿線ということもあり古くから小祠を以ってお祭りをしていたそうです。その後、永禄四年九月一日第百六代正親町天皇の御宇、武蔵国の一之宮、元官幣大社氷川神社の分霊を現在地に勧請したところから「一之宮大明神、一之宮明神社」等と称されております。」
 伝説の一例として、次の一例があります。「元禄三年七月、村内に疫病が蔓延した折、入江川畔に白衣長髭の翁が現れ「吾は一之宮大明神だが、近来氏子村民が敬神の念乏しく、社殿は大破し祭祀の礼を怠っているために災禍が横行するのである。以降、祭祀の礼を厚くすれば、疫病はなくなる」と告げた。そこで神楽を奏し、神拝の式を行うと忽ち疫病がなくなったという。」



入江川散策図  その一 横浜一之宮大明神の大鳥居 2003年1月12日

入江川散策図  その一 横浜一之宮大明神 2003年1月12日

入江川散策図  その一 横浜一之宮大明神の階段 2003年1月12日

入江川散策図  その一 横浜一之宮大明神のご本殿 2003年1月12日

C下大入橋:Bの宮前橋の先にある明治乳業の裏手にあるのが、この橋だ。昔は木の橋だか鉄の橋だったような気がするが、覚えていません。この辺りは夜は夜で怖かったですが、昼は昼で違う町内ということもあり、子供たちのテリトリィがあり、ガキ大将がいて、なかなか近づけなかった処です。ともかく、今は人通りも無く橋だけがぽつんと佇んでいます。


入江川散策図  その一 下大入橋 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 下大入橋 なんだかくねくね 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 下大入橋 入江川は運河の様だ 2003年1月3日・20日

D入江橋:子供の頃のこの橋は、コンクリート橋だったと思うのですが、これも記憶が曖昧です。この橋は不思議な橋です。「入江橋」は海側に既にあるのにも関わらずここにも存在します。
 歴史的にどこかに情報に欠落や二重帳簿的な間違いがあるのかもしれませんが、ひとつの仮説として、関東大震災、大東亜戦争の影響があったのかもしれないね。
 この地は震災、戦争で壊滅打撃を受けたであろうことは想像に難くありません。このとき、橋の名前も混乱し、変えられたのかも知れません。同名の橋は、国道15線(旧東海道)、国道1号線(現東海道)に架かっています。つまり、新旧東海道に掛かる橋を古来そう呼ぶことにしたのかも知れません。
 地元の人間の名称をめぐる、我田引水的な多少の駆け引きもあったかと推理します。


入江川散策図  その一 入江橋 後ろの土手は横浜線 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 入江橋 お隣はプロパンガススタンドだ 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 入江橋、反対側の銘盤に橋名がある  2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 入江橋 ライ隊員と橋 2003年1月3日・20日

E大門橋:入江川の橋の名前は、入江町、大口町、神ノ木町、西寺尾町、久保下などの地名が大きく影響していると思われます。入江川は横濱が出来る前から子安の浜にあったんでしょうね。横濱が居留区として埋め立てられて造られたときにも、何かしらの影響は受けたでしょう。でも、たぶん川筋は江戸時代のままと思われます。
 昭和45年の台風のときに入江川が決壊し、多くの家が床上浸水したことがありました。そのときの緊急工事で一部の河川堤防は、矢板を打込みコンクリートを流し込んだ剃刀堤防(切り立っている)のままになっています。私が建設会社に入社する1年前の話です。


入江川散策図  その一 大門橋 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 大門橋 このガードを潜ると大口商店街 2003年1月3日・20日

入江川散策図  その一 大門橋 川の縁のギザギザは鋼矢板 2003年1月3日・20日

 しかし、そのような川でも浄化作用が進んだのか、鴨たちが来るようになりました。浦島伝説のときの運河にも鴨たちは来ていましたね。時は移っても横浜のような都市にも自然は訪れます。そういえば、鶴見川、帷子川にも「タマちゃん」は来ていましたね。


入江川散策図  その一 鴨たち 剃刀堤防 2001年5月25日

入江川散策図  その一 鴨たち 剃刀堤防 2001年5月25日

入江川散策図  その一 鴨たち 剃刀堤防 2001年5月25日

子安小学校
 さて、ここまで来ると子安小学校について触れなくてはなりません。今では近代的な校舎になっていますが、この学校は横浜の歴史と言えます。明治 6 年10 月に神奈川県橘樹郡西子安村3077 番地に子安学舎として開校しました。この時の学区は東子安、西子安、新宿の3 村であったそうです。どこの地を指すのか、今ではさっぱりです。通称「浜の学校」と言われました。
 明治 20 年に尋常小学校に改まり、明治23 年には西寺尾も子安小学校の学区域となりました。
 そして一之宮の下あたり、宮前橋の畔の今の明治乳業の辺りに、子安村立尋常子安小学校として新築移転しました。大正 12 年の頃は、母も通学していたといいますが、9 月1日に関東大震災に襲われます。
 そして大正15 年に、横浜市子安町溝の下の現在の地に、鉄筋コンクリート3 階建ての新校舎を建て、昭和 20 年には、今度は大東亜戦争の被害を受けることになります。
 終戦後は神奈川、子安に進駐軍のベースが出来、子安小学校の近くにも米軍施設の何かがあったように思うのですが、良く覚えていません。七つ年上の日出彦さんなら覚えているかもしれません。昭和 25 年に西寺尾小学校が創立され、神ノ木町や西寺尾の学区は分離されます。うさおが昭和29 年に西寺尾小学校にあがったのは、この辺の事情によります。いまでもこの当時の建造物の青銅製のレリーフを一部、残しています。(子安小学校100年史より


入江川散策図  その一 子安小学校 北側から見る とてもモダン 2003年1月12日

入江川散策図  その一 子安小学校 体育館 2003年1月12日

入江川散策図  その一  子安小学校 嘗ての建物の銅板 2003年1月12日

入江川散策図  その一  子安小学校 嘗ての建物の銅板 子安小学校100年史より

入江川散策図  その一 子安小学校 校門付近 2003年1月12日

入江川散策図  その一  子安小学校 何かの石碑 2003年1月12日

 子安小学校、一宮神社の詳細については、「入江町散策その二、その三」をご覧ください。

入江町散策 その二
 
入江町散策 その三

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