横浜の遊郭 2009年9月22日 2009年9月27日
タツオトさんが次回から聴覚について論ずるというので、うさおも今のうちに数少ない音響ネタを披露しておこうと思い立ちました。音響技術者を目指す学生さん達に、音響工学一般を教えていた時のことです。
学生の中でも、常日頃から独特の雰囲気を持っていた女子学生がいました。彼女の不思議な佇まいに神秘性を感じたうさおは、彼女から「先生、教えていただきたいことが・・・」と質問されたときには、火村先生の脇にいる有栖川有栖のように、おおっとなりましたね。
若い女性に慣れていないうさおは、このスチエーションにくらくらしながら、それでも師匠らしく「なにか~?」と返事をしたものです。
聞いて見るとこんな話だった。 「自分の祖母は三味線の師匠をしていた。その所為か祖母は良く歌舞伎に連れて行ってくれました。自分は物心付いた時から、三味線の音を聞くと赤い色が見えます。先生、これっておかしいですか?」
彼女の精神構造には心惹かれましたが、さて如何答えるべきか、考えてしまいました。
三味線と撥
これは一般的に共感覚と呼ぶ聴覚に刺激される錯視らしいのですが、精神に異常がある訳ではありませんが、端から見ると正常でもないらしい。普通に生活していく分には何ら影響が無いと言います。
うさおは赤い色が見えることが気がかりでした。
修羅雪姫 上村一夫・小池一夫
俄仕込みの共感覚を少し説明しておきます。「共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人」リチャード・E. シトーウィック著の本に詳しいので、興味のある人はその本を読んでね。
うさおはケチで本を買わないので、図書館で借りて見たよ。
修羅雪姫 梶芽衣子・藤田敏八
共感覚者は2万5千人に一人の割合で存在します。結構多いほうじゃあないかな。音を色に変えて感じるとか、味を音や色に変えて捉えるとかの特殊な感覚らしいです。
これらの人たちは、例えば食物を味わうと指に触感が生じるとか、音を聴くと色が見えるとかが生じます。この音は赤い。(片桐仁が言いそうですね)
共感覚者の場合、これは比喩ではなく、実際にそう感じています。五感のうち、どの感覚とどの感覚が結びついて脳が感じるかは人によって異なるそうで,そのなかでも視覚と聴覚の結びつきが最も多いそうです。
シートウィックはこの現象は脳内の配線が混乱して生じる異常な現象と考えました。研究が進むに従って共感覚は人間(哺乳類)の誰でも持っている根本的な感覚で、脳の正常な機能のひとつなのですが、その働きが意識に現れる人はほんの一握りで、ほとんどの人は現れないまま生涯を終えるのだとか。
脳の機能 大脳皮質
共感覚は、脳の皮質の下にある海馬を中心に、いつでも起る神経プロセスで、辺縁系の正常な処理プロセスを通過する時に、一般的な人は意識から失われてしまうのだとか。ヒトの進化の過程でそういう仕組みになったらしいのですが、「認知の化石」とも言える原始的意識らしいです。
ちょいと、難しくて何を言っているんだか判らない。(サンドイッチマン風)
共感覚の中でも、音楽や音を聞いて色を感じる知覚は「色聴」と言います。絶対音感を持つ人の中には、色聴の人がいる割合が高いそうで,何となく羨ましい。
また、同じ「色聴」の共感覚者同士でも同じ音を聞いたら同じ色が見えるということは無いらしい。
で、先ほどの話ですが、彼女は三味線の色を赤と答えました。更に言うなら歌舞伎の舞台全体も次第に赤に染まっていくのだとか。
これは共感覚を持っていることとは別の、彼女の原体験に由来する精神的トラウマになのではないのか。何故赤なのか、弦の音は何故赤なのか、赤と言う響きに「血」を連想してしまうのは、うさおだけなのか。
う~、何だか心理サスペンスのようだね。
彼女が幼い時に祖母を訪れる男性が居た。もちろん、祖母の連れ合いではない。不倫の関係だ。やがてこのことが本妻に知られることに。
乗り込んでくる本妻、もみ合ううちに三味線の撥が、男の喉に。辺りは血の海。佇む彼女。放心した祖母は血だまりの中で、無心に三味線を弾きだす。
てな話を勝手に考えてボーとしているいると、件の女学生は不気味なものを見たような顔をして、「失礼します!」と帰ってしまった。うさおは痛い人と思われたかな。
前振りに使いましたこれらの話と図は、本文の内容とはまったく関係がありません。枕を振っただけです。余談ですが、梶芽衣子さんは「修羅雪姫」を演じている時は、本当に尖がっていて素敵でした。この映画の監督さんは藤田敏八です。
さて、本題の横濱にあったと言う遊郭の跡地の探訪です。
次の絵は五雲亭貞秀が描くところの「横浜本町景港崎街新郭」の図です。上の方が開港された横浜港で象の鼻などの埠頭が見えます。ここが海を埋め立てた居留区です。図中の④の地区が幕府が造った遊郭です。周りがまだ埋め立て途中の海であることが判ります。
江戸の吉原もそうですが遊郭の周りの堀は、遊女が逃亡するのを防ぐために造ったと言いますが、客の無銭飲食と揚げ代を踏み倒して、逃亡するのを防ぐためだったとも言われています。こっちのほうが大きいんじゃないかな。
五雲亭貞秀 横濱本町景港崎街新郭の図
下の絵は角度を変えて描かれたものです。大変隆盛を極めていることがわかります。この場所は今の横浜公園、横浜スタジアムのところに当たります。春は桜並木が続き江戸の吉原を彷彿とさせたと思います。(そうかな?吉原なんて行った事も無いので知らないぞ)
横濱の遊郭 港崎町・羽衣町遊郭跡 googleより
上の地図と見比べてみると位置関係が良く判ります。さて、この遊郭は幕府が港を開くときの町づくりの一環として造りました。現在の横浜にカジノを開こうとしているのと何か似ている。道徳的問題があるような気がしますが。
あの高島嘉右衛門も遊郭を開こうとして、幕府に拒否されています。政治的に美味しいものがあるんでしょうね。
太田屋新田の一角にあった港崎町(みおざきちょうと読みます)に、品川遊郭の岩槻屋の主人佐吉が遊里埋立の工事を担当しました。佐吉はそのまま港崎町名主となりました。大分儲かったんでしょうね。
この遊郭は約1万5千坪もあり大門や会所のある造りで、江戸の吉原に似せたんでしょう。
万延元年(1860年)6月 五雲亭貞秀 横浜大湊細見之図です。最隆盛に時には、遊女1400人、揚屋100軒と途方も無い数字が挙げられていますが、真偽のほどは判りません。
横濱の遊郭 港崎町・羽衣町遊郭錦絵1
一説には、遊女屋15軒、遊女300人、局見世44軒、案内茶屋27軒などとされています。この数字が本当のような気がする。中でも岩槻出身の佐吉が経営する岩亀楼(がんきろう)は、豪華で際立っていたと言われています。
幕府は外国人を横浜に引きつけるために、羅紗綿という外国人専用の娼妓を置きました。その最も大きな店が岩亀楼だったのです。
横濱の遊郭 港崎町・羽衣町遊郭錦絵2
横濱公園にも岩亀楼の跡が残っています。
港崎遊郭跡 横浜公園 2009年9月27日
港崎遊郭跡 横浜スタジアム 2009年9月27日
港崎遊郭跡 横浜公園 2009年9月27日
港崎遊郭が慶応2年10月21日の「豚屋火事」によって焼失、そのままになっていたが明治8年の在留外国人の生活環境改善条約に基づき、リチャード・ブラントンが横浜公園と日本大通りを設計しました。横浜公園は居竜外国人と日本人が共同で使用たので、彼我公園と呼ばれ公園内に野球場・クリケット場がありました。その後、昭和4年に野球場が造られました。 戦後は米軍に接収され、体育館や横浜チヤペルセンターがありました。
返還後は横浜公園平和野球場が造られましたが、老朽化したため横浜スタジアムに建て直されました。
港崎遊郭 岩亀楼 万延元年
岩亀楼は中が二つに分かれていて、日本人廓と外人廓に分かれており、互いに行き来は出来なかったようです。この岩亀楼では亀遊という女郎の逸話が有名です。当時の外国人は遊女を落籍せて妾にすることが流行りました。亀遊は羅紗綿ではなく、日本人相手の花魁でした。飛びぬけて器量の良かった亀遊はたちまち市井の人気者になります。
評判を聞きつけて外国人が妾になれと、大金を積んで強要された亀遊は、「露をだに いとふ倭の 女郎花 ふるあめりかに 袖はぬらさじ」と辞世の句を残して自害したと言うものです。有吉佐和子さんの小説で有名ですね。
港崎遊郭 岩亀楼 万延元年
横濱港崎廓岩亀樓異人遊興座敷之圖 一壽齋芳員
横浜スタジアムに残る岩亀楼の石灯籠です。この遊郭は前述の豚屋(ちゃぶや)火事で焼失しました。
この石灯籠はその供養のためか、妙音寺に寄進されたものを横浜市が譲り受けたものです。この遊郭跡地は外国人の要望で公園として生まれ変わりました。
港崎遊郭跡 岩亀楼のあった辺り 2009年9月27日
港崎遊郭跡 岩亀楼の石灯篭と水琴窟 2009年9月27日
港崎遊郭跡 岩亀楼の石灯篭 2009年9月27日
港崎遊郭跡 岩亀楼の石灯篭 2009年9月27日
港崎遊郭跡 岩亀楼の石灯篭 2009年9月27日
碑文 「岩亀楼の石灯籠」
横浜公園一帯は江戸時代の末期までは入海で、安政三年(1856年)に埋立てられ太田屋新田といった。
横浜開港にともない、新田の沼地約一万五千坪が更に埋立てられ、港崎町(ミオサキチョウ)と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えた。
港崎町一帯は慶應二年(1866年)の大火(通称豚屋火事)で焼失し、跡地は当時在留の外国人の要望で公園として再生することにきまり、明治九年(1876年)日本最初の洋式公園(横浜公園)が誕生した。
当初、彼我公園と俗称され明治三十二年(1899年)神奈川県の所管から横浜市の管理に移り、市民に公開されて今日に至った。
この灯籠は、妙音寺(南区三春台)から横浜市(横浜開港資料館)に寄贈されたもので、石に刻んである「岩亀楼」の文字から、岩亀楼にちなむものであることがわかる。
岩亀楼は、はじめ港崎町に建てられ、慶應二年の大火で類焼、以後二転三転して明治十六年(1883年)永楽町に移り、明治十七年に廃業した。
この灯籠は明治初年頃のものと思われるが、いつ妙音寺に移されたかは判明していない。震災、戦災によって多くの文明開化期の遺物を失った横浜にとっては貴重な文化財の一つといえよう。
昭和五十七年十二月 横浜市
港崎遊郭跡 岩亀楼の石灯篭 2009年9月27日
横濱公園の建設の碑には、もう遊郭の歴史などは綴られていません。
港崎遊郭跡 横浜公園由来の碑 2009年9月27日
この碑文は以下の通りでっす。
横濱公園は明治九年を以て創設せる我国最古の公園なり初は神奈川縣の所管なりしか同三十三年來横濱市の管理に帰し同四十二年に至り改造に着手し漸く整美を得たり斯くて大正十二年九月大震火災の際本市の大半猛火に蔽はるゝや多數の市民は緑陰池邊に避難して危くも九死に一生を得たり
今次復興事業として新公園を起工するに方り裏面鐫刻の有志忽那惟次郎外諸氏は發起して特に樹栽を資け以て美化の一助に供し併せて再生謝恩の意を表せんとするや忽にして曾て避難したる人々の賛同一和を得て計畫の遂行を告げたるは今にして之か美擧たるや論を俟たす殊に幾百星霜の後斯の欝蒼繁茂の狀を觀んか必ずや回想の念の禁せさるものあるへ志仍て滋に由來を録して之を他日に傳ふと云爾
昭和四年三月 横濱市正三位勲二等有吉忠一
このほかにも絵図として残っているのは、五十鈴楼などがあります。
港崎遊郭 五十鈴楼 万延元年
慶応2年12月に吉田新田北一ツ目(今の羽衣町、蓬莱町の付近:伊勢佐木町の入口辺り)を吉原町と改称して吉原遊郭としましたが、これもたった3年の短い期間で1871年に火災で焼失しました。
やはり夜の遊びと言うことで、蝋燭やガス燈、料理の火の不始末などが原因なのでしょうか。
現在の羽衣町には、遊郭であった跡や気配は何も感ぜられません。すっかりオフィース街です。羽衣町から少し西に行った曙町辺りの方が昔の青線だったところで、今でもソープランドなどの風俗街があります。こちらの方が遊郭跡っぽいです。
羽衣町遊郭跡 曙町付近 2009年9月22日
羽衣町遊郭跡 曙町付近 未だ「へびや」が残っている 2009年9月22日
羽衣町遊郭跡 曙町付近 ソープとファッションホテル 2009年9月22日
羽衣町遊郭跡 曙町付近 看板が赤とピンクぽい 2009年9月22日
羽衣町遊郭跡 曙町付近 普通のビルのようだが看板が 2009年9月22日
曙町から羽衣町の裏手はなにやら怪しげなピンサロ風のお店が多く、食事をしていたお店から出ると、素足を出してナイトガウン(古い!)の妙な格好のお姐さんが歩いていました。一番ケバイお店の前に立っていた黒服のお兄さん達がご苦労様ですと頭を下げていましたが、あのお姐さんは妙な迫力があったなあ。写真はとても怖くてレンズを向けられなかったぞ。
羽衣町遊郭跡 羽衣町裏付近 2009年9月22日
お腹もすいてきたし、ここの「お可免」で釜飯を食べることにしました。
釜飯お可免 2009年9月22日
お可免店内 2009年9月22日
遊郭の近所には何故か、神社さんがあるのが不思議だ。ここは厳島神社です。
羽衣町遊郭跡 曙町の厳島神社googleより
羽衣町遊郭跡 曙町の厳島神社googleより
1871年の翌年には、高島町に移転して高島町遊郭を興しますが、ここもやはり焼失してしまいます。高島町は2代目横浜駅の場所であり、高島嘉右衛門がこの街を開いたことから、高島町と呼ばれます。当時は港湾やドックが多くあった地域です。現在では旧日産の本社があった所と言うほうが分かり易いかも知れません。
さて、横浜にある遊郭群は8年以上継続して存在することが無かったようです。ほとんどが焼失したり、関東大震災で壊滅したりで、とても悲劇的です。地図で観ると高島町遊郭はこの辺りのはず。
高島町遊廓は京浜急行の神奈川駅から西に行った月見橋から横浜駅東口を突っ切り横浜中央郵便局と崎陽軒の間を通て、高島町までの三日月状の敷地にありました。横浜市営地下鉄の高島駅の変電所のところに第二代目横浜駅があり、その駅前に高島嘉右衛門が建てた風神楼がありました。
※第二代目横浜駅
00027 廃線厚木基地、廃駅
00014 益田廣岱伝6
参照のこと
横濱の遊郭 高島町・永真町遊郭跡 googleより
東横線の高島町駅があったのもここです。人通りも少なく、商業や工業が盛んな訳ではありません。近くに「アンパンマンミュージアム」や「文身(刺青)歴史資料館」がありちょいと微妙なところです。
文身歴史資料館のサイトより 2009年9月22日
帷子川に囲まれるように存在している高島町界隈は、みなとみらい地区の充実と共に高層ビルが立ち並び、昔の臭いが少なくなった処です。住宅が少ないので夜になると本当に人通りが少ないですよ。
しかしながら、ほんの一角にはこのような昔が残っている場所もあります。大潮の時には、いつも帷子川が氾濫し、この辺りも足元まで海水が来て大浸水でした。
昔の遊郭は吉原にしろ港崎にしろ、周囲に堀が廻らされていて、遊女や客が逃げられないようにしてあったそうです。ここ高島町は周囲を帷子川と運河に囲まれているので堀は造られなかったようです。しかし、反面敷地が限られており拡幅などは出来なかったみたいです。
高島遊郭跡 奥に富士ゼロックス社 2009年9月22日
高島遊郭跡 大潮には道路にも海水が来ました 2009年9月22日
高島遊郭跡 跡地の片鱗も無い 2009年9月22日
高島町遊郭跡 風神楼
高島町遊郭跡 風神楼 (明治八年)
高島町遊郭跡 岩亀楼 (明治八年)
高島町遊郭跡 岩亀楼
これらの絵や写真から察するに、遊郭は鉄道駅の直ぐ近くにあったようで、汽車や馬や人力車で通って来たのが良く判ります。今の市営地下鉄の高島町駅の東側あたりですね。
遊郭に遊びに行くってのは気恥ずかしいことではなかったのかな。それとも通い慣れてしまうと、だんだん見栄を張って人力車を使うようになるのかなあ。
馬は自家用車、人力車はタクシーと考えると、ずいぶん贅沢なお遊びをしていたようです。いま、銀座で遊んでいる人がタクシーを呼んでいるのと同じようなものかな。
当時の遊廓は岩亀楼・神風楼・勢州楼・二葉楼・一月楼・二神楼・天津楼等が有名だったそうです。
「爾来幾年ならずして、此地は横浜・神奈川問の鉄道線路に沿うて、貴顕外客の通行に際し醜態を目撃せらるゝ処があるとの理由で、、移転の議が起り、其結果として、明治十五年四月を期限に、新指定地なる真金・永楽町に移るべく余儀なき次第となつた」
当時の文献にも、
「醜態を目撃せらるゝ処がある
」ので、この地から移転させられたん
だそうですよ。
さて、その高島町遊廓も焼失した後、明治13年に吉田新田南三ツ目(今の永楽町、真金町)へ移転しました。永真遊廓と称したようです。
永真町遊廓 張り店一覧(1945年) https://chinobouken.com/eishinyukaku2/より
落語家の桂歌丸師匠はこの遊郭で育っちました。氏の祖母タネさんは「富士楼」のおかみさんで、10人の娼妓を抱えており「張見世」をもつ大店でした。
永真町遊廓 桂歌丸師匠
張見世には娼妓が並んでおり、客は気に入った妓に声を掛けて見世(みせ)に揚がりました。
永真町遊廓 真金町富士楼 ※1
「富士楼」と「ローマ」、「イロハ」の妓楼の女主人は、「真金町の三大ばばあ」と呼ばれ、恐れられていたそうです。この当時の遊郭の写真や絵は余り出回っていませんので当時を窺い知ることは出来ませんが、この広い道路が昔の大門、堀の跡だと言われています。しかし、大正12年の関東大震災で多くの死者を出したことで一時の隆盛は無くなったようです。
永真町遊廓 張り見世風景 ※1
永真町遊廓 けだるさがある風景 ※2
永真町遊廓 初見世 ※2
永真町遊廓 化粧中 ※2
※1 三橋松太郎の「煌きの瞬間」写真集、永真遊郭跡地の赤線時代の写真が残っている。
※2 常盤豊子 危険な毒花
永真町遊廓 大門あたりかな? 2009年9月22日
永真町遊廓 大門の通り 2009年9月22日
永真町遊廓 大門 2009年9月22日
永真町遊廓 何処は判らないが昔の遊郭 2009年9月22日
当時の写真は、以下のサイトのものです。
http://blog.livedoor.jp/tomtoms2004/archives/51187571.html
戦後は赤線地区として存在し、昭和33年の売防法施行後はそこに永真遊郭があったことすら判らない街となっています。とは言えこの辺りは、未だにソープランドやファッションホテルが並ぶ表通りと、高層住宅が並ぶ内側の街、住宅街とが混在する町で、どこぞに黒塗りの大型車に黒尽くめの服装の「お兄いさん」が屯してそうな町でもあります。
だってうさおが子供の頃は、売春と麻薬と暴力が売りのような地域でしたもの。今ではそんな気配は微塵もありません。
永真町遊廓 名残りは柳の並木通り 2009年9月22日
大変贅を凝らした建物がありました。屋根に「そり」、「むくり」が付いていて、まるで江戸時代の料亭のようです。昔は粋筋のお宅だったかもしれません。かわらに招き猫がいて、鬼瓦の文様が半端無く手の込んだものです。単に和風嗜好のお家かもしれませんが…。
永真町遊廓 すごい豪華な和風建築 2009年9月22日
永真町遊廓 反り、むくりが優美 2009年9月22日
永真町遊廓 情緒がありますねえ 2009年9月22日
永真町遊廓 猫を模した鬼瓦も瀟洒です 2009年9月22日
永真町遊廓 菊花を添えた家紋の鬼瓦 2009年9月22日
永真町遊廓 この鍾馗さまは一品です 2009年9月22日
佇まいに少し気になる建物が幾つかありました。大正、昭和の臭いがする建屋です。うさおは残して置きたいけど、住んでいる人は老朽化が進んでくるので嫌だろうな。
永真町遊廓 昭和だね 2009年9月22日
永真町遊廓 これも昭和だね 2009年9月22日
永真町遊廓 屋根にむくりが入っている 2009年9月22日
永真町遊廓 戦後の臭いがする 2009年9月22日
永真町遊廓 宮大工の技だなあ 2009年9月22日
永真町遊廓 馴染むねえ 2009年9月22日
永真町遊廓 煉瓦の外壁が大正そのもの 2009年9月22日
うさおが小学生の時に母に連れられて、真金町の大鷲神社のお酉様に行きました。宵宮の薄暮の中、弁柄格子と雪洞灯篭が街を彩っていて綺麗でした。
吉原の遊郭も大鷲神社さんで、永真遊郭も大鷲神社さん。本当に遊郭と神社は何か因縁があるようだ。
金刀比羅大鷲神社は金刀比羅神社、大鷲神社、稲荷神社の三社からなります。「三社復興」の碑と「すし塚」です。
永真町遊廓 大鷲神社 大鳥居 2009年9月22日
永真町遊廓 大鷲神社 扁額 2009年9月22日
永真町遊廓 大鷲神社 社殿 2009年9月22日
永真町遊廓 大鷲神社 三社復興の碑 2009年9月22日
永真町遊廓 大鷲神社 すし塚 2009年9月22日
永真町遊廓 大鷲神社 狛犬 2009年9月22日
永真町遊廓 大鷲神社 石柱 2009年9月22日
永真町遊廓 大鷲神社 石柱に遊廓の刻印 2009年9月22日
今でもお酉様の時には旧遊郭を取り巻くように、多くの屋台が道路に繰り出し大賑わいを見せています。横浜橋商店街に通じる横丁にある、とある喫茶店に入ることにしました。
永真町遊廓 お酉さまのポスター 2009年9月22日
永真町遊廓 マツモト珈琲 2009年9月22日
永真町遊廓 マツモト珈琲 2009年9月22日
永真町遊廓 マツモト珈琲 店内 2009年9月22日
永真町遊廓 マツモト珈琲 横濱メリーと濱マイク 2009年9月22日
この喫茶店「カフェ・マツモト」の主人が私たちに昔を語ってくれました。
「お酉様の縁日は丁度四角形の通り(元の遊郭の堀外の道路)で行われ、大通り公園脇の道路も使われているんだよ。
お酉様のときはこのカフェは香具師(やし)の幹部達のたまり場になるよ。そういった縁日の仕切りは、この店でもう60 年もやっているかな。」
香具師の幹部達は大通り公園のところに茶屋と言うか、お酒や食べものの露店を牛耳っており、一日で300 万円も稼ぐそうだ。お酉さまの時の人出は、16 万人くらい出るそうで屋台も500 位出るのだが、最近の世知辛い世相を反映してか、縁起ものの熊手を買っていく人が少なくなった。昔の客はこの熊手を値切って買うのだが、値切った分は売り手にご祝儀としてあげるのが慣わしなのだが、最近の若い人は値切ったまんま、ご祝儀もなく帰ってしまうそうです。
「困ったもんだねえ、若い人は焼き蕎麦を5人でひとつだけ買って、割り箸を5個要求するんだ」そうだ。「割り箸は1円、2円の元値だから、まあサービスと思って断らないが、嫌になるなあ」と話していたそうです。
永真町遊廓 下町のカフェ 2009年9月22日
永真町遊廓 マスターのお話 2009年9月22日
永真町遊廓 香具師の話が面白い 2009年9月22日
横浜橋商店街はこの辺りでは一番活気のある商店街だが、それでも最近は景気が悪くて青息吐息だそうな。
この喫茶店は「濱マイク」の撮影現場になったことで、芸能人も多く来た事があるそうだ。未だにファンだという人たちが来て、ミルク珈琲を飲んでいくそうで、うさおもミルク珈琲を頼みました。昔の赤線があった時に、お姐さんたちが、この店に遊びに来たかを聞きたかったけど、なんだかとても聞くような雰囲気じゃなかったなあ。
横濱橋商店街の中には、岩亀の看板が・・・鶴見にも「岩亀」さんがあったけど、ふぐ屋さんだったな。この商店街は80周年のアニバーサリィーらしく、桂歌丸さんの似顔絵の幟が掲げておりました。とても下町風のすばらしいノスタルジックな商店街ではあります。
横濱橋商店街 アーケード内 2009年9月22日
横濱橋商店街 アーケード内 2009年9月22日
横濱橋商店街 横丁の路地 市場 2009年9月22日
横濱橋商店街 ふぐ 岩亀 2009年9月22日
横濱橋商店街 がん亀 看板 2009年9月22日
横濱橋商店街 岩亀お店 2009年9月22日
横濱橋商店街 老人の座る処がある 2009年9月22日
横濱橋商店街 歌丸師匠のお膝元 2009年9月22日
関内から高島町に向かう途中の雪見橋周辺は「岩亀横町」と呼ばれる小道があり、そこの路地に岩亀稲荷があります。気をつけて探さないと見落としそうな家と家の狭間にひっそりとあるんですが、まあ旗が立っているんで何となく判るんですがね。
岩亀稲荷 2009年9月27日
岩亀稲荷 由来 2009年9月27日
岩亀楼の伝説の遊女、喜遊の霊を祭ったのと、遊女たちが黴毒(当時は抗生物質が無いので不治の病であった)に罹ると、この地に治療寮を建て余生を過ごさせたと言われています。
近くには岩亀と名のつく料亭、ホテル、サウナがありますよ。
岩亀稲荷 2009年9月27日
岩亀稲荷 2009年9月27日
岩亀稲荷 神社入り口 2009年9月27日
岩亀稲荷 扁額 2009年9月27日
岩亀稲荷 参道 2009年9月27日
岩亀稲荷 社鳥居 2009年9月27日
岩亀稲荷 宝珠紋 2009年9月27日
岩亀稲荷 箱庭 2009年9月27日
岩亀稲荷 社殿 2009年9月27日
岩亀稲荷 参道 2009年9月27日