漫画考
この稿は漫画の批評ではありません。漫画を目指した自叙伝です。うさおはどのようにして、漫画に挫折したか?
私もご多分に漏れず、幼い頃から落書き王でした。私の母親も、子に似て世間知らずですから、うちの子はなんて絵が上手いんだろうと有頂天になってしまいました。誉めて育てるのは、素晴らしいことです。子供は天狗になってしまいました。
私の兄貴の日出彦は、本を作るのが大好きで、いろいろなペンネームで、作家、画家、編集者を兼ねてマイホーム・マガジンを作っていました。やはり一人では、レパートリーに欠けるのか、七歳年下の弟に漫画を描かすことにしたのです。
これが病み付きになりました。「おちょぼげ王子の冒険」が出世作です。(なんのこっちゃ?)
小学校、中学校時代は、学校行事のポスターつくりには、いつも駆り出されていました。
その頃になると多少人生のことも判り始めてきます。学校には自分以外にも漫画が上手いやつが沢山いることに気がつきます。
友人の評価も心なしか、絵の上手い彼のほうに傾いているように思えます。悔しい。机の中に画鋲を入れてやりました。
高校では、男子3人に対して、女子27人の美術部に入りました。もてませんでした。悔しい。皆の机の中に鉛筆の削り滓を入れてやりました。
受験勉強中もどうしても漫画が描きたくて、勉強している振りをして、こっそり描いていました。おかげで大学は滑ってしまいました。
大学では、新聞部に入り挿絵を積極的に担当していましたが、時代は学生運動の盛んなりし頃、部室は「民青」、「ブンド」、「京浜共闘」のアジトになりました。よく言えば「ノンセクト・ラジカル」のうさおは、結局、お上が怖くて新聞から離れることになるのでした。
この頃、うさおは漫画同人に入っていました。
肉筆回覧誌「ペソ」です。
この時代は漫画仲間が中野や、新宿で漫画家を目指して、下宿中でした。彼らの下宿に、卵やキャベツを持って遊びに行きました。喜ばれました。
漫画喫茶と言うのもあの頃流行で、永井豪や永島慎二が来ていました。本当はサインを貰いたかったけど、やせ我慢をしていらないよって顔をしていました。(貰らっときゃ良かったなあ)(._.)
漫画家の臨時のアシスタントもしていました。友人から手伝ってくれとの電話が来て、3日位徹夜をします。なんと初任給3万7千円の時代に、この3日間で2万4千円になります。
心が金に傾きました。
建築科の学生だったうさおは、よく背景を描かされていました。先生からは、ペンタッチはいいけど、キャラとストーリが駄目だねって言われました。(えっ、それって致命的ジャン)
悔しい。先生の所の冷蔵庫に会ったスタミナドリンクを、がぶ飲みしてやりました。私って、結構、悪人です!
漫画の才能の翳りを知り、すっかり目が醒めたうさおは、その後は音響屋として、生きていくことにしました。この世界でもなかなか一流にはなれません。二流の下と言うところでしょうか。
今は趣味として、挿絵などのアルバイトをしています。
土木工業協会誌のコラムの挿絵を数年間、描いていました。
また、市ケ谷出版の「図解1級建築士問題集」全4巻(現在は廃刊)の絵を描きました。200枚位です。このときは少し得意で、嬉しかったです。
最近は挿絵の対価は貰わないで、ボランティアで描いています。絵は歳と共に下手になります。根気も無くなるしね、手を抜くことだけ覚えちゃったからね。こりゃあ、お金は取れませんね。
本当はイノシシのうさおでした。