稲村ケ崎伏龍基地遺構 (2014年7月30日)

 鎌倉に行ったついでに稲村ケ崎の岬に行ってみました。湘南の海を一望できるところで、近くのレストランも湘南リゾートのお洒落なものです。東側に由比ヶ浜、西側に七里ヶ浜があり、この岬が海岸を分けています。


稲村ケ崎伏龍基地遺構 周辺地図(google)  (2014年7月30日)

 ここは、大昔に新田義貞が鎌倉幕府を攻めた古戦場でもあります。


稲村ケ崎伏龍基地遺構 由比ヶ浜方向、江の島が見えます (2014年7月30日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 稲村ケ崎の岬 (2014年7月30日)

 子供の頃のカルタか武者絵で、新田義貞が海に黄金の太刀を投げ入れる絵を見たことがあります。1333年(元弘3年)5月8日に、新田義貞は後醍醐天皇の綸旨を受けて、討幕の挙兵をします。少数の軍勢でしたが、鎌倉に迫るに従い軍勢は増えていき、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで勝利します。
 さて稲村ケ崎ですが、5月22日の大潮の日に北条軍の守る稲村ヶ崎を落とし、鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府を滅ぼす時のエピソードなんですね、荒れ狂う海に太刀を投げ込むと、、みるみる静まりかえり、大潮が引き北条水軍は沖に流され、稲村ヶ崎を突破できたと言います。海神さんも貢物があると願いを聞いてくれるなんて、現金なものです。


稲村ケ崎伏龍基地遺構 新田義貞 新田神社(大田区矢口)  (2014年7月30日)

 稲村ヶ崎は、正式には鎌倉海浜公園稲村ヶ崎と言います。岬には稲村ヶ崎碑があり、明治天皇の歌が刻まれています。
新田義貞 「なげ入れしつるぎの光あらはれて千尋の海も陸となりぬる」
 それ以外にも、ボート遭難碑、ロベルト・コッホ記念碑もありますが、お目当ては別にあるので、それを見に行きましょう。


稲村ケ崎伏龍基地遺構 稲村ケ崎の岬 (2014年7月30日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 碑が沢山建っています (2014年7月30日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 史跡稲村ケ崎新田義貞徒渉伝傳説碑 (2014年7月30日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 明治天皇の詠歌と鎌倉町青年會の碑 (2014年7月30日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 ボート遭難碑 (2014年7月30日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 かながわの景勝50選 (2014年7月30日)


 ここは「伏龍」のアジトだったのです。大東亜戦争の末期に、米軍の本土上陸を迎え撃つ目的で、「神風」のような自爆兵器の特攻基地が造られました。

 零式戦闘機に爆薬を積み、敵艦に体当たり攻撃を行った「神風特攻隊」は、それなりの成果を上げたことから、これに味を占めた軍部は、「人間魚雷回天」や「神雷特攻機(桜花:ロケット機)」、「人間機雷伏龍:体当たり潜水隊」、「アンパン爆弾:対戦車用布団爆弾(99式破甲爆雷)」の開発が行われました。


稲村ケ崎伏龍基地遺構 零式艦上戦闘機 遊就館蔵 (2015年11月1日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 ぶら下がっている桜花(ロケット機) 遊就館蔵 (2015年11月1日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 人間魚雷回天 遊就館蔵 (2015年11月1日)

 当時、ミサイルなどの誘導爆弾が無い時代に、人間が操作する爆弾は命中率が高く、対象物を待ち伏せや追尾ができました。
 ただ、この兵器の欠点は、兵士が確実に一人、亡くなることです。いくら戦いに勝っても、国を支える国民(兵士)が居なくては、国は成り立ちません。
 現代のテロは、自爆テロの時代です。イスラム過激派やアルカイダの攻撃はまさにそれです。教えたのは日本の赤軍派だとも言われています。いけませんね。

 さて、この兵器の中でも、「人間機雷伏龍」、「アンパン爆弾」は、特に戦闘機械に頼らず、人力で敵に近づき自分で爆薬を撃発させたり、爆弾を抱えて戦車に挽かれたりする戦術です。いや、怖いなあ。

 これは、アメリカ海軍が作成した伏竜のスケッチです。(ウィキペディアより)


稲村ケ崎伏龍基地遺構 米軍の描いた伏龍 (2014年7月30日)

 この沙悟浄の様な格好で、海底を移動し、五式撃雷(通称・棒機雷)と呼ばれる棒の先に着いた爆雷を、敵艦の船底に押し当て、爆破するものです。靖国神社にある「遊就館」に行ったら、時間が遅く、入れて貰えませんでした。ここに模型が飾られています。


稲村ケ崎伏龍基地遺構 五式撃雷 遊就館蔵 (2015年11月1日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 五式撃雷 ちょいと拡大 遊就館蔵 (2015年11月1日)

 この伏龍の出撃基地、訓練所が、稲村ケ崎にあったと言います。
 探しに行った時には、丁度潮が満ちてきている時間だったので、陣地の洞窟までは見えませんでしたが、岸壁の途中に銃眼を見ることが出来ました。大きさから見て、重機関銃くらいまでの兵器が設置できそうです。一度の奇襲は成功しそうですが、発見されれば集中砲火を浴びることは間違いありません。


稲村ケ崎伏龍基地遺構 へっぴり腰のうさお (2014年7月30日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 で冒頭の写真、四角い穴に着目 (2014年7月30日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 これが銃眼、コンクリート補強されている (2014年7月30日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 この海水の下あたりが陣地入口か (2014年7月30日)

稲村ケ崎伏龍基地遺構 銃眼 (2014年7月30日)

 技術的に興味があったのは、潜水中の気泡が的に見つからないように、酸素ボンベの他に、苛性ソーダの入った空気清浄缶を携帯し、排出された炭酸ガスを清浄して戻す装置です。この循環型の空気清浄器は、当時は効率の悪いものでした。
 酸素は鼻から、排気は口からと言う手順を間違えると、炭酸ガス中毒になりますし、何らかのジグトラブルが生じて、清浄缶に海水が入ると苛性ソーダが沸騰して、肺に入り死に至ります。

「伏龍」の訓練基地が、三浦半島の野比海岸にもあったと言うことです。caccoの叔母が住んでいたところでもあり、年に数回は訪れていた処でもあります。知らなかったなあ。


稲村ケ崎伏龍基地遺構 こんなものを食べて来ました (2014年7月30日)
レストラン メインサンディッシュにて