太東崎の電探(2007年8月12日)
K君の家は海に面した小高い丘の上に建っている。遠くから見てはっきり識別できるのは、屋上にある電波塔であろう。
太東崎の電探 K君の家は丘の上の眺めの良いところ (2007年8月12日)
太東崎の電探 有事に備えて自家栽培 自給自足 (2007年8月12日)
太東崎の電探 森が迫っており自然を満喫できる (2007年8月12日)
K君は民間人でありながら、某K国に対する私設防諜隊に従事している。見よ、この無線機の数々を。
木の香りのする家は電探を受けないように、内装も電波的にはステルスの木造家屋だ。
太東崎の電探 さすがマニア (2007年8月12日)
太東崎の電探 電気関係はすべて治してしまう (2007年8月12日)
太東崎の電探 高そうなリグ※も何気なく置かれている (2007年8月12日)
太東崎の電探 オシロスコープまであります (2007年8月12日)
※:リグとは通信機器のことです。
ここが周囲の敵を索偵する司令塔です。
(嘘です。ここでお昼を食べたり、流星群を見たりする処です)外房が一望できる、羨ましい環境です。ここはアマチュア無線のアンテナ塔です。)
彼はトリップル・コールを持っています。
トリップル・コールとは、J○8CCCのように、3つのアルファベットが重なるもので、大変珍しいものです。
太東崎の電探 敵機索偵塔 (2007年8月12日)
太東崎の電探 索敵見張台 (2007年8月12日)
K君のお勧めで、近所の電波探知機(レーダー)の跡を見に行くことになりました。太東崎という灯台のあるところでした。太平洋を見渡すとても景色の良いところです。
太東崎の電探 太東崎の半島 (2007年8月12日)
太東崎の電探 太東埼灯台「崎の字が埼になります」 (2007年8月12日)
太東崎の電探 夷隅の海岸線 (2007年8月12日)
太東崎の電探 太東埼灯台の由来 (2007年8月12日)
太東崎の電探 「灯台用地」と読めるが・・・ (2007年8月12日)
太東崎の電探 晩晴堂帰雲翁碑 (2007年8月12日)
レーダーの遺跡が残っておりましたが、その幾つかは崩壊して崖から落ち海中に没したようです。米軍が爆破したとの言い伝えがあります。
この辺りの台地は徐々に侵食され、太平洋に飲み込まれていると、言うようなことも聞いたことがある。はて?
太東崎の電探 電探礎石の説明 (2007年8月12日)
太東崎の電探 電探礎石 (2007年8月12日)
何と機関銃座の跡がありました。しかし、単なる小山でコンクリートや鋼材の破片すらも残っていませんでした。
ここで米爆撃隊を地上から迎撃しようとしたのでしょう。高射砲陣地は太東砲台(穹窖砲台)、陸軍第147師団の太東埼砲台(吉附砲台)があったそうで、穹窖砲台跡は今でも残っています。
太東崎の電探 機関銃座の説明 (2007年8月12日)
太東崎の電探 看板があってもなあ (2007年8月12日)
太東崎の灯台です。う~ん風格ある。夕闇が近づく時でもあり、なかなかのものでした。
さてその展望台に飾られていた昔の写真は興味深いものでした帝国海軍の。電波探査機の研究所がここにあったようです。
当時の研究の成果は、「この程度の索敵じゃ戦争に勝てないなあ」と感じられるような技術でした。
太東崎の電探 太東埼灯台 (2007年8月12日)
太東崎の電探 公園の中を戦争遺跡を探す(2007年8月12日)
それでは展望台に掲げられていた戦時の電探写真を見てみよう。
ここで開発された電探はその目的により以下のようにに分けられました。Wikipediaより
一号 : 陸上見張用
二号 : 艦載見張用
三号 : 艦載水上射撃用
四号 : 陸上対空射撃用
五号 : 航空機用(PPIスコープ使用)
六号 : 陸上誘導用
太東崎の電探 (2007年8月12日)
二式一号二型は一号一型が重量過大で容積も大きかったため、波長を短縮して重量を軽減、トレーラー上に設置して移動可能としたタイプ。波長1.5 m、尖頭出力5 kW、測定は最大感度法、重量6トン。性能は単機で50 km、編隊で100 kmだった。大戦初期に前線に進出したがまだ重量が重く容易に移動できないため、多少性能が落ちても良いのでより軽いレーダーが要望された。そのため生産台数は約100台に留まった。 Wikipediaより
太東崎の電探 (2007年8月12日)
三式二号一型は使用波長が1.5m、尖頭出力5kW、測定は最大感度法、重量840kg[1]。アンテナはダイポールアンテナを4列3段(二号一型電探六型の場合)や4列4段(同七型の場合)等に組み合わせ、後方と側方に網を張った長方形。アンテナの大きさは幅3,300mm、高さ1,830mm(六型の場合、台座を含まず)。 Wikipediaより
太東崎の電探 (2007年8月12日)
かつての実験場の佇まいはこんな感じです。
太東崎の電探 (2007年8月12日)
太東崎の電探 (2007年8月12日)
三式一号電波探信儀三型は、日本海軍の開発した陸上設置用の対空警戒レーダー。一号三型電探、13号電探などと略称される。小型軽量で非常に成功したレーダーのため艦艇にも多く搭載された。一号一型や二型は重量過大で移動が困難だったため、小型軽量化を目指して開発された。使用波長は航空機に対してより性能の良い2mとした(前型の一号二型は波長1.5m)。尖頭出力10kW、測定は最大感度法、重量110kgで分解すれば人力でも運搬できる重さとなった。アンテナは八木・宇田アンテナを4段積み上げた形で高さ4,236mm[2]。探知距離はカタログ上では単機で50km、編隊で100km、指示器の最大目盛が150kmだったが、実際には編隊で150km以上、敵が味方識別装置を使用すると300km以上でも探知可能であった。 Wikipediaより
太東崎の電探 (2007年8月12日)
太東崎の電探 (2007年8月12日)
戦時の電探の制御室を明示する資料は少なく、この図が有名で多くの電探の紹介に用いられている。
太東崎の電探 この絵は有名 (2007年8月12日)
三式一号一型は陸上設置の対空監視用メートル波レーダー。この型からは現在の通常のレーダーと同じ反射した電波の返ってくる時間を測定するいわゆる「山びこ」方式となった。波長3
m、尖頭出力10 kW、測定は最大感度法。捕捉性能は単機の艦上攻撃機で70 kmであった。
1941年(昭和16年)10月に横須賀市野比海岸で実験が行われ、11月から12月に1号機が千葉県勝浦に設置された。また2号機は横須賀市衣笠に設置された。年末までに50基を製作するように要求され、翌年2月までに30基を生産、主に南方の占領地域各地に設置された。当初は故障が頻発し、部品の交換などをして安定して動作したのは同年9月ころのことであった。同年末ころに尖頭出力を40
kWにまで増大した改良型が登場し単機で130 kmから捕捉できるようになった。このレーダーは一号一型改一と命名され、既存のものはこの型に改修された。
一号一型の欠点は容積が大きく、重量が8.7トンもあったことである。そのため設置に多大な資材と労力がかかり、1944年(昭和19年)末に設置が中止された。それまでに百数十台が製造されたという。 Wikipediaより
太東崎の電探 (2007年8月12日)
116号とは一号一型六電探の略式名称と思われる。出力30kWである。
一号一型は陸上設置の対空監視用メートル波レーダー。この型からは現在の通常のレーダーと同じ反射した電波の返ってくる時間を測定するいわゆる「山びこ」方式となった。波長3 m、尖頭出力10 kW、測定は最大感度法。捕捉性能は単機の艦上攻撃機で70 kmであった。
1941年(昭和16年)10月に横須賀市野比海岸で実験が行われ、11月から12月に1号機が千葉県勝浦に設置された。また2号機は横須賀市衣笠に設置された。年末までに50基を製作するように要求され、翌年2月までに30基を生産、主に南方の占領地域各地に設置された。当初は故障が頻発し、部品の交換などをして安定して動作したのは同年9月ころのことであった。同年末ころに尖頭出力を40
kWにまで増大した改良型が登場し単機で130 kmから捕捉できるようになった。このレーダーは一号一型改一と命名され、既存のものはこの型に改修された。
太東崎の電探 (2007年8月12日)
太東崎の電探 (2007年8月12日)
仮称二号電波探信儀二型は、日本海軍の開発した艦艇搭載用の対水上警戒レーダー。二号二型電探や22号電探などと略称される。使用波長は0.1 m、尖頭出力2 kW、測定は最大感度法、重量は水上艦用1,320 kg、潜水艦用2,140 kg。対水上用には波長の短いマイクロ波(センチ波とも)を使用する必要があったが実用化後も受信機の動作安定化に手間取った。1944年(昭和19年)7月以降にほとんどの主要艦艇に装備された。試作時の名称は仮称一〇三号。アンテナはダイポールアンテナと深い放物面を組み合わせたもので直径1.5 m奥行き2 mあり、通称「マグロ」と呼ばれた。 Wikipediaより
太東崎の電探 (2007年8月12日)
電探実験場はすでに崩落して海中に没しています。以前の灯台も崩壊しこの位置に建て直されました。
太東崎の電探 海側は結構早く波に浸食さています (2007年8月12日)
太東崎灯台は、白亜塔形(円形)の中型灯台で、高さは15.9mで、灯台の光は22海里(約41Km)まで照らしています。
太東崎の電探 以前の灯台敷地は崩壊したので移設された (2007年8月12日)