大倉山記念館  2012年12月8日


 大倉山記念館は、実業家の大倉邦彦氏(1882-1971)によって昭和7年に「大倉精神文化研究所」として、建てられました。大倉氏は後に東洋大学学長を務めています。
 この建物は、長野宇平治氏(1867-1937)よるもので、「東西文化の融合」を理想とした大倉邦彦氏の意向を受け、古代ギリシャ以前の「プレヘレニック様式」という建築様式を用いて設計しました。それに、東洋文化の香りをも取り入れて東西文化を融合した様式美の建物になっています。
 大倉邦彦氏はこのような方です。
 

大倉山記念館 大倉邦彦氏 2012年12月8日 大倉精神文化研究所蔵

 さて、設計者の長野宇平治氏は辰野金吾氏の弟子と言われています。日銀本店別館、中華民国総統府(旧台湾総督府)などが作品としてあります。師匠の辰野金吾氏が、日本建築学会の初代会長になりましたが、長野氏は日本建築士会(後に日本建築家協会)の初代会長になりました。辰野金吾が学者ならば、長野宇平は職人の趣がします。


大倉山記念館 長野宇平治氏 2012年12月8日 大倉精神文化研究所蔵


大倉山記念館 現在の俯瞰図 2012年12月8日 googleより

 この建物の両翼は、平等院鳳凰堂のイメージだとか、柱の洋風破風は鳳凰のレリーフだとか、回廊の入り口近くはクノッソス宮殿の様式だとか言われていますが、作者の意図は判りません。
 この記念館の敷地の梅林も有名で、昭和6年(1931)に東京横浜電鉄が植樹したものです。ですが、戦時中は炊飯用の煮炊きの薪が無く伐採されたと言います。現在の梅林は、戦後、梅林復活によって甦ったものです。

 さて、ここで着目すべきことは、大倉山記念館が建築史上の価値があることではありません。
「公益財団法人 大倉山精神文化研究所 シリーズわがまち港北
http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/kouhoku_rekishi_bunka/kouhoku8/」によると、面白い事実が記されています。

 例えば、「第44回 終戦秘話-その5- 大倉山と海軍気象部」の記述を見てみると、
 戦時中は大倉山記念館に海軍気象部分室が移転してきました。大東亜戦争末期の昭和19年に、当時の大日本帝国海軍気象部が記念館を借り上げ、100人を超える部隊が移ってきました。4月10日付けで「予想セラルル敵空襲ニ対スル応急対策トシテ」研究所借用の照会をしています。昭和19年8月31日に海軍気象部員百余名が下検分に来所し、9月1日より移転してきました。気象情報は重要な軍事機密であり、気象部が何をしていたのか、まったく教えられていなかったようです。

 また、ここからが重要な所ですが、「第69回 終戦秘話-その7-  米ソの暗号を解読せよ!」では、
 『気象百年史』によると、海軍気象部の本部は、東京駿河台のYWCAのビルに置かれ、その他にも神田周辺に多数の分室が作られます。昭和19年6月、海軍気象部は大倉精神文化研究所を最後の拠点とすることに決め、大倉山に第5分室を設置します。大倉山には気象部員によりH字形水平壕が掘られた記述があります。
 気象部隊は千島や北海道の海岸に発生する海霧の研究をし、海軍の作戦行動の妨げにならないよう、発生のメカニズムや予報の研究を行いました。海軍気象部特務班は外国の気象通信(暗号電文)の暗号解読が任務でした。アメリカの暗号を解読するA一班・A二班、ソ連の暗号を解読するS班の3班に分かれて作業を行いました。暗号の解読室は、現在のギャラリー入り口辺りの研究室だそうです。
 気象電報は1時間おきに24時間発信されており、受信状態が良い夜間に解読が行われていました。気象情報の通信は、国際的な取り決めがあり、電文で5文字×3の全15文字で全ての天気情報が分かるように出来ていました。そのため、暗号にされても、慣れると直ぐに解読出来たそうです。
 しかし、昭和20年7月中旬以降になると、ソ連は気象電報を暗号化せずに平文で通信するようになりました。そのため、暗号解読の仕事は無くなりました。
 以前に偵察員須知なる書をお示ししましたが、その中に暗号要務がありますので、参考にお示ししておきます。


大倉山記念館 偵察員須知

大倉山記念館 暗号要務

 記念館を見に行ったこの日は、特別に記念館の屋上に登り大倉山界隈の夜景を眺める会に参加したものです。そのため、夜だったので、あまり建物の概要が撮影できていません。今度昼間に行かなくちゃダメだな。私たちの他に、GURIKO隊長とT森氏が参加しています。彼らは、この夜陰に乗じて仲良しこよしだったのは言うまでもありません。


大倉山記念館 大倉山秋の芸術祭に参加 2012年12月8日 

大倉山記念館 紅葉が綺麗だけど階段がきつい 2012年12月8日 

大倉山記念館 おっ、何か見える 2012年12月8日 

大倉山記念館 クノッソス宮殿を模したという正面、円柱 2012年12月8日 

大倉山記念館 左右の翼館は平等院鳳凰堂か 2012年12月8日 

大倉山記念館 お出迎えに説明の方が付いてくれます 2012年12月8日 

大倉山記念館 この日はライトアップされていました 2012年12月8日 

大倉山記念館 玄関扉の模様が建物随所で使われています 2012年12月8日 

大倉山記念館 中に入るとまた階段があります 2012年12月8日 

大倉山記念館 GURIKO隊長とT森さん 2012年12月8日 

大倉山記念館 アッ、仲良しこよしに・・・ 2012年12月8日 

大倉山記念館 留魂礎碑 創設者の遺志が刻まれている 2012年12月8日 

大倉邦彦氏の遺志
一、人が人として宇宙人生の正法に安住せん事を念願す
一、人が国民として天孫中心の君国を永遠ならしめん事を念願す
一、人が業人として自他の存続発展を基調とせん事を念願す
一、一国思想の源泉は宗教と教育とにありと信じ是を建立す
    皇紀二千五百九十年      大倉邦彦


大倉山記念館 周りの回廊をギャラリィーと呼んでいる 2012年12月8日 

大倉山記念館 階段の踊り場には木製の椅子が置いてある 2012年12月8日 

大倉山記念館 この階段を昇って 2012年12月8日 

大倉山記念館 上を見上げるとアトリウムの屋根が見える 2012年12月8日 

大倉山記念館 回廊には動物のレリーフがある 2012年12月8日 

大倉山記念館 これは獅子だね 2012年12月8日 

大倉山記念館 これは鷹です 2012年12月8日 

大倉山記念館 上から下も眺めてみる 2012年12月8日 

大倉山記念館 ともかく、屋上に行きたいね 2012年12月8日 

大倉山記念館 危ないからヘルメットをかぶって 2012年12月8日 

大倉山記念館 屋上に向かう 2012年12月8日 

大倉山記念館 屋上はこんな感じの所だ 円柱が並んでいる 2012年12月8日 

大倉山記念館 丸窓から庭を覗いてみた 2012年12月8日 

大倉山記念館 クレタ文明だ 2012年12月8日 

大倉山記念館 菊名、新横浜の街が見える 2012年12月8日 

大倉山記念館 記念館の屋根だ 2012年12月8日 

大倉山記念館 夜景はほとんどぶれてしまった 2012年12月8日 

大倉山記念館 窓の形が四角、三角、丸など多彩 2012年12月8日 

大倉山記念館 大学の中廊下のようです 2012年12月8日 

大倉山記念館 あっつ、綺麗な人、見っけ 2012年12月8日 

大倉山記念館 内装に大谷石がふんだんに使われている 2012年12月8日 

大倉山記念館 階段の脇にも大谷石 2012年12月8日 

大倉山記念館 ここは集会室前のラウンジ 2012年12月8日 

大倉山記念館 集会室 2012年12月8日 

大倉山記念館 木製の手摺り 2012年12月8日 

大倉山記念館 館内 2012年12月8日 

大倉山記念館 館内 2012年12月8日 

大倉山記念館 横浜市指定有形文化財の看板 2012年12月8日 

大倉山記念館 今度は昼間に来てみよう 2012年12月8日 

 大倉山に、大きな電波塔が建っていたという記録はありません。うさおの独断の推理ですが、蟹ヶ谷分遣隊(受信)の電波塔から、信号を日吉(慶応大学)の地下海軍司令部経由で、送られてきたのでは思うのですがどうでしょう。
 そのような目で、この記念館を見てみますと、いかにも諜報活動の拠点のように思えるので、不思議です。

追補:戦時中、港北区高田や富士塚、岸根などに高射砲陣地がありました。大倉山にもあったそうです。
 『太尾の歴史』(横浜市立太尾小学校、1985年)に「龍松院の山の上にサーチライトの陣地がつくられました」と記されています。どうやら『太尾の歴史』の方が正しいようです。菊名の安山の高射砲陣地から砲撃をしたそうです。
 海軍では「探照灯」、陸軍では「照空灯」と呼んでいました。敵機の爆音を聴音機で索偵し、照空灯を照射して、高射砲で砲撃する手順です。
 大倉山の照空灯陣地は、殿谷と、大曽根台に作られました。
 高射砲陣地や照空灯陣地は、大倉精神文化研究所本館に海軍気象部が入っていたのでそれを守るために作られたという説もあります。
      (第104回 大倉山の照空灯 -終戦秘話その10-より)

 当時の地図では、こんな位置関係です。(横浜開港資料館所蔵)
(http://www.city.yokohama.jp/me/machi/kikaku/cityplan/gis/map/参照)


昭和16年頃の探照灯、高射砲の位置関係 2012年12月8日 横浜市 横浜開港資料館所蔵