入江町散策記Ⅰ 2006年10月22日
うさおは学生の時から、家紋について興味を持っていました。それと言うのも落語が好きで、江戸文化に底知れとない共感を抱いていました。あの独特の江戸弁ってやつに、こよなく愛着を持ったのです。
「かっちけねえ」、「ゆんべ」、「べらんめえ」、「おれっち」、「あっし」、「こちとら」、「こんこんちきめ!」
圓生演ずるところの「木乃伊取り」の枕では、
「ちかごろの、わがいひとは、どうも、せっかちでいけねえねえ。」ってくだりがありますが、「よござんすねえ~」。
杉浦日向子さんほど凝り性でなかったので、途中から紋章の美学に取り付かれていきました。家紋は今やどこのお宅にも存在し、お墓に刻み込んでいますよね。
もともと、公家か武家でなければ家紋は持ちませんでした。苗字・帯刀と対で存在するものなのです。
ですから、町民でも苗字・帯刀を許された人は家紋を持っていましたし、商人でも屋号とともに紋を持っていました。
幾つか例を挙げておきますと、昔、花魁が「源平籐橘、四姓と枕を交わす卑しき身でありんすのに・・・」と宣うた如く、全ての日本人の祖先を辿ると、源氏、平氏、藤原、橘に行き着くんだそうですな。菊紋と桐紋は朝廷の賜紋ですので、これは別格ですが、ここに代表的な家紋を示しておきます。
うさおんっちの家紋は丸に剣方喰ですが、方喰は葵のご紋に似ていると言うことで江戸時代には、徳川家一門にしか許されなかった時代もあったそうですよ。

「笹竜胆」清和源氏だけではないが、源氏を代表する紋所です。

「揚羽蝶」ポルノグラフィティじゃあなく、桓武平氏を代表する紋とされています。

「下り藤」内藤様が有名。加藤、佐藤、この紋様が逆さになって「上り藤」

「橘」日蓮宗のお寺さんの寺門は「井桁に橘」が一般的です。
墓石は苗字と家紋の関係が判って大変面白いのですが、墓地で他所の家のお墓をぱちぱち写真にとっているところを見られたら、何か怒られそうでまだ出来ないで居るよ。
それに石屋さんに見つかると商売敵が来たのかと、玄翁
※1で頭のひとつもぶん殴られそうです。
以前、入江川という大変ローカルな川の周辺をご紹介しましたが、今回は多少今昔の様子を踏まえてみてみたいと思っています。
(「子安小学校百年史」を踏まえてね!)
子安小学校百年史より
この小学校は以前にも「入江川」の項でご紹介しましたが、この時は明治6年10月に神奈川県橘樹群西子安村3077番地に子安学舎が建てられたと書きました。どうも、正確には当時の文部省による学制の実施により、第三大区四小区子安村と言う学区で萱葺き屋根の学舎が建てられたようです。
この学制の実施が明治5年のことですので、子安小学校は新政府にとっても「学び」の先駆け的存在だったようです。これらの教育には、多くの米国人が貢献しています。スコット、モルレー、クラーク、リーランドなどが文部卿(文部省長官)の顧問として活躍しました。クラークは「少年よ、大志を抱け。」のクラークです。
子安周辺の地図 googlemapより 2006年10月22日
そして明治27年1月に橘樹郡子安村大字村子安入江川1478番地に移転し、「子安尋常小学校」となります。
今の横浜一の宮明神さんの麓辺り、明治乳業の営業所付近でしょうか。うさおたちの母も叔母もこの子安小学校の出身です。母は校舎は木造だったと記憶しているそうです。ですからこの辺りだったんですね。大正12年に関東大震災にみまわれ校舎が崩壊したため、現在の場所に鉄筋コンクリート造の校舎を建てました。
少し航空写真で地形を確認しておきましょう。
1947年 米軍の航空写真より
1955年 米軍の航空写真より
2007年 googlemapより
この大正年間には、この学校に高等科教科が併設されていたそうです。尋常科4年及び高等科3年と言いますから、今で言う中学1年生くらいまで受け持っていたのでしょう。
入江町徘徊 歩くのが嫌なライ隊員 2006年10月22日
先ずはお散歩から始めたのですが、途中からライ隊員がぐずり始め、もう歩くのはいやだと言い始めたものですから、抱っこして家まで持ち帰りました。いやあ、16kgって重い、重い。意気地のないライ隊員でした。
上の地図で、「オルトヨコハマ」は以前日本鋼管の寮があったところで、現在は超高層住宅群があります。
「浅野学園」は「鶴見線」をご紹介した時に述べましたが、浅野惣一郎氏がコンクリートの実技を教える学校として作られました。今や進学校で難しい学校だと聞いています。「鶴見線浅野駅」は氏の業績を称えて駅名にしました。
入江町徘徊 気を取り直して山道を行きます 2006年10月22日
気分を取り直して、お散歩の続きです。今度は裏山から回ってみることにしました。横浜に住んでいるとはいえ、実際はこんな鄙びたところで、最近ようやく開けてきました。辿っていくと昔の子安までの道にぶつかります。いまでは道が狭く余り車では通りたくないところです。
入江町徘徊 急な坂道 2006年10月22日
三菱鉛筆の工場脇を通り、以前「煙突編」でご紹介しました、無くなってしまったお風呂屋さん跡を見ながら、第二京濱国道を横切ると小安小学校が見えてきます。
入江町徘徊 降りると宅地がある 2006年10月22日
入江町徘徊 三菱鉛筆の事務所 2006年10月22日
入江町徘徊 小学校の正門 2003年1月12日
入江町徘徊 小学校の裏門 2003年1月12日
入江町徘徊 中庭 2003年1月12日
入江町徘徊 オルト側から中庭を見る 2003年1月12日
入江町徘徊 左がオルト横浜、右が小学校 2006年10月22日
入江町徘徊 昔の佇まい2006年10月22日
上の白黒写真にある建物の角にある銅版がこれ。
入江町徘徊 新館にもまだ現存している 2003年1月12日
入江町徘徊 装飾を残している 2006年10月22日
こんな風にちゃんと残してあるんですね。白黒写真の側面の逆U字の窓を覚えていてください。
入江町徘徊 ここにステンドグラスがあった筈 2006年10月22日
それがこれ。小川三知のステンドグラスが嵌めてあったんです。残念ながら校舎の建て替えの時に一部を残して壊されてしまいました。内部を写したかったのですが、最近の学校はセキュリティの問題で一般人を入れてくれませんので、「子安小学校百年史」から拝借してきました。
入江町徘徊 2006年10月22日
さて、子安小学校の校章ですが、どうやら月桂樹に子安の字を配しているようです。いっその事、橘樹郡子安村ですから、橘にしてしまえばよいのにね。まあ、大正の時代にしてはハイカラです(大正2年)。
入江町徘徊 校章 2006年10月22日
入江町徘徊 小学校に定番の二宮金次郎 2003年1月12日
入江町徘徊 二宮金次郎像 2006年10月22日
この小学校にはこれ以外にも大正時代の「大禮記念樹」の碑があります。
周りに生えている樹がそうじゃあありませんよ。実際何を植えたかが問題ですが、それこそ橘にして欲しいなあ。たぶん白樺とか、楡とか、ポプラでしょうねエ。
入江町徘徊 大禮記念樹の碑 2006年10月22日
大きな碑は「誠実」と書かれた九十周年記念碑、小さな碑は意味が判らないのだが、「頌徳追暮」の碑。「至誠」、「勤労」、「分慶」、「推譲」の文字が見える。いかにものものだ。意味不明の言葉も混じるのだが。
入江町徘徊 九十周年記念碑ほか 2006年10月22日
兎にも角にもレトロで、明治、大正ロマンを彷彿とし、ノスタルジックを誘うぞ。と、ここまでは「入江川編」のところでも述べたものです。
この子安小学校の周りは、どんどん近代化が押し寄せているが、ここだけ明治のままです。と言いたかったのですが、平成31年に子安小学校は、100mくらい東側に移転してしまいました。あのステンドグラスはどうなったんだろう。大変気になります。
2006年頃の新子安 googleより シネマパーク新横浜あたり
さて、この辺りで疑問だったのが、親父やお袋の昔話に出てくる「おっこち池」は何処にあったのかと言うことでした。この池に行ってはいけない、子供達だけだとおっこちてしまうからと、親達から禁止されていたとのこと。
両親のそれぞれが覚えている池なので、今でも何処かにあるんだろうと思っておりました。図書館で神奈川区史を調べてもそれらしい記述は出てきません。
おかしいなあ?internetでも出てこないぞ!当たり前でした。ついこの間、お袋に再度聞いたところ、どうやら「打越池」という名称だったものらしい。そりゃ判らんねえ。

その当時の写真がこれ。池というよりは沼か田圃。
また、この辺りには昭和初期の時代には、「シネマパーク」という撮影所があったらしい。そして このシネマパークの近辺に、この「おっこち池」があったらしい。
「シネマパーク」については次のような記述が「わが町の昔と今-神奈川区編-」に載っていますの

で参照させて頂きます。
「独立映画の貸しスタジオ」
昭和2年3月に松竹蒲田撮影所の舞台装置部主任・西七郎が、新子安(現在の生麦中学校一帯)に約3万坪の独立映画の貸しスタジオを造った。そこに諸口十九、筑波雪子ら当時の人気俳優が撮影に訪れていた。
撮影の日はナマの俳優の顔が見られるというので、地元の子安だけでなく遠くから“追っかけ族”が押しかけた。蒲田の野村芳亭監督(野村芳太郎の父)が、オールキャストの大作「白虎隊」のクライマックスをここに大野外セットを建てて撮影した。当時の新子安あたりは周囲を山林に覆われ、「白虎隊」の舞台である会津の飯盛山を再現するには最適な環境だったようだ。
しかし、この年9月には経営困難となり閉鎖したが、建物だけは昭和8年頃まで残っていたそうだ。
僅か半年の命であったこの撮影所の撮影風景は、幼き日のお袋の目に印象深いものがあったらしく、今でも鮮明に思い出すようで、良く言の葉にのせます。池の水をポンプで汲み上げ雨として降らした中を、時代劇の俳優さんたちがぐるぐるカメラの周りを回っていた(少人数で大戦闘シーンを演出する手法か?)と言う逸話が良く出ます。
ここで池というのが「キーワード」で出てきますので、これが「おっこち池」だったのではと考える次第です。また「打越」というのは小さな峠※2を指すようですので、子安の丘の峠にある「沼」をそう読んだのかもしれませんね。
シネマパークがあったあたりに、打越公園と言うのがあります。これが手掛かりになるかも知れません。
2019年頃の新子安 googleより 打越公園あたり

左の写真は浅野学園の浅野翁の銅像付近にあった池または沼地の写真です。大正10年頃のもの。
結構満々と水を湛えた立派な池です。ここがその「おっこち池」なのでしょうか?
この写真に写っている人々は、何でここに集まっているのでしょう。何か不自然な感じがします。なにか事件があったのでしょうか、そんな香りがしてきます。って写真かなあ。
結局、「おっこち池」の具体的な場所は判らなかったので、取材はしませんでした。お袋も「何処になるのかしらねえ」と心もとない返事でした。
次回はこの章の続きで、「大安寺近辺の謎を探る」です。この「大安寺」と由佳ちゃんちの「塩前寺」を巡る謎もご紹介したいと思います。
上記の写真は、いづれも「わが町の昔と今-神奈川区編-」に記載されているものです。
※1 玄翁
「玄翁」って呼び方は江戸のでえく(大工)が言っていました。関西では「金槌」と言います。厳密に言うと両者には違いがあるようですが、普通、私達が金槌と呼んでいるものは「玄翁」で、前が槌、後ろが釘抜になっているものが「金槌」です。
※2 「ウツ」とは「狭い谷、崖」、「コシ」とは「麓、崖」を意味するという説もあります。関連文献 産業遺跡を歩く-北関東の産業考古学-
以前にタツノオトシゴさんから貰った、氏のお父さん(文部省だったかの建築技官の方でした。)の遺本。面白いんだけど場所が北関東に限定されているので、多少探して回るのに二の足を踏んでいます。南関東だったら直ぐ行っちゃうんだけど・・・。