鶴見線を歩くⅢ  2004年7月17日・18日~2004年9月19日 



 時はもう秋なので、季節感が薄いのですが、夏の暑いときに取材に行った鶴見線がまだ終わりません。これがストレスの元となって、健康診断で十二指腸に潰瘍があるとご宣託され、近所の病院に行ってきました。かっ、はっ、はっ・・・。
 内科の窓口に診察券を出し、椅子に座っているとちょいと怪しげなおじさんが窓口に来ました。
「どう、梅はまだある?んっ?んっ?」「・・・・・・・・・」
「あの梅干はなかなか旨いだろう。家でもすぐ無くなっちゃうんだよ!」「・・・・・・・・・」
「無くなったら言ってよ。すぐ持ってくるから!じゃあね!」「・・・・・・・・・・・」
 終始、無言で眼鏡の受付嬢と、一人で納得して満足そうに帰ったおじさんとの、秒殺寸劇(コント)の筈だったんだけど、誰も笑わない。みんな引けてた。病院って大変だな。
 また、航空写真ネタなので、少し執っこかったかな。さっきのおじさんのようだな。「廃駅」で紹介しました寒川支線の上空からの景色です。(赤い色の線です。今は遊歩道になっています。)


鶴見線を歩くⅢ  寒川上空(パスコより)

 では、また鶴見線の続きです。

大川駅: 「大川駅」は、浅野総一郎氏の盟友、大川平三郎氏の名前から来ています。大川氏は万延元年十月に川越藩三芳野村に生まれ、赤貧のため十三歳の時に、叔父渋沢栄一の書生となりました。(渋沢栄一の奥さんと氏のお母さんが姉妹だったのです。)渋沢家に借財をすることが度々だったため、十六歳の時に家計のために抄紙会社(後の王子製紙)に働きに出ました。若干二十歳で米国へ留学し、会社の売り上げを5 倍にまでした。後に王子製紙の藤原銀次郎氏とともに日本の製紙王と呼ばれることになります。
 さて、浅野総一郎氏と接点は、大川氏が日本鋼管の2 代目社長であったことと、京浜地区の埋め立て事業に資本援助したと言うことだろうと思いますけど・・・。
 大成建設の技術研究所で副所長をされていた方で、大川平一郎と言う方がいました。お名前が酷似しています。ご子孫かなあ。
 うさおの大学の同じ研究室の先輩であり、大学の研究室で教授に代わられてこの方に、よくお叱りを受けていました。それはうさおが、他の建設会社に入社した後も、論文の不備についてお叱りが続くのでした。 (^_^;)エヘヘ・・・。
 駅そのものは地味で、貨物線の駅のようです。(事実貨物線ですが・・・)大川駅は元々「武蔵白石駅」からの支線でしたが、現在は「安善駅」からでないと乗換えが出来ませんので注意が必要です。


鶴見線を歩くⅢ 大川駅入口 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 大川駅ホーム 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 大川駅 ここにも企業専用の踏切が 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 大川駅 納屋のように見える 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 大川駅付近の風景 2004年7月18日


浜安善駅:  「浜安善駅」は道路沿いにあるので簡単に探せます。でも、貨物の積み下ろし専用の駅なので何処が駅だか良く分かりません。煤ぼけた倉庫のような建物に看板が出ているので多分ここだろうと見当をつけています。高盛りされた、はっきりとしたプラットホームではなく、平地でヨーロッパ辺りの鉄道駅のようです。この一角にだけ緑が濃く、フェンスが無ければ押し入ってしまいたいところですが、「ご近所トマソン隊」は「鉄ちゃん」でも「廃墟マニア」でもないので、そんなことはしませんが・・・。と言う訳でこの駅などは探すのにはロケーションは大変良いのですが逆に「鶴見川口駅」などは、「辨天橋駅」からの支線分岐になることは分かっていても、工場の中を通らないといけませんのでたどり着けませんでした。このあたりは一般道と思われる道路が、実は一企業の私有道路であることが多く、(貨物鉄道もそうですが)立ち入りは許可されません。先ほどの「大川駅」もまだその先に線路はあるのですが、工場の中に入って行ってしまいます。


鶴見線を歩くⅢ 浜安善駅 貨物専用駅 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 浜安善駅 ここで通行止め 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 駅と言ってもプラットフォームがない 達磨転轍機 2004年7月18日

 この道路の反対側は米軍の給油基地であり、カメラを向けるとあっちに行けと怒られてしまいました。もう、撮っちゃったよ~っ。
 まだまだ、日本は敗戦から立ち直ってないなあ。沖縄を始めとする各地の米軍基地が問題となっていますが、この扇島近辺や瑞穂埠頭など厳然として「Keep Out !」です。
 

鶴見線を歩くⅢ 米軍補給廠 給油基地 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 海側にある不思議なもの 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 米軍専用線の手歯止め(車止め) 2004年7月18日


浜川崎駅:  「浜川崎駅」の付近もかつては海岸際で、すこぶる川崎寄りにあったため、「濱川崎」と名付けられました。今ではすっかり周りが埋め立てられて、内陸の駅であるかのようです。昔は「武蔵白石駅」との間に、「海水浴前駅」、「渡田駅」があり、砂浜があり泳ぎも出来れば潮干狩りも出来たと言います。
 確かに子安の濱から渡田にかけては漁業が盛んだったようで、今でも生麦の鶴見川の運河(かつては海岸線だったところですが・・・)は、その当時の貝類の殻で濱が出来ていました。この前行ったら護岸工事をしていてこの貝殻浜は消えつつありました。
 

鶴見線を歩くⅢ 鶴見線の「浜川崎駅」 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 鶴見線の「浜川崎駅」 2004年7月18日

 この駅に対峙するように、道路を挟んで反対側に南武線の「浜川崎駅」があります。南武線は上に高架の道路が通っていますが、工場同士をつなぐ流通路のようです。一般の車両が通れないので、勝手にそう考えています。
 
米軍の給油基地 写真も禁止です!
南武線の「浜川崎駅」
鶴見線の「浜川崎駅」


鶴見線を歩くⅢ 南武線の「浜川崎駅」 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 南武線の「浜川崎駅」 道路との平面交差 2004年7月18日

 で、ちょっと見にはどちらが鶴見線で、どちらが南武線だか、分かりません。そこで、「ドクガク」の方だけにお教えする、秘中の秘、見分け方をお教えします。この写真をご覧ください。ねっ、お分かりですね。南武線は識別するための猫が置いてあるのです。南武線の「浜川崎駅」の写真をもう一度見て下さい。T シャツを着た若者が、ここが南武線だと言うことを確認するために、南武猫に触っています。彼は「よしっ!」と叫び、川崎方面の電車に乗っていきました。 


鶴見線を歩くⅢ 南武線浜川崎駅の確認用「猫」 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 南武線の「浜川崎駅」 これはいったい何だろう 2004年7月18日


昭和駅:  「昭和駅」はまんまの駅で、昭和電工や昭和石油の工場が駅に直結しているところから命名されました。と言うことは、この駅は昭和になって出来た駅だということが分かりますね。昭和6 年に若尾―浜川崎―昭和間が旅客電車として開通しているのでこの前後ですね、出来たのは・・・。しかし、この駅にはそれらしい歴史は無く、碑文も無ければ、あたりにお店や喫茶店もありませんでした。
 

鶴見線を歩くⅢ 昭和駅外観 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 昭和駅 ちゃんとsuicaが使えます 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 昭和駅 昭和だけに昭和電工専用の踏切 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 昭和駅ホーム 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 昭和駅近くの風景 2004年7月18日


扇町駅: 「扇町駅」は、急に思いついてと言うより、新しいデジカメを買ったのでその性能を試したくなり、鶴見線を撮るぞって思い立ち、車を飛ばしました。扇町駅にたどり着くと、どう見ても京浜工業地帯のど真ん中で、近くで家の普請をしている大工さん達の姿以外は誰も見かけることはなく、人気の無いところでした。尤も休日に行っているので平日はそうでないのかも知れません。
 この駅名は、このあたりの埋立地が尽力した浅野総一郎の家紋扇形の末広紋にちなんで扇町と名付けられました。駅名はそのまま「扇町」となりました。
 

鶴見線を歩くⅢ 扇町駅 まるでトイレの様です 2004年7月17日

鶴見線を歩くⅢ 扇町駅 何だか心惹かれる貨車 2004年7月17日

鶴見線を歩くⅢ 扇町駅 鉄塔マニアにはたまらないシルエット 2004年7月17日

鶴見線を歩くⅢ 扇町駅 達磨の転轍機 2004年7月17日

鶴見線を歩くⅢ 1975 年 扇町駅

 鶴見線の最も路線延長の長い一方の終点でもあります。ちなみに対岸にある扇島は昭和39 年に埋め立てられ新しく作られた工場の町ですが、扇町の対岸にあることから扇島と命名されました。この島には日本鋼管京浜製鉄所と昭和シェル石油の貯油所があります。長いこと「扇町駅」は扇島の中にある駅だと思っていました。実は隣の埋立地にあったんですね。名前が似ているので勘違いをしてしまいました。
さて、「扇町駅」の周辺は工場街とわずかな住宅地があります。夜になったら人っ子一人居ない、とっても寂しい町に変貌するでしょうし、犯罪の温床にもなりそうだなと思いつつシャッターを切っておりました。多分、この駅も朝夕の通勤時間以外はほとんど客足の無い駅でしょう。ここの駅も無人ですが、駅舎には運転手、車掌の宿舎があります。それと猫の宿舎が・・・。


鶴見線を歩くⅢ 扇町駅 2004年7月17日
 
鶴見線を歩くⅢ 扇町駅 切符拝見猫! 2004年7月17日

鶴見線を歩くⅢ 扇町駅 103系電車 2004年7月17日

 概してこの鶴見線には、駅員の代わりに猫が「切符拝見!」をしている駅が多いです。
 で、来ておりました。「鉄っちゃん」が。ホームの方にカメラを構えて駅舎を撮りまくっています。次にくる電車を撮るための腕馴らしなのでしょうか。あっ、103系の車両が来ました。
 邪魔だなあ。「鉄っちゃん」が・・・。


鶴見線を歩くⅢ 邪魔な鉄ちゃん 2004年7月17日


新芝浦駅:  「新芝浦駅」は、前項でも述べましたように浅野駅で分岐した一線は東芝の私有地内を通り、海芝浦にたどり着きます。かつてはここの中間に、「末廣駅」がありました。どういう経緯で廃止されたか知りませんが、東芝の新しい工場が出来たことからここに、「新芝浦」という駅を作りました。「浅野駅」からこの「新芝浦駅」につながる道路も実は東芝のものです。入るところにその旨の注意書きがあります。駅のすぐ近くに検問所があり、許可された人しか通してもらえません。Cacco 隊員が、無人駅の中に侵入し、写真を撮っていたまでは何も言われませんでしたが、工場に向けてカメラを構えると、警備員さんが来て制止されました。ライ隊員は、車の中でしっぽを下げて成り行きを見ていました。でも、撮っちゃいましたけど。(これ得意ですね)
 創始者か誰かの銅像が撮れています。東芝も産業スパイに対して厳しい対応を取っていますね。でも、ココム問題では結構、物議を醸しましたから・・・。
 残念!斬りって執つこい?
 この駅は片側が運河で、見た目は海です。(確かに昔は海だったんですけどね!)結構海が荒れている日には、海側のホームに立って電車を待つのは辛いものがあるなあ。
 

鶴見線を歩くⅢ 新芝浦駅周辺 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 新芝浦駅 通りを隔てた海側にある 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 新芝浦駅 交差点が駅に入り込んでいる 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 新芝浦駅 冬は寒そうです 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 新芝浦駅 結構整備されている 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ 新芝浦駅 撮ってはいけない工場の中 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅢ  1978年 横濱より


海芝浦駅:
 「海芝浦駅」。この駅は、東芝の社員さんじゃないと降りることの出来ない駅です。駅の改札が工場の門で守衛さんがいます。社員証の提示を求められます。
 Cacco 隊員やTICA さんのお父さんが東芝の製造長をされていた頃、東芝のなんとか祭の時に、家族に開放される日がありまして、その時にここの敷地の中に初めて入ったことがあります。埋立地を丸まる一社で使っているので、いやあ広いこと、広いこと。
 あの時にトマソン隊だったら写真なんか結構撮っておいたのになあ。残念!(って、もう「斬り!」はやらないよ!)
 でも、鶴見線を訪ねて結構観光客が来るのでしょう。ここには、小さな公園と言いましょうか、庭と言いましょうか、坪庭のようなものがあります。サービスが良いですね。恋人たちもこんなところに来るのかなあ。手摺りに二人の記念のサインが一杯書いてあります。中には恨み節もありましたが。
 ん~、ドラマですね。


鶴見線を歩くⅢ 海芝浦駅到着 2004年9月19日

鶴見線を歩くⅢ 海芝浦駅 駅の改札の向こうは、もう東芝の工場です 2004年9月19日

鶴見線を歩くⅢ 海芝浦駅 ここで釣りができそうだが 2004年9月19日

鶴見線を歩くⅢ 海芝浦駅 すこし、まったりとした気分になる 2004年9月19日

鶴見線を歩くⅢ 海芝浦駅 庭園より留置の電車をみる 2004年9月19日

鶴見線を歩くⅢ 海芝浦駅  何か願いが書かれている 2004年9月19日

鶴見線を歩くⅢ 海芝浦駅 柵に書いたラブレターってか 2004年9月19日

鶴見線を歩くⅢ 1978 年海芝浦駅

 次の電車来るまでの一時間くらいをここのベンチに座って、のんびりするのもたまには良いものです。ここからは翼橋が大変よく見えます。残念だね、ライ隊員は、ここに来れなくて。


鶴見線を歩くⅢ 海芝浦駅 途中に工場に引き込まれる線路が見える 2004年9月19日

鶴見線を歩くⅢ 海芝浦駅 翼橋かな 2004年9月19日

鶴見線を歩くⅢ 海芝浦駅海が迫っているのが判る  2004年9月19日

鶴見線を歩くⅢ 海芝浦駅 なかなか気持ちが良いぞ 2004年9月19日

鶴見線を歩くⅢ  1975 年海芝浦駅


参考文献
「横浜」 横浜市情報誌 1982 年42 号 横浜の鉄道 鶴見と川崎の臨海部の個性滾々(こんこん)の電車 前沢 裕子
「横浜」 横浜市情報誌 1975 年14 号 横浜もののはじめ 鶴見線物語 横田国松
 

鶴見線を歩くⅢ  昭和4年Cタンク型


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