マッカーサー劇場  2003年12月26日



 以前にトマソン隊で「劇場」を紹介した時、鶴見のレアルト劇場の話を書きました。私が結婚して鶴見に移り住んだ時には、既にそのような劇場はなく、どのような形態だったのかを見てみたかった。たかだか4半世紀も経っていないのに、跡形も無いのだ。
 美空ひばりだと思うが、この劇場に出演したとかの話も聞いたことがあるよ。鶴見の地元に住んでいたこともあり、興味津々でしたね。
 後に、caccoの母から教えてもらったのだが、つくの通りにあり、それも駅寄りにあったのだとか。
 この劇場は「新世界」だか「別世界」だかのストリップ劇場に変わったと思う。(鶴見には「新世界」と「別世界」の二つの実演劇場があった。どっちがどっちだか、区別がつかないよ。)
 その後、その場所はマーケットに変りました。今じゃあ判らないね。
 でもね、このストリップ劇場は、鮮明に記憶しているんだけどね。高校が鶴見にあったので、学校の帰りにこの劇場の前を通ることがあり、看板だけで変にドキドキしたよ。
 レアルトと言う名前は、ベニスの地名から来ているとの説もあり、よく判らなかったけれども、何となくノスタルジィを感じさせる名前だと思ったよ。


マッカーサー劇場 総持寺 ライ隊員の不審な行動 2004年1月1日

マッカーサー劇場 ミラノの街のポスター 2003年12月7日

 さて、マッカーサー劇場を知ったのは、ある写真を見てからです。その写真は何を見たものか思い当たりません。当時取っていた朝日新聞の記事だったのかもしれない。
 怪しいのは、「横浜」という市が出版している広報誌だ。昔の写真をふんだんに使って歴史を振り返る記事が多い。山手のゲーテ座(ゲイティ座:トマソン隊「劇場」の項参照)や横濱駅(現桜木町駅)などの写真を見た記憶があります。全巻揃って持っている訳ではないので、この本だったのどうかも判らない。申し訳ない。
 記憶では、トタン張りの劇場の屋根にマッカーサー劇場と書いてあったように思うよ。こんな感じだったと思うんだけどね。


マッカーサー劇場 マッカーサー元帥 2003年12月26日

マッカーサー劇場 記憶の中にあるマッカーサー劇場の屋根 2003年12月26日

 第二次大戦で D. MacArthur が日本軍に追われて、フィリピンを去るときに I shall return. (私は必ず戻ってきます)と言った言葉は有名です。シュワちゃんの「I'll be back.」と何となく被りますけどね。
 
 色々な文献に、この劇場のことが出てきますが、どこいらあたりか、いまいち判然としませんでした。
 人によっては、この劇場を「マックアーサー劇場」とも読んでいました。この方が何だか英語っぽくて少し格好いいぞ。進駐軍が乗り込んで来た時に、米軍に喜んでもらおうとして造ったとも聞いています。日本の復興に役立てようとした、マッカーサー元帥の意志だったとも聞きます。神奈川新聞では以下のようです。


マッカーサー劇場  2003年12月26日


 光音座は今も残っています。掛かっている映画は、ピンク映画ポイけどね。


マッカーサー劇場 光音座 成人映画3本立 2002年2月27日


 例えばこの文献では、こんな写真が残っています。「横浜再現」奥村泰宏/ 常盤とよ子著(前号の読書リストに入れてあります)の見開きページにある写真です。横浜でも雪が残るほど降ったのでしょう。それとも昔は温暖化など無かったので寒かったのかな。
 

マッカーサー劇場 「横浜再現」より 2003年12月26日

マッカーサー劇場 横浜再現の表紙 2003年12月26日

 これだけでは、何処だか判らないが、どうやら野毛の通りにあるみたいだ。これならすぐに判りそうだ。
 それに隣が国際劇場で実演を主体にした劇場があったとそうな。あの美空ひばりがデビューしたところだ。
 「マッカーサー劇場」は映画館だったようで、終戦直後の日本は娯楽に飢えていたから、ものすごい賑わいであったでしょうね。この写真ではこんなふうだ。


マッカーサー劇場 染料の傷跡より  2003年12月26日

 「かすとり横町」と言いましたか、野毛のこの辺りは相当いかがわしい處だったようで、今でもそうですが、終戦の時にはかなりのものであったと思われます。浅草と同じように人が集まるところは、儲かるけれど風俗も多くなるぞ。もちろんうさおは戦後に生まれたので、この劇場のことは知らなかったし、親父も教えてくれなかったよ。


マッカーサー劇場 横浜再現より 野毛、大岡川周辺 カストリ横丁 2003年12月26日

 唯一の手掛かりは、国際劇場に美空ひばりがデビューし、その像が建っているということだ。
 「ゆうりん」と言う情報誌は、横浜では歴史のある有隣堂書店が出版している広報誌ですが、そこにもこの劇場の記述がありましたし、最近買った「よこはま物語」と言う本にも載っていました。
 私が本を買うのは本当に珍しい。何時も図書館の本で済ませています。横浜への郷土愛に突き動かしたのかな。


マッカーサー劇場 松寿司の脇に銅像があります 2003年12月26日

マッカーサー劇場 ほら、こんな感じです 2003年12月26日

マッカーサー劇場 東京キッドか悲しき口笛の衣装でしょうか 2003年12月26日

 地図で探すと「美空ひばりの像」はすぐ判りました。野毛の場外馬券場の真向かいにあります。でも、マッカーサー劇場と国際劇場は、今の場外馬券場の所にあったのだとか。


マッカーサー劇場 左手の建物が場外馬券場WINS 2003年12月26日

マッカーサー劇場 WINSの隣りに競馬喫茶だって ここがマッカーサー劇場 2003年12月26日

マッカーサー劇場 WINS 場末の中にお洒落な建物 2003年12月26日

 町は大きく様変わりしていますが、昔の野毛も色濃く残っています。そのノスタルジーに便乗する様に、こんなお店もありました。


マッカーサー劇場 野毛の街並み 2003年12月26日

マッカーサー劇場 こんなレトロめかしたお店も街に良く似合います 2003年12月26日

マッカーサー劇場 ホテル東海てえのが好いねえ 2003年12月26日

 場外馬券場は意外に若い女性やカップルが多かったぞ。明るい感じで子供のころに感じた博奕場のイメージはありませんでした。
 まっ、それはともかく、美空ひばりの像は小さなもので、もしかしたら大半の人は気づかないで通り過ぎてしまうと思います。私達が写真を撮っていたら、その像をしげしげと覗き込む若いカップルもいました。
 話がそれてしまいました。目的はこの像では無く、「マックアーサー劇場」です。WINSには、マッカーサー劇場があった証拠(看板等)は何もありませんでした。唯一の収穫は、この「ホテル東海」です。
 う~ん野毛だなあ。

 泡沫の泡のように消えていってしまうものに、そこはかとないノスタルジーを感じてしまう自分、これは齢を取ったのかもしれないなあ。
 劇場も何時かは消え行く最たるもので、30年くらいを活動時期として、後は廃れて行くようです。

 うさおの専門である音楽ホールにしても世代交代があります。サントリーホールにしろ、渋谷の文化村にしろ、ホールを維持して行くことは大変(光熱費だけで年間数億円掛かります)なのだが、ホールの人気は、時代とともに残酷に移り変わっていきます。
 私が知っているビクタースタジオは、時流に合わせ生き残るために、毎年のようにスタジオのデザインをリノベーションしています。 
 デザインというものが、感性と機能を含めた試みの繰り返しであるなら、ここのスタジオはまさにそれを具現化しており、使い勝手が悪く、居心地の悪いスタジオは、翌年には違うスタジオに作り替えられてしまいます。


マッカーサー劇場 ビクタースタジオのパンフレットより 2003年12月26日

 本当に使えるデザインしか残りません。調和しないデザインも消えて行きます。
 あっ、Tomy Jr.さんの世界に入っちゃった。

 私が子供の頃から横浜に住んでいますが、マッカーサー劇場って名前なんて聞いたこともありませんでした。あの当時、映画館は家の近くに3軒もありましたし、70mm(これは死語かなあ、シネラマとか)を見たければ、伊勢佐木町と長者町の中間にある「ピカデリィー」か、「オデオン座」に行きました。


マッカーサー劇場 新山下町の崖下 2003年12月26日

 日の出町という町の柄が悪いのか、うさおの親は子供達を連れて行きませんでした。さて、その柄の悪い野毛ですが、大学受験の時は、ここの市営図書館に通っていました。
 冷暖房付で食堂もあります。進学塾に通うほど意気込みも無く、ここで勉強をしていましたが、あまり楽しい記憶はありません。
 でも、ここの図書館の本と紅葉坂の県立図書館の本は、よく借りて読みました。野毛の貯水池は、この時分に知りました。高射砲台の跡地もあったそうですが、未だに判りません。でも、この貯水池近くのはずです。
「桜木町駅に近い野毛山は、高射砲陣地が置かれた野毛の丘陵を挟んで(中略)対空砲火をあげる野毛の高射砲陣地に直撃弾が落下、地下の弾薬倉庫に引火し大爆発が起きるのは、それから間もなくのことであった。」
http://www.history.independence.co.jp/ww2/yok/y05.htm
 でも、爆破されちゃったんだから、高射砲台の跡地の痕跡も無いか?


マッカーサー劇場 母の持っていた絵葉書 ホテルニューグランド 2003年12月26日

マッカーサー劇場 母の持っていた絵葉書 県庁 キング 2003年12月26日

マッカーサー劇場 昔の絵葉書 税関 クイーン 2003年12月26日

 しかし、後天的郷愁のひとつ(マッカサー劇場)が解明されました。でも、すっきりしないなあ。やはり、遺構が残っていないとなあ。


マッカーサー劇場  2003年12月26日

 母親の若かりし頃の写真を見ていますと、山下公園で撮られたものがありました。後ろに移っている建物は何だろう。もしかして、ブルースカイ(クラブ)じゃないだろうか。ホワイトハウスに似せたアメリカ領事館かも知れない。 これもノスタルジックな施設です。


マッカーサー劇場 建設中のマリンタワーとブルースカイ 2003年12月26日

 さて、「占領の傷跡」にあったクイズをひとつ。日本の敗戦により占領軍が進駐してきました。GHQは、其の当時の兵士たちに1冊の本を渡して日本人との意思の疎通を図るようにしていました。その事柄をヒントにして、さて、次の言葉は何でしょう?

「Help! ta-SKET-ay Tasuke-te!」
「KO-SAHN shee-RO!」
「kee,ka-NA,eet-o OO-tsoo-zo!」
「hoant-o noko-TOE o ee YAY!」
「o-TOAF-oo」、「mee-So SHEE-roo」
 兵士達に渡されていた本は、紅色の「日本語慣用句集」という本でした。


マッカーサー劇場 占領の傷跡 表紙 2003年12月26日

マッカーサー劇場 野毛 横浜再現より 2003年12月26日

マッカーサー劇場 野毛 横浜再現より 2003年12月26日

 「占領軍兵士(米兵)たちは、いずれも"Japanese Phrase Book"(日本語慣用句集)という、赤い表紙で文庫判・本文一八○ページの冊子を携えていた。
中身は見開きのページに、英語・日本式発音・ヘボン式表記・日本語の順に、会話用語・軍隊用語や数のかぞえ方まで示したものである。

 第一章はEmergency Expressions(緊急時の表現)で、まず助けを求めることばがならべてある。最初の一列には
Help! ta-SKET-ay Tasuke-te!助ケテ」とある。
 以下、日本式発音と日本語の部分で例をあげてみると、
KO-SAHN shee-RO!(降参シロ)、
kee,ka-NA,eet-o OO-tsoo-zo!(聴カナイト撃ツゾ)、
hoant-o noko-TOE o ee YAY!(本当ノ事ヲ言へ)
といった調子であり、

単語集の部分には、o-TOAF-oo(オ豆腐)やmee-So SHEE-roo(味噌汁)まで載せてある。この冊子は、連合国軍の優勢裡に戦闘が続いていた一九四四年(昭和十九)二月、アメリカ陸軍省が刊行して前線の将兵に配布したのであるが、占領初期、とりわけ多数の兵員が進駐した横浜において、米兵と市民との意思疏通のために大いに活用されたであろう。」
占領の傷跡 服部一馬、斉藤秀夫著