うさお&Cacco
朝日新聞
2025年3月28日 社会欄の記事につげ義春の訃報が載っていました。「あっ、つげさん、亡くなっちゃたんだ」
GURIKO隊長からも読売新聞の記事を送って貰いました。

朝日新聞 2026年3月28日

朝日新聞 2026年4月1日

読売新聞 2026年3月27日

読売新聞 202年3月30日
生涯に残した作品はそう多くはない寡作の漫画家でしたが、朝日、読売の新聞社にこれほど取り上げられることは凄いことだと思う。本人よりも周囲の人間が彼の才能を認めていたからだと考えています。
以前にも書きましたが、つげ義春を意識して読みだしたのは、大学生の時です。中学生時代の貸本屋で読んだ辰巳ヨシヒロの絵柄に似ていて面白いと思いました。ある作品の登場人物に沼田という人物が出てきたので、「沼田って?もしや!」 と思い手に取りました。
不思議な手紙
「不思議な手紙」は、火葬場の火夫の沼田は焼却後の炉に入り貴金属を拾うのが日課、あるとき同僚の東が炉に火を入れたら、炉の中に沼田がいて炎に巻かれていた。東はそれに気づいたが、何を思ったか更に石炭をくべるのだった。つげは漫画家の沼田清と親交を持っていたので、沼田姓が用いられたのではないかと思う次第。
作中に知り合いを出すのはよくあるようで、、「シンデンのマサジ」のマサジは、多分兄の政治のことだと思う、ちなみに弟はつげ忠男。母親の再婚によって更に二人の妹がいます。
うさおは手塚治虫の「COM」は毎月とっていましたが、「ガロ」はマイナーな感じがして手を出していませんでした。「COM」は陽、「ガロ」は陰のイメージで陰陽紋のように感じていました。
つげ義春の「ねじ式」、「赤い花」などは、当時の漫画家の卵連中(予備軍)には評価の高かった作品です。うさおは「COM」派だったので、いささか泥臭い作風が馴染めませんでした。
「ねじ式」は自分の夢の中の出来事を漫画にしたものだと聞いています。夢を具象化するのは多分に「ダリ」的で、しかもリビドーを混在させて表現するのも「ダリ」的です。
絵の表現的には当時流行ったアングラ劇団の猥雑さも彷彿とさせます。
※拙サイト
つげ義春を深読みしてみる
※caccoサイト
つげTコレクション
現代コミック8 つげ義春集の奥付きの記載が面白いです。
つげ義春の現住所まで載っているんですよ。今ならファンが押し寄せて大変なことになっています。更にこの奥付きに健さんの判子が押してあります。健さんから廻ってきた本だったんだ。
うさおはまがいなりにも建築科の学生だったので、「伊豆の長八」には関心がありました。伊豆の松崎に社内旅行に行った時のこと、漆喰鏝絵の殿堂 伊豆の長八美術館を見たことで満足し、「長八の宿(山光荘::漫画では海風荘となっている)」を観に行きませんでした。観光バスは松崎の名所をぐるぐる回り、あれよあれよと言ううちに美術館などを駆け足見学しましたからね。
※拙サイト 入江長八
sin_dokugaku 第80号 職人話
何度か雲見にも行きましたが残念なことに山光荘には泊まりませんでした。当時の宿屋の案内に水洗トイレは無いが、山海の珍味の食事は圧巻と記されていました。水洗トイレが無いことで怖気づいちゃったんだな。
後年、つげ義春の「長八の宿」を読み返して、山光荘に泊まらなかったことを悔やむことになります。
「伊豆の長八」と言えば海鼠壁と鏝絵が有名です。うさおは、どちらかと言うと海鼠壁に興味があります。瓦と漆喰で防火、耐久性に優れた壁です。松崎地区に多くこの壁が残っていることからして、入江長八の鏝捌きもこの地で養われたのでしょう。
海鼠壁も古くから色々な形式があるらしく、江戸文様の美しさを表わしているように思います。江戸文様の形式美は以下の拙サイトを参照ください。
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銅板細工戸袋・江戸柄
入江長八は、絵の勉強や、失恋、ふるさととの訣別、女性との怠惰な生活、苦悩して、すさんだ生活をおくりますが、このような点が似たような生活をしていたつげ義春の琴線に触れたのかな。
つげ義春の生活に大きな影響を与えたのが「藤原マキ」の存在だと思います。この人無しでは、つげ義春を語れません。「チーコ」という作品の奥さんは藤原マキでしょう。
拙サイト
031 縁辺の人考 を再録してみます。
「彼女は1941年大阪に生まれます。高校を卒業後、関西芸術座で本格的な演劇の勉強を始めます。そして上京し、色々な劇団、「ぶどうの会」、「変身」、唐十郎率いる「状況劇場」で活躍することになります。
特に「状況劇場」では、「腰巻お仙」の役どころで主役を演じます。「由井正雪」では夜桜姐さんを演じています。
しかし、名作「腰巻お仙」はその後、李麗仙が台頭してくることにより、主役の座を追われます。
かてて加えて、「状況劇場」では演者に一銭のギャラも支払われなかったので、彼女は極端な借金生活に陥って行きます。昼は演劇、夜はキャバレーと掛け持ちをしていましたが、何しろ巡業が多いため、日銭の入りようが無い。
その頃、つげ義春と知り合いの写真家を通して知己になります。「状況劇場」に腹を立て、彼女は自主退団をしてしまい、つげ義春の家に転がり込み、同棲生活を5年ほど続けます。そして一粒種の正助が生まれたので籍を入れ、正式に柘植真喜子となりました。つげ義春も貧乏暮らしで人間嫌いの漫画家ゆえ、今回の縁辺の人に入れる予定でしたが、奥さんも負けじ劣らずであったため、名誉ある縁辺者入りです。
写真ではいつも笑い顔しかありません。挿絵とエッセーを書いていたが、絵はつげ義春に相当影響されていることが判ります。でも、つげ義春と結婚しなかったら、こんな仕事は出来たのかなあ。
この当時つげ義春は水木プロダクションに出稼ぎに行ってました。彼女は子宮癌に侵され、つげ義春も不安神経症により仕事が出来ない日々「無能の人」が続き、経済的に相当逼迫してきます。彼女は役者であったように表に自分を出したいタイプであったようですが、つげ義春はその真っ反対。
「平凡なぬるま湯のような生活は嫌だ、太く短く生きたい」が口癖の彼女。その思いは彼女に何をもたらしたのでしょうか。それでも貧乏暮らしにはさほどの不満も無かったようで、他所の家の花や、大根を勝手に採ってきては食卓に乗せていました。享年58歳、旦那よりも早くあの世に旅立って行きました。
藤原マキの演劇、絵の才能は多くの人に認められています。特に絵の評価が高いです。
大久保風土記(猫目)では以下の記述がみられます。
https://note.com/okubofudoki/n/n4aaa7767f6b2
嵐山光三郎の「口笛の歌が聴こえる」から
「英介が感心したときに、パトカーのサイレンが聞こえてきた。戸山ハイツ闇の社交会は、水をぶっかけられた緊張感に包まれた。パトカーの音へ対しては、誰もが本能的に反射神経を持っているのだった。パトカーの音は、たちまち一種の効果音となって、別の木の上から、藤原マキ演じる腰巻お仙が現れ、それも、テレビ局のライトにうつされた。」
「ライトがつくと、『あ、こっちでやってるぞ。』と、私は枯草かきわけてそちらへ走る。するとうしろの闇よりケケケケケーッと声があがって、見上げれば少女役の藤原マキ(現つげ義春夫人)が着物ひろげた半裸で、木の上から奇妙キテレツな声をはりあげている、といったアンバイなのだった。」(「泥の季節」)
藤原マキは、昭和16年に大阪で生まれた。高校卒業後、演劇活動を開始し、状況劇場に加わる。この夜の公演が、役者としてのデビューであった。そして、その数年後、漫画家つげ義春と知り合い、同棲生活を続けた後、結婚をする。「リアリズムの宿」など、つげの私小説的な作品にたびたび登場する、売れない漫画家の妻のモデルが、この藤原マキなのである。そして、その後、絵本作家としても活躍するようになる。
また、「つげ義春賛江 祝生誕85年(休筆35年)」では、村田喜代子が以下の様に述べています。
藤原マキは二十八歳でつげと同居し三十六歳で最初の癌を発症、平成十一年再度の癌で亡くなったが、存命だったらこのトイレの絵の話だけで、彼女と手を取り合い、女の子がうつむいてしゃがんで用を足すときの、あの孤独についていろいろ話がしたかった。
図3は何処の田舎の家の情景だろうか。座敷に客人のように石仏が並べられて、女の子がお供え物をしている。庭の方では黒衣のおかしな僧が、また一体石仏を背負ってやって来るところ。田舎では石仏をこんなふうに拝む行事があるのだろうか。それとも真昼の夢か、すべてはのどかな昼に起きた珍事である。
何にしても稀有な感性を持つ人と連れ合いが冥土に旅立ってしまった。
