「たのしいプロパガンダ」
辻田真佐憲・著/・2015年
Tomy jr.
《総評》
プロパガンダとは「大衆を誘導する政治宣伝」だと思っていたが、そもそも「宣伝」という言葉自体がプロパガンダの訳語であり、語源は「動植物を繁殖させる」という意味のラテン語の動詞“Propago”に由来しており、この言葉を最初に用いたのが17世紀のカトリック教会の組織名で「布教」を意味していたというから興味深い。またサブタイトルに「本当に恐ろしい大衆扇動は、娯楽(エンタメ)の顔をしてやってくる」とあるように大衆に警戒されず楽しませる内容である事が“プロパガンダの原則”であると歴史的に検証している。
《構成と内容》
はじめに、第1章 大日本帝国の「思想戦」、第2章 欧米のプロパガンダ百年戦争、第3章 戦場化する東アジア、第4章 宗教組織のハイテク・プロパガンダ、第5章
日本国の「政策芸術」、おわりに、主要参考文献 全221頁 新書版(イースト新書Q)
《著者プロフィール》
辻田真佐憲(つじた・まさのり)1984(昭和59)年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒、同大学大学院文学研究科を経て京都大学大学院客員准教授、文筆家・近現代史研究家。著作に2015年「ふしぎな君が代」、2016年「大本営発表」、2021年「超空気支配社会」など。
《読書の経緯》
私はもともとマスコミやメディアに興味があり仕事でも広報室長をしていたことがあり、TVに出演している著者の言に触れて感銘を受け、図書館で検索してこの本に出会った。
《所感》
私はこれまで戦前の日本や旧ソ連、北朝鮮、中国などで政府が自国民や他国を誘導するために各種のメディアを使って行うあからさまな政治宣伝がプロパガンダだと思っていた。その内容は見るからに不自然で退屈であり自国民は銃で脅されて仕方なく黙って観ているが他国から見ればご都合主義の政治宣伝である事が一目瞭然で笑止千万だと半ば安心していた。しかしこの本を読んでその甘い認識は一変した。
旧ソ連も北朝鮮もナチスドイツも旧日本軍も“優れたプロパガンダはそれと感じさせずに楽しませるのが原則”としてきたという。本書の冒頭で紹介している旧陸軍省新聞班の清水中佐の講演録に「宣伝は強制的ではダメで楽しくなければいけない」とあるように、旧日本軍も人気コメディアン一座や宝塚少女歌劇団そして軍事歌謡などを利用し、台詞や歌詞の一部に国策を若干盛り込むという手法を是としてきたという。
そしてプロパガンダと言えばすぐにゲッペルス宣伝相を思い浮かべるドイツだが、意外なことに戦前の日本が反面教師にしたのが第一次世界大戦でのドイツであり、当時ドイツは戦地で善戦しながらも自国民の世論が厭戦に傾いて敗北したため、近代戦争では思想戦や情報戦が重要だと改めて認識したらしい。北朝鮮の金正日はモランボン楽団の様な国営アイドルグループを作り、韓国政府はKポップなどの文化芸術産業を支援している。そしてプロテスタントに対抗するカトリックの布教に始まり、かのオウム真理教やアルカイダ、イスラム国などの宗教組織もあらゆるメディアを動員している。さらに現在の自衛隊がテレビ番組やゲームソフトへの制作協力をするといった活動もプロパガンダにほかならず、こう考えると一般企業や団体の「広報戦略」と何ら変わらないのである。
政府が国民に国策を支持させる、宗教団体が人々に布教して信者にする、それらは最終目標であって、宣伝活動や広報活動は単に興味を持たせる、好感を持たせる、身近に感じさせるだけでも充分に効果的だ。それはマーケティングにおいてCMだけで商品を買わせなくても商品名や企業名を認知させるだけで意味があるという“AIDMAの法則”に則っている。自衛隊のように志願制の組織が新入隊員を募集する際にこうした活動をすることは自然なことであり極めて健全なことともいえる。それは大衆に商品を売って利益を得ようとする営利企業も同じであり、ここに危険性や恐怖が入り込む余地はないと考えられる。
但し、戦前の日本のように「国策に協力させたい政府の意向」と、その政府に睨まれて商材が潰されて損失を被るリスクを犯さずに「利益を上げたい企業の意向」が一致すると、規制や強制という形をとらなくても「忖度」によって国策に反する活動や言論は自然と淘汰され、大衆は知らず知らずのうちに政府に誘導され統制される、という不健全な事態が生じるのは無謀な太平洋戦争に突入していった我が国の現代史を見れば明らかである。
著者は最終章で百田尚樹氏の著作「永遠の0」が“右傾エンタメ”として批判されていることを紹介する一方で、宮崎駿氏の「風立ちぬ」も同様に軍事を扱い史実とフィクションを往還しているものの彼の信条を鑑みてもこの作品は一作家の創作意欲に基づくものなので“右傾エンタメ”ではないとの見解を支持している。私はこの著者の見解には若干違和感を覚える。確かに百田氏は現在、日本保守党の党首という立場で政治活動をしている政治家なので、この著作は政治宣伝を行うプロパガンダだと言われるが、その活動の根底には作家として或いは個人としての思想信条がある点では宮崎駿氏と同じではないか。宮崎氏が政治的な立場でリベラルであろうが政治に無関心であろうが、また百田氏の様な政治活動の有無に拠らず、作家は自らの思想信条に基づいて創作活動を行うものだと思うからだ。私は「永遠の0」を映画で観て感動したし百田氏の「海賊と呼ばれた男」という著作にも感銘を受けた一人であるが、彼の政治信条に諸手を挙げて賛成する者ではない。
とはいえ、著者である百田氏の思想信条を考え合わせると、彼の作品に対する「感動」や「感銘」は今一度、自分の中で吟味せざるを得ないと思う。ことほどさようにプロパガンダを排することは困難を伴う。かつて私はアメリカの映画産業ハリウッドの作品群に軍事国家アメリカのプロパガンダの匂いを感じたが、つまるところ佐藤健志氏の「ゴジラとムサシと僕らの民主主義」にあるように、自分が触れる全ての文芸作品や芸術作品について、その作者の思想信条をしっかり把握することしかないのではないかと思った。(2026.2.6)
