10年前に何をしていたのか。横浜の開港広場に掘り出した「転車台」が飾られていると聞いたので行ってみました。この広場から改修小路の終わった「象の鼻」を見ることが出来ます。
 大きなパネル群と掘り出された転車台がありました。転車台は錆びついており、寂寥感が漂います。S君ならこの上で歌っちゃいますね。S君がここで歌う曲は「花 -メメント・モリ-」。「深海」に入っているよ。戦争という貿易港の機能の「死」、リノベーションによる新たな役割を与えられた「生」。


開港広場 2015年5月4日



 この広場の名前は「開港広場」。でも2009年には、「象の鼻パーク」って言っていたような気がする。ここにあった東西倉庫は、2008年の春には跡形も無く解体されてしまいました。

開港広場 横浜税関側を望む 2009年9月27日

開港広場 波止場会館側を望む 2009年9月27日

 広場に建てられたパネルは全部で27枚。パネルの側面には、横浜港の歴史に関与した人物の抄文が紹介されています。気づいたのは写真を詳細に見ていた時、枠の側面に顔写真入りで銘板が付いていました。2枚だけ人物が判っているので示しておきます。

小野 光景(1845年4月21日-1919年9月18日)

信濃国伊那郡小野村の生まれ。明治15年(1882年)に横浜商業高校の前身の横浜商法学校を創立。絹糸輸出の小野商店を創業。横浜正金銀行の頭取、横浜商工会議所会頭などを歴任。
(Wikipediaより)








小野光景


市原 盛宏(1858年5月17日-1915年10月4日)

熊本県の阿蘇神社宮司阿蘇家の家臣村上直七の子。同志社で教鞭をとり、新島襄を校内で補佐し、不在の際は社長代理を務めた。学生の指導は高圧的であった。反発を強めたのが、徳富蘇峰であり、学生のストが起こり、新島襄の自責の杖事件で収拾を見た。
1895年に日本銀行に入行、第一銀行横浜支店長、横浜市長を歴任し、朝鮮銀行初代総裁に就任した。
(Wikipediaより)
市原盛宏

 転車台が活躍していた当時は、多分、目の前の岸壁に小型の貨物船が着き、背の低い揚重機で荷下ろしし、トロッコに載せ、転車台で方向転換し、貨車に載せられ、旧横浜駅(現桜木町駅)まで運んだものと思われます。


転車台の発掘 2008年10月19日

掘り出された転車台 2008年10月19日

 掘り出された煉瓦が野積みにされています。一つづつ拾って、刻印を調べたい。そんなことをしていると、埋蔵文化財センターの金髪の人がどこかで視ているかも。
※刻印の形状で何処で製作されたかが分かります。


放置された煉瓦 2008年10月19日

 揚重機(クレーン)と言えば、横浜では新港埠頭のハンマーヘッド・クレーンが有名ですが、あれは大正3年に設置されたもの。大型貨物船が入港する前は、これらの小型のクレーンが活躍したんだと思う。


揚重機 2001年9月22日