千畳敷山防空砲台遺構
うさお&Cacco
平塚は知る人が知る軍都でした。海軍火薬廠、海軍工廠科学実験部などの兵器の製造工場が多くありました。それらを敵襲から守るために、高角砲の砲台や地下壕が多数ありましたが、今では数えるほどしか遺構は残っていません。
平塚なかでも比較的小高い山が大磯寄りにあり、高麗山とか千畳敷山とか、湘南平と呼ばれています。この頂上に砲台があり、12.7cm2連装2基高角砲4門、25mm2連装機銃1基2門、25mm単装機銃1基1門があったそうです。
以前にニシサンに何回も連れて行って貰いました。相模湾が見渡せる眺望の良い所です。天候に恵まれれば、千葉、三浦半島、伊豆半島、富士山を見ることが出来ます。
Caccoの従弟夫婦に連れられて砲台を見に来ました。
湘南平頂上 テレビ塔が見えます 2025年6月27日
展望台なのですが戦艦の艦橋のようです 2025年6月27日
階段の途中に湘南平の碑がある 2025年6月27日
山頂には見慣れぬ碑が建っていました。ニシサンと来た時にもあったっけな?
日本山岳会の先駆者
岡野金次郎
岡野金次郎は明治七年(1874年)、現在の横浜市保土ヶ谷区に生まれました。後に日本山岳会初代会長となる小島烏水とは、明治二十七年の徴兵検査で出会いました。
明治三十五年(1902年)、岡野と小島は日本人登山家として初めて槍ヶ岳への登頂を果たしました。その翌年、岡野らは自分たちより前に槍ヶ岳に登ったウォルター・ウェストンと出会い、日本にも山岳会をつくることを勧められます。これが日本山岳会の設立につながりました。
昭和十五年(1940年)、平塚に移り住んだ岡野は、昭和二十年に戦災に遭い、平塚を離れますが、昭和二十八年には再び平塚に戻ります。そして、昭和三十三年になくなるまで、平塚に住み続けました。
富士山が好きだった岡野は、散歩に出かけては平塚海岸や八幡山から富士山を眺めていたと言われます。
平成十七年(2005年)三月 平塚市
岡野金次郎の碑 2025年6月27日
その碑文 2025年6月27日
小さな展望台が見えてきます。この上に登っても相模湾の雄大さは堪能できません。富士山と平塚市内は良く見えます。
小さな展望台 2025年6月27日
Caccoと従弟夫婦 2025年6月27日
この展望台の裏側に8センチ高角砲の砲座跡が残っています。
砲座跡か 2025年6月27日
平塚を襲った米軍のB29爆撃機は、ゆうに一万メートルを超す高さで飛来したため、8センチ高角砲では射程が届きません。それで12.7センチ2連装高角砲を設置しました。ただ、高角砲が電気駆動だったため電力供給を絶たれてしまうと応射出来なくなってしまいます。館山の大房岬砲台も千代ケ崎砲塔砲台も地下発電所を持っていました。
戦時の記録では、大空襲の際には千畳敷山砲台からの応射が無かったとあるので、早い時期に電力が絶たれたのかも知れません。猿島砲台にも同じような応射出来なかった記録が残っています。
所々にボルトの跡が錆びて見える 2025年6月27日
さてこれは何の跡でしょう。当時のものか後からのものか。砲座の近くには弾薬庫が残っている筈なので、その地下施設のものなのでしょうか。浄化槽だとガッカリ。
正体不明な施設跡 2025年6月27日
元気な彼らはテレビ塔の展望台に登っていきます。うさおは大汗をかきながら、近くの木陰の椅子に腰かけて、ボーとしていました。足が動きません。休まなくちゃ。
テレビ塔の展望台 元気な彼ら 2025年6月27日
junji君とmilkyさん 2025年6月27日
もう一つの展望台に向かいます。暑い、カキ氷は無いかな。無性に食べたい。しかし、本当に戦艦の艦橋によく似ているなあ。
展望台 レーダーが設置されているようだ 2025年6月27日
カキ氷は無いねえ 2025年6月27日
この展望台の一階にも新しく食べ物屋さんが出来ていました。とてもハワイアンでしたよ。
一階のホノルル食堂 2025年6月27日