立佞武多
       青森紀行その4 立佞武多
 

                       うさお&Cacco

 五能線五所川原駅から300m位のところに、「立佞武多の館」があります。ここも則雄さんが連れて行ってくれました。
 立佞武多とは高さ23mの縦に長い佞武多(人形灯篭)を指します。立佞武多の歴史は意外に浅く、近年(明治中期)から豪農、大地主が佞武多の山車を競い合ったことから始まります。競い合った結果、佞武多はどんどん背が高くなり、8階建てのビルと同じ高さになりました。

 ねぷたの語源は館内に貼ってあります。以下のようなものです。

ねぷたの語源
 青森県津軽地方の各地に数多く伝わる「ねぷた(ねぶた)まつり」。
 最も古い「ねぷた」の記述は、正徳三(一七一三)年の「津軽秘艦」にある「弘前で「ねふた」を出した」という記述と言われ、また天明八(一七八八)年の「奥民圖彙」には「子ムタ祭之図」と題された挿絵があり、灯龍に花や柳の枝、扇状の飾りをつけて練り歩いた様子が描かれている。このように「木や竹で作った骨組みに和紙を貼り付け、その中に灯りを入れて町中を運行させる」というスタイルは江戸時代すでに定着していたと推察できるが、その元となった起源には諸説あり、今日まで決め手となるものはない。
 現在、ねぷたの原形ではないかと考えられるのは以下の三つの説である。

坂上田村麻呂の陸奥征討
 延暦十四(七九五)年の陸奥征討の際、坂上田村麻呂が山中に立てこもった蝦夷をおびき出すために大きな灯篭人形に灯をともした上に笛や太鼓ではやし立て、賊がいぶかって山から出てきたところに奇襲をかけたのを起源とする説。当時のアイヌ語で「あれは何だ」という意味あいの「ネプタン」なる言葉もあったことから「ネプタ」の語源であるともいわれた。

津軽為信の大灯篭
 文禄二(一五九三)年、津軽藩初代藩主である津軽為信が京都守護のために上洛していた際、都の人々を驚かすため、家臣の服部長門守に命じて二間四方の大きな灯篭を作らせ、中に灯をともしてお盆の時季に都を練り歩いた、という逸話にもとづく説。
 東北人の「じょっぱり気質をあらわすエピソードであり、また弘前のねぷたとして定着している 「扇ねぷた」は津軽為信の幼名「扇」に由来しているとされているため、その点で強い関連性をうかがわせる。

ねむり流し
 収穫期の睡魔を追い払うための「眠気払い」として日本各地に広く伝わる風習「ねむり流し」を起源とする説。いずれも人形や灯篭を睡魔に見立てて川や海に流す点がねぷたと似通っている。津軽弁では「眠い」「眠たい」の意を表す語として「ねんぷて」(弘前方面)・「ねぷて」(青森方面)などの表現があることから、それが転じて「ねぷたまつり」「ねぶたまつり」の名で親しまれるようになったものと思われる。


立佞武多の館 2024年10月14日

 中に入ると道路に面した大扉があり、祭りの時にはこの大扉が開いて大きな立佞武多が街に繰り出します。


立佞武多の館 館内の様子 2024年10月14日

立佞武多の館 受付で入場券を買います 2024年10月14日

立佞武多の館 お土産品が沢山 2024年10月14日

 
立佞武多展示室の大ホールに入って行くと、そこには大きな立佞武多が3体ほど展示されています。でっでかい。閻魔様と、歌舞伎の暫と、素盞嗚命がモチーフです。

●閻魔様


立佞武多の館 閻魔様 2024年10月14日

立佞武多の館 閻魔様 2024年10月14日

●歌舞伎の暫


立佞武多の館 歌舞伎の暫 2024年10月14日

立佞武多の館 歌舞伎の暫 2024年10月14日

●素盞嗚命


立佞武多の館 素盞嗚命 2024年10月14日

 
昔のねぷたを描いた板絵が残っており、これを基にねぷたを作ります。


立佞武多の館 板絵 2024年10月14日

立佞武多の館 板絵 2024年10月14日

 ねぷたの大きさはかなりのもので、豆粒のような人と比べると実感できます。


立佞武多の館 豆粒のような人 2024年10月14日

 こちらには雛型のような小さいねぷたがあります。これを参考にして巨大なねぷたを作ったのでしょうか。


立佞武多の館 ねぷたの雛型? 2024年10月14日

 金魚ねぷたの灯篭も有名です。金魚は金運や幸福を呼ぶ縁起物として親しまれています。蛙もいましたがこれは何でしょうね。


立佞武多の館 金魚ねぷた 2024年10月14日

立佞武多の館 蛙ねぷた 2024年10月14日

 さて、記念写真を撮りましたが、後ろのねぷたが勇壮すぎて、何だか宇宙を連想させますね。


立佞武多の館 宇宙だ~あ 2024年10月14日