子安小学校 2003年1月12日
さて、子安小学校は今では近代的な校舎になっていますが、この学校は横浜の歴史と言えます。明治 6 年10 月に神奈川県橘樹郡西子安村3077
番地に子安学舎として開校しました。この時の学区は東子安、西子安、新宿の3 村であったそうです。どこの地を指すのか、今ではさっぱりです。通称「浜の学校」と言われました。
明治 20 年に尋常小学校に改まり、明治23 年には西寺尾も子安小学校の学区域となりました。
子安小学校100年史より 校舎全景
そして一之宮の下あたり、宮前橋の畔の今の株式会社明治の辺りに、子安村立尋常子安小学校として新築移転しました。大正 12 年の頃は、母も通学していたといいますが、9
月1日に関東大震災に襲われます。
そして大正15 年に、横浜市子安町溝の下の現在の地に、鉄筋コンクリート3 階建ての新校舎を建て、昭和 20 年には、今度は大東亜戦争の被害を受けることになります。
終戦後は神奈川、子安に進駐軍のベースが出来、子安小学校の近くにも米軍施設の何かがあったように思うのですが、良く覚えていません。七つ年上の日出彦さんなら覚えているかもしれません。昭和
25 年に西寺尾小学校が創立され、神ノ木町や西寺尾の学区は分離されます。うさおが昭和29 年に西寺尾小学校にあがったのは、この辺の事情によります。
いまでもこの当時の建造物の青銅製のレリーフを一部、残しています。
子安小学校 北側から見る とてもモダン 2003年1月12日
子安小学校 体育館 2003年1月12日
子安小学校 嘗ての建物の銅板 2003年1月12日
子安小学校 嘗ての建物の銅板 子安小学校100年史より
入江町徘徊 小学校の正門 2003年1月12日
入江町徘徊 中庭 2003年1月12日
入江町徘徊 オルト側から中庭を見る 2003年1月12日
入江町徘徊 左がオルト横浜、右が小学校 2006年10月22日
入江町徘徊 昔の佇まい2006年10月22日
上の白黒写真にある建物の角にある銅版がこれ。
入江町徘徊 装飾を残している 2006年10月22日
こんな風にちゃんと残してあるんですね。白黒写真の側面の逆U字の窓を覚えていてください。
入江町徘徊 ここにステンドグラスがあった筈 2006年10月22日
それがこれ。小川三知のステンドグラスが嵌めてあったんです。残念ながら校舎の建て替えの時に一部を残して壊されてしまいました。内部を写したかったのですが、最近の学校はセキュリティの問題で一般人を入れてくれませんので、「子安小学校百年史」から拝借してきました。
入江町徘徊 幻のステンドグラス「秋草」 2006年10月22日
さて、子安小学校の校章ですが、どうやら月桂樹に子安の字を配しているようです。いっその事、橘樹郡子安村ですから、橘にしてしまえばよいのにね。まあ、大正の時代にしてはハイカラです(大正2年)。
入江町徘徊 校章 2006年10月22日
入江町徘徊 小学校に定番の二宮金次郎 2003年1月12日
入江町徘徊 二宮金次郎像 2006年10月22日
この小学校にはこれ以外にも大正時代の「大禮記念樹」の碑があります。
周りに生えている樹がそうじゃあありませんよ。実際何を植えたかが問題ですが、それこそ橘にして欲しいなあ。たぶん白樺とか、楡とか、ポプラでしょうねエ。
入江町徘徊 大禮記念樹の碑 2006年10月22日
大きな碑は「誠実」と書かれた九十周年記念碑、小さな碑は意味が判らないのだが、「頌徳追暮」の碑。「至誠」、「勤労」、「分慶」、「推譲」の文字が見える。いかにものものだ。意味不明の言葉も混じるのだが。
入江町徘徊 九十周年記念碑ほか 2006年10月22日
兎にも角にもレトロで、明治、大正ロマンを彷彿とし、ノスタルジックを誘うぞ。と、ここまでは「入江川編」のところでも述べたものです。
この子安小学校の周りは、どんどん近代化が押し寄せているが、ここだけ明治のままです。と言いたかったのですが、平成31年に子安小学校は、100mくらい東側に移転してしまいました。アのステンドグラスはどうなったんだろう。大変気になります。