飯田橋界隈の御堀端  2018年10月12日


 ここ数年、江戸城の西側の御堀端に行くことが多いうさおです。20数年前には、毎日のようにお茶の水に通っていましたが、その時にはお濠を眺めるゆとりもなく、ただ脇目も振らず通っていました。
 最近は年を取って、人生の残りが少なくなったせいか、飯田橋界隈の余計なものが気になるようになりました。

御茶ノ水のあたり

 知らない土地を、てこてこ歩いてみると何だか面白い。先ずは2014年に御茶ノ水駅から秋葉原駅に向かいました。


御茶ノ水駅 あれは聖橋だな 2014年6月13日

聖橋の下を通って 2014年6月13日

外堀通り 聖橋の道路橋 鋼板桁に橋台 2014年6月13日

地下鉄丸ノ内線のあかり区間 2014年6月13日

万世橋のあたり

 秋葉原と御茶ノ水間には、万世橋駅がありました。「東京鉄道遺産」小野田滋著にありますが、神田川に掛かる万世橋架道橋は明治6年に完成し、時の東京府知事大久保忠寛によって「よろずよばし」と名付けれたそうですが、何時の間に巷間では、「まんせいばし」と呼ばれるようになりました。
 ここには旧萬世橋駅もモニュメントとして残っています。
 027廃線厚木基地、廃駅に、地下鉄銀座線の旧萬世橋構築を載せています。廃墟pwが必要ですよ。「ご近所トマソン隊かなあ」のページに戻って考えてみてください。


煉瓦高架橋下のモール 2013年9月15日

煉瓦高架橋下 旧萬世橋駅通路跡 2013年9月15日

煉瓦高架橋下の萬世駅モール 2013年9月15日

煉瓦高架橋の街路灯 2013年9月15日

煉瓦高架橋 橋上の駅のサイン 2013年9月15日

煉瓦高架橋の隅角部は石積 2014年6月13日

煉瓦公共の店舗街 2014年6月13日

煉瓦高架橋のメダリオン 2014年6月13日

煉瓦アーチの補強 2014年6月13日

ここは調整桁があった所かな 2014年6月13日

万世橋橋台のモニュメント 2014年6月13日

水の都ベニスのようだ 行った事は無いけど 2014年6月13日

飯田橋のあたり

 お濠の水が静かに淀んでいて、それでいて不潔ではない。良いですね。ゴミが浮いていないところが、道頓堀とは大違い。
 飯田橋の辺りもお濠は結構面白い。紆余曲折があって、なかなか複雑です。2015年に幹事会で飯田橋駅に来ました。東京の大都会のこんなお濠端に、鷺がいるとは思いませんでした。餌の魚がいるんでしょうかね。


JR線の直ぐ脇がお濠 2015年6月18日

なにやら蠢くやつがいる 2015年6月18日

白鷺だね 2015年6月18日

 やはり幹事会の集まりで、飯田橋に行きました。時間があるので少し散策をしてみました。結構面白いものが沢山ありそうです。この辺りは江戸時代には、旗本屋敷があり、今は大学と出版社がお堀端に集中しているように見えます。
 街を歩いていると、煉瓦造りのスナックがありました。おお煉瓦だ。刻印が打っていないか探したけど、わからなかったです。私が携帯を建物に向けていると、おじさんが話しかけてきました。私はこの店で酒を覚えたんですよ、もちろんママは先代のママですけどね。うっん、何時の時代だ?うさおと年恰好が似ているので、戦後生まれか?配給時代じゃないだろうな?


スナック紅 2018年10月12日

ここの穴は何だろう?明り採り? 2018年10月12日

赤い扉がスナックの入口 緑のトタンと補色関係だ 2018年10月12日

階段の上が住居かな 2018年10月12日

ブロックは最初からあったのか? 2018年10月12日

 路地を回ると、面白いウィンドウがあった。このビルは出版社なのかな。色々な本が飾ってありましたが、あまり書店では見かけないので、自費出版の本かな。


Beaux-Arts ボザール飯田橋 2018年10月12日

うさおが知らないだけで売れている本なのかも 2018年10月12日

 飯田橋界隈は、表通りは近代的なスタイルに様変わりしていますが、ちょいと横丁に入ると昔懐かしい店の構えが残っていて、昭和の香りが漂ってきます。


まごころ料理 近ちゃん 2018年10月12日

思わぬところに階段が 2018年10月12日

粋なお家ある 木札は纏、籠目、将棋の二の模様が 2018年10月12日

どうやら2番組 鳶さんかな? 2018年10月12日

東京大神宮

 階段を登りきると、東京大神宮が急に現れてきます。東京?明治の時代に造営されたのでしょうか?東京大神宮の由緒を辿ってみると、
「江戸時代、伊勢神宮への参拝は人々の生涯かけての願いでした。明治の新国家が誕生すると、明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に「日比谷大神宮」と称されていました。関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っております。」
、おお三回も名称が変わったんだ。縁結びの神様なんだって。そういえば若い女性が多く参拝していたなあ。


東京大神宮のしおり 2018年10月12日

東京大神宮 隣は研修所 2018年10月12日

東京大神宮の大鳥居 2018年10月12日

手水場 列をなしています 2018年10月12日

手水場の守り神は龍です 2018年10月12日

手水場を一段登ると飯富稲荷神社がある 2018年10月12日

万安樓から寄進された燈籠か? 2018年10月12日

神殿の幔幕は16の菊花弁、菊の葉の紋様は珍しい 2018年10月12日

結構大きな社殿で、結婚式も多いそうです 2018年10月12日

横町の御稲荷さん

 東京大神宮から、少し駅の方面に戻った横丁に、桐生稲荷神社がありました。しっかりとした氏子さんが守っているらしく、小振りですが子綺麗なお社です。


桐生稲荷神社 2018年10月12日

鳥居、扁額もしっかりとしていて 2018年10月12日

お狐様が守っています 2018年10月12日

青森のアンテナショップ

 倅の嫁さんは青森の人です。飯田橋駅のすぐ近くに、「青森県のアンテナショップ」がありました。北彩館と名付けられていて、林檎の絵が描かれています。


青森のアンテナショップ 2018年10月12日

牛込橋のあたり

 それでは、飯田橋駅付近の戻ってみましょう。駅は掘割の中にありますが、そこには江戸城の石垣がしっかりと残っています。


駅近くの江戸城外堀の石垣 2018年10月12日

 ここは牛込見附(敵の侵入を見張る御門)があった所です。説明版に詳しいですよ。


牛込見附の説明版 2018年12月20日

 この牛込橋についても説明版をお読みください。


牛込橋の由来 2018年10月12日

橋の親柱には小さな櫓が 2018年10月12日

街路灯 2018年10月12日

うしごめばし親柱 2018年10月12日

残されている外堀の石垣 2018年10月12日

 飯田橋駅は大規模な改修の真っただ中で、昔あった橋脚なんかはバサバサ切り飛ばされていますよ。


改修工事のために橋脚の切断 2018年10月12日

それを眺めている鳩の親柱 2018年10月12日

旗本屋敷跡

 飯田橋駅の西側に「旗本屋敷跡」があります。日本歯科大学附属病院の玄関前にあります。「下馬」と石に書かれていますね。


旗本屋敷跡 2018年12月20日

旗本屋敷跡 下馬と書かれている石碑と蹲石 2018年12月20日

旗本屋敷跡 説明版 2018年12月20日

旧甲武鉄道跡

 財政困難な明治14年の時に、国は鉄道の運営を民間に任せ「私設鉄道」を認めました。それを受け、雨宮啓次郎らは新宿から羽村間の馬車鉄道(甲武馬車鉄道)を計画します。しかし、同様な私設鉄道事業が蒸気駆動を申請したため、甲武鉄道も蒸気駆動を申請します。
 当初、協力者だった大隈重信と対立した雨宮は、困った末に安田善次郎らの資金調達を得て、甲武鉄道を開業させることが出来ました。その後、新宿―牛込―飯田町―万世橋間の市街線は、日本の普通鉄道では初めての電車を走行させています。
 東京縦貫高架鉄道は、新橋駅から御茶ノ水駅の煉瓦アーチ高架橋の市街鉄道です。甲武鉄道はこの線を完成させると同時に国有化され、東京縦貫高架鉄道と共に今の中央線になりました。
 その牛込から飯田町のあたりの遺構はほとんど残っていませんが、記念碑だけは見ることが出来ます。そのうちの飯田橋界隈のものだけを見てみましょう。
 ※雨宮啓次郎 甲州商人、鉄道王、日本製粉の生みの親。江ノ島電鉄の社長もしていた。江ノ島電鉄は一時は横濱電氣の子会社だった。横濱電氣株式会社については、00014益田廣岱伝6 小伝参照


水道橋から飯田橋にかけての位置図 googleより

 まずは、水道橋駅に降りてみます。


水道橋駅を降ります  2019年1月24日

 北に向けてほんの少し歩くと、新三崎橋にたどり着きます。


運河に架かる橋  2019年1月24日

 橋を渡り切るとすぐ目の前に、ホテルメトロポリタンエドモントが見えてきます。ホテルメトロポリタン エドモンドとは、日本初の新橋横浜間の鉄道の功労者、英国人鉄道技師「エドモンド・モレル」の名を付けたホテルです。
 目の前のダイワビルも昔は甲武鉄道の敷地でした。


奥の茶色の建物がホテルエドモント  2019年1月24日

 ここで甲武鉄道が活躍していた頃の航空写真を見ると、右下に転車台らしきものが写っています。ここが車両基地だったのでしょう。今渡ってきた新三崎橋は、右上の手前の橋です。
 飯田橋アイガーデンパレスの階段には、甲武鉄道の0㎞の起点の碑が残っています。


在りし日の甲武鉄道 航空写真 幻の東京赤煉瓦駅 §9 _ 新訂 旅と歴史から

 レールが敷設してある正面のビルが、飯田橋アイガーデンパレスで2階に上る階段の途中に0㎞の碑があります。


ホテルの前にはレールが残っています  2019年3月27日

甲武鉄道0㎞の碑 2019年3月27日

甲武鉄道の説明 写真は飯田町駅  2019年3月27日

階段の上に碑が残っている  2019年3月27日

 飯田町駅跡の碑を見に行くと途中に「秋田書店」がありました。最近の新刊本や連載の宣伝垂れ幕などありました。


秋田書店本社  2019年3月27日

新刊雑誌のショーウィンドウ 右上はメーテルさん? 2019年3月27日

 こっちは単行本ですね 2019年3月27日

バキの宣伝  2019年3月27日

 甲武鉄道飯田町駅記念碑を探しに行きましたが、見当たりません。おかしいなあ。これだと思って近づいてみると、全く違うものでがっかりです。
 北辰社牧場とは、榎本武揚がここで4、50頭の牛を飼い、北辰社牧場を作っていました。東京農大もここにあったようで、徳川幕府の開いた「育英学農業科」が発展したものです。榎本武揚は初代学長になっています。 


江戸時代は起伏のある丘でした  2019年3月27日

幕臣のための牧場を作ったそうです  2019年3月27日

 次に見つけたのが徽章業発祥の地の碑です。徽章ってあの襟に付けるバッチのようなものですよね。この辺りで作っているお店が多かったのかな。


東京大神宮の碑のそばに  2019年3月27日

徽章業発祥の地の碑があります  2019年3月27日

その説明文 2019年3月27日

 似たような柱が建っていましたが、歴史プロムナードの紹介のもので、この街道沿いに建てられた記念碑の案内のものでした。


歴史のプロムナードの碑  2019年3月27日

その説明文  2019年3月27日

 先ほどの北辰社牧場の榎本武揚が、この大学の生みの親です。榎本武揚は幕臣でありましたが、明治になってからもその才を惜しまれて、新政府からの要請を受け逓信大臣や文部大臣、外務大臣、農商務大臣な度を歴任しています。武人ではありましたが、もともと農業に興味があったのか農作に多く携わっています。


東京農業大学開校の地の碑  2019年3月27日

説明文  2019年3月27日

 更に道路の反対側には、須田橋、日本大学開校の地の碑がありました。今度撮ってきましょう。

 ここから、甲武鉄道の駅跡を少し見てみます。甲武鉄道は飯田町駅があり、この街道の路端にその記念碑があったはずです。その場所に行ってみましょう。あれっ、無い!
 そういえば新徴組屯所跡の碑も無いぞ。
 

この交差点に飯田町駅の記念碑があったのに  2019年3月27日

どう見ても無いね  2019年3月27日

 昌平橋駅に行ってみましょう。 明治41年4月19日に紅梅河岸高架橋上に昌平橋停車場(仮停車場)を設置されましたが、明治45年4月1日に仮駅の昌平橋駅は廃止されました。意外と短命でしたね。


ほんの一瞬だけ存在した昌平橋駅  2014年6月13日

昌平橋駅は橋上駅だった  2014年6月13日

 それでは今では痕跡が分からない牛込駅に行ってみましょう。先ほどの牛込橋から歩いて一分程度のところにあります。
 その場所はピザなどのイタリアンバー・キムラヤの料理店になっています。この界隈に高層ビルが乱立する中、木造二階建ての昭和の香りのするお店です。食事がてらにお店の方に聞いてみましたが、若い方ばかりで皆さんご存知がないようでした。せっかくなので、窓から下を撮らせていただきました。


牛込橋から北に向かいます 2018年12月20日

城壁に沿ってあるのは公衆トイレ  2019年1月24日

イタリアンバー・キムラヤ  2019年1月24日

この石垣は駅のものだったそうで  2019年1月24日

お店から下を覗くと断崖絶壁  2019年1月24日

 あまり構造が分からないので、当時の図面を見てみました。現在のお店からお堀の方に跨線橋を渡って、ホームに行くようです。


牛込駅の図面 幻の東京赤煉瓦駅 §9 _ 新訂 旅と歴史から

 当時、ここを走っていた機関車と電車を紹介します。蒸気機関車は、英国ナスミス・ウィルソン社製のタンク蒸気機関車と呼ばれるもの。
 説明によると、タンク機関車は蒸気機関車の一種で、水、石炭の一車両に積載する機関車です。「マッチ箱」と呼ばれる箱型客車を牽引しました。全長 約9.2m、全高 約3.6m 時速30㎞/h


タンク機関車 幻の東京赤煉瓦駅 §9 _ 新訂 旅と歴史から

 日本初めてといわれる電車は、外国から部品を調達し、国内で製作されました。台車は米國ブリル社製の二軸台車(四輪車)で、米國ゼネラルエレクトリック社製の45馬力のモーターを二基装着しています。集電装置はトロリーポール式で、形態から「カブトムシ電車」と呼ばれていました。車体は木製で、全長10m、高さ約3.5m、幅約2.37mでした。時速はどうだったんでしょうね。


電車 幻の東京赤煉瓦駅 §9 _ 新訂 旅と歴史から

 反対側からも見てみます。やはり痕跡は分かりません。けれども、お堀の護岸が石積ではなく、煉瓦造りでした。これは当時の名残なんじゃないかと、興奮して撮影したけど違うかもしれない。


反対側から何もない  2019年1月24日

お堀端の護岸は煉瓦  2019年1月24日

更によく見ると  2019年1月24日

 このレストランからはよく見えそうだけど 2019年1月24日