音の心 1998年12月11日

 おじさんの幸せ感とはなんだろう。今仕事以外に浸れるもの、見ているだけ聴いているだけで、心に優しいものを得た時でしょうか。おじさんは結構、儚きもの、消えものに思いを馳せ小さい胸を締めつけられては、甘酸っぱいものを感じています。まだね。

 よく言うと、侘び、寂びですね。
 自分自身、滅び行くものの自覚が出てきて、何か人の記憶に残したい、仕事を伝えたい(ここで言う仕事とは、「いい仕事をし ていますね」の仕事です)。


良い曲、弾くじゃないか!空気振動を情報として捉える

 という前振りをして・・・音に関する雑感を・・・・
 
序の章 琴線に触れる

 音「おと・ね」という言葉はうさおの中では、大変叙情的なもののように聞こえます。でも、うさおにとって音響というと、これは工学的なものにしか聞こえません。自分の専門分野が音響工学で、仕事であると言うことが、あまり嬉しくないと感じさせているのかも知れません。
 音の心、魂って何でしょう。何かぼんやりイメージされるものはありますね。音響の精神世界とは何を言うのでしょう。音符や数式が飛び交うダリの絵のようなものでしょうか。
(参考絵)


ダリのRaphaelesque Head Exploded

 音楽と言う言葉にも同じようなイメージをもっています。日本古来の音曲「謡、民謡、歌舞、神楽」は音であって、音楽では無い様に私は思えます。
 日本人はその音曲の中に、神や運命を様式化した信号を織り込んでいます。(日本人は出雲神の末裔と言う話は本当でしょうか?)  
 ですから西洋音楽のように、曲想を聴いただけで広々とした広野や大海、華やかな祭りがイメージされる訳ではありません。演奏するものと聴き手の間に、神に守られた約束ごとがあります。それを踏まえたうえで、音のもつ信号とその歌詞が示すもの(啓示)を受け取るのです。  


ウィン ムジークフェラインスザール 中川清氏撮影

 西洋音楽は音の余韻がある間が、「間(ま)」ですが、日本的には音のない絶対的な間が「間」なのです。このような茶の侘び、寂びの感性が今の私たちの心の底に残っている様に思えます。有るか無しかの、かそけき音に思いを馳せる。それが通かもしれません。
 能の世界では例外的にその余韻も使います。舞台の下に大小様々な甕をいろいろな方向に向けて、(甕の口は舞台床に向いていますが)埋めこんであり、足で舞台床を踏み鳴らしたときの音の余韻を効果的に用います。  うさおの大学のゼミの教授も、研究テーマは能舞台の甕の向きでした。 教授のお名前が、「韶」でした。音を召す、子供の頃から意識を持って音に取り組んで来られたのかも知れません。後々の人生にまで響くので、名前は重要ですね。


「能舞台床下の甕」山下充康 ((財)小林理学研究所) 騒音制御 Vo1.14,No.3.1990

 歌舞伎の世界にあるような、様式美は大好きで、なにやら結構の極致です。夜も更け何やら寒さが増したような道筋、先をとぼとぼ与市平、後からつけゆく定九郎。柝が入ります。キン、キン、キン。これから何かが起きるぞと言う合図。太鼓が入ります。細い撥で小刻みに打ちます。ドロドロドロ。今しも雪が降りはじめ、雪はぼたん雪で先が見えず足を取られます。予感させるねえ。事件が起きちゃうね。それも惨劇だね。いやあ、怖いです。  


 

 メロディーとしての音ではなく、単音がまとまって、ある状況を表すと言うのが、日本人は得意です。音響がこうきたら、お約束で「風が吹く様、音はこんな感じ」って、対照表と合わせながら受け取る。
 これは京劇なにかにも 当て嵌まるので、もしかしたら東洋的な感性なのかな。
 
弐の章 岩に染み入る

 音があるのに音がない。そんなお約束を日本人は作ってきたように思えます。山に入り、小鳥の声やせせらぎの音を聴き、静寂だなあと感じ入る、そんな原日本人はそんな風情を持っていたのでは無いか。松 風を聴くことにより、寂しさ、孤独感をも聴いていた日本人。そんな気がします。
 
 さて、本題です。いくつかの事例を検証してみましょう。
●水琴窟:手水鉢の下の地中に甕を埋け込んでおき、手洗いの 水がちょろちょろとその甕の中に落とし込むように流れます。水滴は甕の中で共鳴し、かそけき音で、ピン、シャン、チョロなる妙なる音を醸し出します。


水琴窟の例 須磨浦山上遊園 日経コンストラクションより

水琴窟の仕組み

●鹿嚇し:こりゃ有名。竹の二節を削げ切りにして、水が溜まると重さで竹筒が石を叩き、音を出します。


鹿威し 鹿が農作物を漁るので追払うためのものと聞いている

●風鈴:本人は夏の蒸し暑い夜に、涼感を覚え至って満足しますが、隣人の場合は熱帯夜に聴かされ無神経を逆撫でるような音に苛立ちます。


風鈴

●小笹叢(いささむら):今やこのような竹藪は無いんだろうな。平安時代だけだよ。庭に小さな路地を作り、そこに一群の笹を植えておく。風が路地を通る度に、さらさらというホワイトノイズに似た音が聞こえてきて、母親の胎内にいるような安心感も与えるのかな。でもうさおはこのような音を聞く度に、財布の中身を覗くような心もとない感じがしますけどね。
 

小笹叢 少し竹が育ちすぎているかな 三渓園にて 2016年2月17日

二の章 隣は何をする人ぞ

 今はさておき、ほんの5、60年前まで日本人は、木と紙と泥で出来た住居に住んでいました。ですから、もとより遮音なんてものは期待できません。石造りの西洋館と違い、扉を何層に仕切ってもそれほどの効果はありません。隣の音が筒抜けで、なんでも隣近所がお見通しです。大名家でも屋敷内はそれに近かったでしょう。ウグイス張りの廊下で警護の注意を促すのですから。  
 人情も今と違ったものでしょう。見て見ぬ振り、聴いていて聴かぬ振りがうまく出来たのではと思います。
「下駄ころり からり奴等の 夕涼み」 「新世帯 昼も箪笥の環が鳴り」
 
参の章 おや、こんな処に

 グラスハープ:実演


ワイングラスの底の部分を抑えて、指の腹でグラス上部の縁を撫でる

●囁きの回廊:相手に気づかれないだろうと思っても、滅多な所で悪口を言ってはいけません。円形の大きな部屋の中では、音が多重反射して増幅して聞こえます。囁き声でも判っちゃうんですね。


セントポール大聖堂(囁きの回廊) https://matome.naver.jp/odai/2141644092768500901より


ささやきの回廊仕組み図 音が壁に多重反射して反対側に焦点を結ぶ

●パラボラチェアー:音の焦点位置ではっきり聞こえる。


パラボラチェアー 須磨浦山上遊園 日経コンストラクションより

●ドーム天井:荘厳さを出すためのもの。ここで話をすると、軽い話も重く聞こえる。 「~ん、どうも。夕んべのはなしなんだが、どうにもきびのわりい話で・・・」「怖いな、怖いなと思っていると、少し先の階段の陰から・・・」どちらも恐いです。
 ※前半は志ん生:真景累ヶ淵、後半は稲川淳二;ドライブの話。
  鳴き龍:で、ドーム天井の有名なものが日光東照宮の鳴き竜。 左甚五郎作と言いますが、もしかして甚五郎は腕の悪い統領だったので、天井が反り返ったってこともあるかも知れません。

 
ドーム天井の例 ミラノ大聖堂 2003年12月2日

結の章 だからどうだと言うのだ

 音と言うのは大変身近なものですが、その性質はあまりよく知られていません。ここで少し、博学を披露させてもらって・・・(へへ・・少し嬉しそう)
 音の高さ:ラジオの時報があります。ぷっ、ぷっ、ぷっ、ぴ~ん。(ざっくり言うと、500Hzと1,000Hz) ※正確には、ぷう(440Hz、Cの音)、ぴー(880Hz、Cの倍音)です。
 昔の人はこれを言葉にしました。 ふー(50Hz)、ぶー(200Hz)、ぷー(500Hz)、ぴー(1,000Hz)、きー(5,000Hz)、しー(10,000Hz)、しんしん (15,000Hz)  ※「しんしん」なんて圧巻の表現です。
 これを覚えておいて、音を聴きながら口の中で「ぷー」とか「しー」とか言いながら、「これは1,000Hzの音が強く出ているね」なんて言うと、もう周りからは尊敬の眼差し。

●音の弁別閾:人は二つの音を聴いた時、約20msecの時間差があると二つの音に弁別できるそうです。エコーとして聞こえる限界は50msecです。音速が約340m/hなので、直接の音と反射してきた音の行路差を17mを越えないようにすると、エコーは解りづらくなります。  
 
 最後に、耳から音が放射されているはなしを。1978年、ロンドン大学のkemp博士は、人の耳から音が出ていることに気付きました。耳の中に入るマイクと静かな環境(日本的なんじゃなくね)があれば誰でも測れます。
日本音響学会誌54巻12号(1998)「耳から音が出てくる!耳音響放射」 和田仁(東北大 学大学院工学研究科教授)より 
 この耳からの音は、自発性のものと誘発性のものがあるそうです。音は焼き芋屋の笛のような音がします。死ぬと消滅します。男性よりも女性のほうが、かつ左耳より右耳のほうがよく出現するらしいです。  
 聴覚障害を持つ人からは、この音の発生はないそうです。聴力と関係するのでしょうか。耳鳴りがする人はまだ大丈夫と言う事でしょうね。(と疑問を残しつつ、章を閉じます。)


これはモルモットのもの、下の図は死んでしまうと音が消えてしまう

人の未熟児のもの 下の図は聴覚障害があると音を発しない

二つの音を聞かすと、2f1-f2の音が発生する
 ※歪成分耳音響放射(Dis・tortion Product OAEs :DPOAEs )

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