上野の遺構  2017年11月10日

 
上野廃屋

 2003年の頃には存在した、会社のすぐ近くの木造の廃屋。何がすごいって、完全にはみ出した2~3階の建屋、まるで伝書鳩でも飼っていたみたいだ。今は取り壊されて、アパホテルになりました。さしてノスタルジーを感じない普通の建物になっちゃいました。


上野界隈 鳩小屋 2003年5月22日

上野界隈 鳩小屋かな 2003年5月22日

上野「光輪」

 「光輪」とは、上野にあったバイク屋さんでフランチャイズ契約のお店が、上野のこの界隈に大量のお店が集まっていました。一つの街区が総て「光輪」です。
 しかし、ある時、ここの社長が会社の金を持って逃げてしまいました。社員の給与は支払われず仕舞いで、連日「給与を払え」と言うビラが、この街に撒かれていました。
 今では「光輪」の看板を掲げているお店は、一軒もありません。


上野界隈 光輪 CORIN 2003年5月22日

上野界隈 光輪 2003年5月22日

下谷小学校跡

 下谷小学校は、台東区役所の裏にひっそりと建つ、鉄筋コンクリート造の建物です。昭和3年12月に竣工した延床面積が4374.46 ㎡の3階建てです。
 見た目より古かったですね、昭和の初期のものでしたか。確かに年数が経っている雰囲気です。
 沿革を見てみますと、小学校としては、明治8年に第五中学区第一五番公立小学下谷学校として創立されました。
 明治41年に東京市下谷尋常小学校に改称します。「東京市」ですよ。年代を感じさせますね。
 昭和16年には、東京市下谷桜丘国民学校と改称されますが、戦争が終わった昭和22年の時点で、台東区立下谷小学校となります。平成2年には少子化のあおりを受けて閉校されます。
 この跡地をどう使おうかと、有識者会議が開かれましたが、数年後には近接する台東区役所の建て替えが迫っているので、区役所の代替施設として使うために、残すことにしたようです。
 その後は住宅、ショッピングモールなど、用途の転用を考えているので、今のうちに撮影しておいたほうが良さそうです。


下谷小学校 2017年11月10日 旧下谷小学校の沿革及び現況等より

 配置図を見てみると、昭和3年に造られたせいでしょうか、面白い部屋がいくつかあります。まず、昇降口の南側に「応接室」があります。小学校なのに、何のための応接室か、よく判りません。


上野界隈 下谷小学校 2017年11月10日

 昇降口の北側に、湯沸室や脱衣所、シャワー室があります。ここも疑問符が付くところです。
 裏手にある昇降口の脇に、石炭庫やボイラー室、火夫室がありますので、全館に給湯・暖房設備が整っていたのかもしれません。ハイカラでモダンだなあ。火夫まで雇っているところは、すごく古さを感じるなあ。
 判らないのは北東の端にある「標本室」です。理科の標本があったのでしょうか。人体とか。だとすると、小学校にしては結構高度な教育をしていたようです。


上野界隈 下谷小学校北側から 2003年5月22日

上野界隈 下谷小学校 北側道路より 2003年5月22日

上野界隈 下谷小学校 脇の蔦 2003年5月22日

上野界隈 下谷小学校裏門 現老人福祉センター 2003年5月22日

上野界隈 下谷小学校体育館 2003年5月22日

上野界隈 下谷種学校全景 2003年5月22日

上野界隈 下谷小学校全景 2003年5月22日

上野界隈 下谷小学校全景 2003年5月22日

上野界隈 下谷小学校全景 2003年5月22日

上野界隈 下谷小学校友情の碑 2003年5月22日

上野界隈 下谷小学校西側 2003年5月22日

上野界隈 外から見えるレトロな窓の絵 2003年5月22日

 2003年の撮影時には、「友情」と刻まれた石碑がありましたが、2017年11月の時点では見当たりませんでした。どこだったかなあ。


上野界隈 下谷小学校全景 蔦が無くなっている 2017年11月10日

上野界隈 下谷小学校体育館 2017年11月10日

上野界隈 下谷小学校全景 2017年11月10日

上野界隈 変わりは無いようだが、微妙に変わっている気がする 2017年11月10日

上野界隈 この辺りは変化なし 2017年11月10日

上野界隈 こんな石碑はあったかな 2017年11月10日

上野界隈 蔦が色変わりして別の雰囲気 2017年11月10日

 まあ、蔦の絡まる廃屋の小学校です。当時を振り返って見ると、こんな感じだったようです。図は「東京市教育施設復興図集」から引用しました。


上野界隈 教室のなかでしょうか

上野界隈 廊下もレトロで趣きがあります

上野界隈 生徒たちの姿

不忍池

 不忍池からサイコロを重ねたような、ホテル「ソフィテル東京」が見えていました。うさおはてっきり黒川紀章の設計だと思っていました。実は同時代の著名な建築家、菊竹清訓の手になるものでした。ホテルの寿命は短命で、2006年12月には営業を終了し、解体されました。


上野界隈 この日はcaccoの同窓会 2000年4月22日

上野界隈 おお、ちゃんとありますね 2000年4月22日

上野界隈 根津の方から見たホテル まだ壊されていない 2007年1月9日

上野界隈 顕微鏡と書かれたキッチュなお店 何か根津っぽい 2007年1月9日

不忍池 辨天堂

 不忍池には辨天堂があり、上野七福神の一つです。東叡山寛永寺に属する池の中の浮嶋です。
 辨天堂のサイトによると、
 「寛永二年(1625)に江戸の鬼門を護るため、京の比叡山延暦寺に倣って上野の岡に東叡山寛永寺を創建した慈眼大師・天海は、常陸国下館城主・水谷勝隆という人に不忍池を琵琶湖に見立てて池の中に竹生島を模した小島を築かせ、竹生島宝厳寺の弁財天を勧請して弁天堂を建てました。
 最初のうちは文字通りの離れ小島で船を使って行き来していたようです。
 のちにだれでも気軽に往来できるように石橋が架けられました。増え続ける行楽を兼ねた寺社参拝客の要望にこたえたのでしょう。
 戦災で焼失するという不幸にも見舞われましたが、昭和33年に現在の八角形堂宇が再建されました。
 弁天堂に祀られているのはもちろん弁天様…『弁才天』(または『弁財天』)仏教のあるいは神道の神格であり、七福神の紅一点として親しまれているのは言うまでもありません。
 江戸時代には勝運守護の神様として武家から庶民にいたるまで広く信仰を集めていました。
 現在でも開運厄除はもちろん、長寿や福徳・芸能と幅広い功徳の神様として大人気なのはだれもが御存じのとおりです。」

 とあるように色々な種類の石碑(塚)が建っています。全部を網羅するのは大変なので、探せるものだけにしました。いやあ、それにしても上野は外人が多いなあ。


上野界隈 2008年代の不忍池 2008年6月7日

上野界隈 辨天堂 2008年6月7日

上野界隈 外人さんが見ているのは、池の中の亀 2008年6月7日

 2008年の時は、浅川道夫氏の第三お台場のレクチャーを受けに上野区民会館に行きました。
 上野に会社があるので、いつも降りている駅なのですが、不忍池の方はあまり行ったことがありません。じゃあ、早速行ってみましょう。


上野界隈 弁天堂の橋前 2017年11月10日

 中根半僊は江戸時代後期の漢学者です。越後の高田藩医でした。漢詩、篆刻に秀でた人でした。


上野界隈 中根半僊碑 江戸時代の漢者学 2017年11月10日

上野界隈 不忍池碑 2017年11月10日

上野界隈 眼鏡碑 2017年11月10日

 長谷川利行は明治時代の洋画家です。独学で絵を習い、しかも速筆で短時間に油絵を仕上げてしまったそうです。定住の地を持たず、思い立ったら絵を描くという気ままさで、院展、二科展の受賞には余り縁の無かった人でした。(後に二科展に入賞します)
 浅草界隈の貧民街で酒浸りになっており、絵を描いては友人に送りつけ、金をせびっては酒を飲む日々であったようです。生活破綻者ですね。天城俊彦(天城画廊)が才能を認め、何回か個展を開きますが、長谷川利行が世に認められるのは彼の死後のことです。おお、縁辺の人だなあ。
 彼は酔っぱらってタクシーに刎ねられたり、癌を発病し路上に倒れ、金が無いため東京市養育院に収容され病没します。49歳でした。


上野界隈 長谷川利行歌碑 2017年11月10日

上野界隈 長谷川利行碑 2017年11月10日

上野界隈 辨天堂の手水場 2017年11月10日

上野界隈 辨天堂 2017年11月10日

上野界隈 大黒天堂 2017年11月10日

上野界隈 ふぐ供養碑 2017年11月10日

上野界隈 芭蕉碑 2017年11月10日

上野界隈 長唄碑 2017年11月10日

上野界隈 八橋検校顕彰碑 2017年11月10日

上野界隈 地蔵菩薩と扇塚 2017年11月10日

上野界隈 琵琶碑 2017年11月10日

上野界隈 真友の碑 英文です 2017年11月10日

上野界隈 暦塚 2017年11月10日

上野界隈 高久藹崖筆塚 上豊調理師会 包丁塚 蓮花碑 鳥塚 奥の院 2017年11月10日

上野界隈 高久藹崖筆塚 上豊調理師会 包丁塚 2017年11月10日

上野界隈 幕末の剣豪 櫛淵虚沖軒碑 2017年11月10日

上野界隈 幕末の剣豪 櫛淵虚沖軒碑 2017年11月10日

上野界隈 魚塚 2017年11月10日

続く

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