ジェラールの水屋敷  2017年2月12日


居留地境界石

 山手には幕末から明治にかけて、外人の居留区がありました。いくつか見ることができますので、集めてみました。

居留地境界石

ご近所探訪

元町百段公園・代官通り


横浜シネマ現像所

 横浜の元町の裏には、元町公園があります。この公園の中に大正活映の撮影所がありました。
 横浜にあった映画にゆかりの地は、子安にある浅野混凝土学校の山の裏手にある「おっこち池」(打越池ではないかと思われる)で映画の撮影が行われていました。これは母から教えてもらいました。
 また、反町にある横浜シネマ現像所も曾てはニュース映画の現像を手掛け、NHKの飛行機が空から未現像のフィルムを落としたとか聞いています。ここにも、潜入取材しています。


横浜シネマ現像所 2004年11月23日

横浜シネマ現像所 正面の門 2004年11月23日

横浜シネマ現像所 聞き込みに出かけるcaccoとTICAさん 2004年11月23日

横浜シネマ現像所 こういうところがUSAぽくってお洒落 2004年11月23日

※横浜シネマ現像所
 1923年1月1日に横浜市神奈川区栗田谷に「合資会社横濱シネマ商会」が起業します。戦後、1955年に「横浜シネマ現像所」に社名を変更し、1993年にはお洒落に「ヨコシネディーアイエー」に変わりました。全盛期にはNHKのニュースフィルムを現像し、ニュースは時間が勝負なのでセスナ機やヘリコプターから、フィルムの入った缶を投げ落としたと読んだ記憶がありますが、あれは「とうよこ沿線」誌だったか「有鄰」誌だったでしょうか。
 

横浜シネマ現像所 創立当初 シネマ・シティ横浜と映画より 2004年11月23日


大正活映株式会社

 大正活映株式会社は、1920年4月に会社を設立し、1927年5月には解散しています。実際に映画を撮ったのはわずか2年足らずであったと言われています。
 大正時代に今の元町公園(もとはジェラールの煉瓦工場の三角地だったところです)の中に、本社と撮影所を構えていたと言います。ガラス張りのスタジオと、長屋の様な現像室、字幕室、プリント室があったそうです。当時は無声映画ですよ。
 おっ、結構、わくわくしてきます。


大正活映 1969年内田吐夢、紅沢葉子らと大活跡地を巡る シネマ・シティ横浜と映画より

大正活映  1969年内田吐夢、紅沢葉子らと大活跡地を巡る シネマ・シティ横浜と映画より

今回の出典元 シネマ・シティ 横浜と映画

 この大正活映の会社は、浅野財閥浅野総一郎の次男の浅野良三(東洋汽船社長)が、「大正活動写真株式会社」として、元町通りに面して会社を建てました。「大活撮影所」は「ジェラールの水屋敷」のある元町公園に造りました。
 ハリウッド俳優のトーマス・栗原(この人のことは知らないなあ)と谷崎潤一郎が大活の重要メンバーです。
 主演女優は、谷崎潤一郎の妻の妹せい子で、「葉山三千子」と名乗り演じています。(アマチュア倶楽部)
 この映画には、他にも谷崎夫人と令嬢も出演しているとかで、こりゃあ、お金持ちのお遊びだなと思います。確かに、アマチュア倶楽部と銘打っていますが・・・。
 経営的には2年も持たなかったようで、松竹キネマに吸収されちゃいました。しかし、内田吐夢や岡田時彦が俳優としてデビューしており、(内田は監督業に転身します)その後の日本の映画史に大きな足跡を残しています。
 以下の写真は、「シネマ・シティ 横浜と映画」を参照しました。


大正活映 アマチュア倶楽部 カメラの下中央右 谷崎潤一郎 左 トーマス:栗原 

大正活映  トーマス・栗原

大正活映  葉山三千子 とても現代的な顔をしているね 二つ前の写真にもいるよ

大正活映  葉山三千子 女性の水着の映画はその当時、衝撃的だったとか

 あった、あった。これが、「シネマ・シティ」に記載されていた碑ですね。周りは起伏に富んだ丘陵地で、元町、霧笛楼、元町公園、元町百段公園、外人墓地、エリスマン邸、ベーリックホール、猫の博物館があるところです。しかし、思っていたより撮影所としては狭い。 大掛かりなセットは組めないし、広々とした空き地も取れない。大船にあった松竹の撮影所や世田谷の大蔵にあった日活の撮影所とは比べようもないです。
 傍らにあったのは、子供用のプールの壁泉が飾ってありました。


大正活映 石碑 2017年2月12日

大正活映撮影所・跡 碑文

 この撮影所は 大正九年から十二年までの三年間という短い期間ではあったが フランス人アルフレッド・ジェラルドの煉瓦工場跡地のこの場所 (元町一ノ七七ノ五) にあった
 「大正活映」は 大正九年 神奈川区子安を理立て アサノセメントを創始した経済界の大物 浅野総一郎氏の子息良三氏が創立した会社である
 この映画会社は 当時としては初めて映画界に財界の資本が投入されたこと また アメリカはハリウッドで修行した栗原トーマスを監督に招聘したこと さらに 新進作家であった谷崎潤一郎を脚本顧問として迎えたことなど 近代的な映画製作を開始した画期的な企業であった
 とりわけ 脚本の谷崎潤一郎を慕い集まってきた多くの青年の中には 後年映画界で名をなした監督の内田吐夢 二川文太郎 井上金太郎や俳優の岡田時彦 江川宇礼雄等の姿があった
 会社の事情により 短い年月の撮影所で終わったことは残念ではあるが 日本の映画界を目覚めさせ 発展のために一石を投じた業續は 高く評価されるものである
 昭和五十九年十二月一日之建 元町自治運営会 協同組合元町SS会 横浜市観光協会


 もう字が掠れちゃって読みにくいったらありゃしない。


大正活映 傍らの旧児童プールの壁泉 2017年2月12日


ジェラールの水屋敷

 元町公園の入り口付近にジェラールの水屋敷の貯水池の跡があります。山手は潤沢に湧水があるところで、打越の湧水もジェラールが発見したところと聞いています。
 ジェラール瓦、煉瓦の工場がこの谷戸の所に広がって居たようです。ジェラールは横浜港に停泊する外国船に、横浜山手の湧水を販売して財を成しました。
 打越の坂の下にある湧水も、安政年間に外国船に水を売るために開発されたそうです。


打越の湧水 2004年11月7日

打越の大橋 2003年3月13日

ジェラールの水屋敷(碑文から)
 横浜の市街地の井戸の水は塩分を含んでいて、飲用には適していませんでした。他方、丘陵地帯の麓には良質の湧水が多く、上水道が整備されるまでは、そうした湧水を汲んで市中を売り歩く「水屋」の姿も見られました。この点に着目したジェラールは、山手の麓に水源を確保し、パイプを敷設して、山下居留地や寄港船舶に供給しました。これを見た横浜の人々は、ジェラールの給水業のための施設のことを「水屋敷」と呼ぶようになりました。
 ジェラールは、まず明治元年(1868)中村宇池ノ谷戸(現在の中区打越)に水源を得て、船舶給水業に着手します。現在の
「打越の湧水」がこの水源の名残です。明治3年までには山手77・78番(現在地)に新たな水源を確保しました。ここが「水屋敷」と呼ばれることになります。前者からは山下居留地 169番(のち188番に地番変更)の事務所まで、後者からは堀川までパイプを通して給水しました。前者は山下居留地、後者は寄港船舶を対象とするものと思われます。


ジェラールの水屋敷 今はこんなに整備されている  2017年2月12日

ジェラールの水屋敷 今も湧水が溢れている  2017年2月12日

ジェラールの水屋敷 ここから水が湧いていた  2017年2月12日

ジェラールの水屋敷 お魚の宝庫だ  2017年2月12日

ジェラールの水屋敷 南側から  2017年2月12日

ジェラールの水屋敷 ここは文化財の登録を受けています  2017年2月12日

ジェラールの水屋敷 この煉瓦の束柱が良いですね  2017年2月12日

ジェラールの水屋敷 煉瓦と羊歯が良くマッチしている  2017年2月12日

A.ジェラール(碑文から)

 フランス人ジェラールは元治元年(1864)に来日、169番(のち188番に地番変更)で船舶供給業を営んだ。明治元年、中村字池ノ谷戸 (現在の中区打越?) に水源を得て船舶給水業に着手。明治3年までには山手77・78番に新たな水源を確保、やがてここに西洋瓦・レンガ製造工場を建てる。最古の瓦銘にある「1873年」(明治6年)が創業年であろう。
ジェラールの名は明治23年ごろ、記録から消える。レンガ工場はその後も操業が続けられ、明治40年には設備を更新している。ジェラール給水株式会社 (大正11年設立、野田久三郎のち金子玉久の経営)は給水部門の後身であろう。
震災時、被災者への給水に貢献、のち横浜市が買収した。図の工場を見ると、1・2階の境目に自社製の瓦を張り付け、門の上には、飾りと侵入防止を兼ねた奇妙なかたちの瓦が置かれている。なお工場内のヒマラヤ杉は今も元町プール前の小公園に枝を広げ、近くには工場入りロレンガ塀の遺構があり、こんこんと清水が湧き出ている。(斎藤多)

A.ジェラール年譜(碑文から)
天保8年(1837)フランス、ランス市にて、パン屋の父ジャン・ニコラ・ジョセフ・ジェラールと母テレーズ・ランベール・シェリュイの間に生まれる。
元治元年(1864)来日、169番 (のち188番に地番変更) で食肉など食料品の船舶供給業を営む。
明治元年(1868)中村宇池ノ谷戸 (現在中区打越) に水源を獲得、船舶給水業を始める。
  3年(1870)この年までに山手77・78番に水源を確保。
  6年(1873)この年までに、山手77・78番に西洋瓦・煉瓦製造工場を建てる。また、この頃、山下居留地188番(旧169番)にジェラール・ビルを建設(最初期の煉瓦造建築の一つ)。
  24年(1891)この頃、帰国。在日中に収集した仏像・能面・一刀剣・陶器・木版画,古銭などのコレクション約2,500点をランス市美術館に寄付、現在も「ジェラール・ コレクション」として保存されている。工場の経営権はルイ・スゾールが継承。
大正4年(1915)ジェラール、ランス市で死亡。享年78歳。晩年は金利生活者として故郷で悠々自適の生活を送っていた。農業技術に関する本の収集家として知られ、蔵書は遺言により遺産によって設立された農業サークルに引き継がれた。遺産相続人は秘書のシャルトン。
  9年(1920)工場敷地に、大正活映の撮影所ができる。
  11年(1922)工場跡地に、ジェラール給水株式会社設立。
  12年(1923)関東大震災。ジェラール給水株式会社が罹災者への給水に貢献。
昭和2年(1927)横浜市がジェラールの遺産相続人シャルトンから工場跡地の永代借地権を買収。
  5年(1930)横浜市青年連合団の提案により、湧水を利用したプールが建設され、この年オープン。周囲一帯は公園として整備された (現在の元町公園)。

ジェラールの瓦・煉瓦工場

 うさおたちが愛してやまない煉瓦、その煉瓦工場を元町に作ったのもジェラールです。煉瓦は安政年間に反射炉を作る際に製造されておりますので、ジェラールが最初と言う訳ではありませんが、明治6年には製造を開始しているので、比較的早い時期です。
 あのヴェルニーやブラントンも日本における煉瓦の製造、建設の指導に当たっています。1870年に日本初の煉瓦工場が大阪府堺市に出来ました。ジェラールはそれに遅れること3年で、1873年に蒸気動力の煉瓦工場を造っています。
 東京の小菅収監所の煉瓦工場(1872年)の翌年で、上敷免(深谷)の工場(1887年)よりも前に造られたことになりますね。
 煉瓦建物は関東大震災により多くの建物が崩壊し、脆弱性を露呈したためその後の建築基準法に影響を与え、耐震を考慮する建物には組積造を用いてはならないことになります。山手の煉瓦工場も皮肉なことに、関東大震災で崩壊してしまいます。


ジェラールの瓦・煉瓦工場 元町公園の門の前に交通標識があり邪魔です  2017年2月12日

ジェラールの瓦・煉瓦工場 元町公園のパノラマ写真  2017年2月12日

ジェラールの瓦・煉瓦工場 壁泉からの水路 山下公園とよく似ている 2017年2月12日

山下公園の壁泉からの水路 似ていないか 2003年4月6日

ジェラールの瓦・煉瓦工場   2017年2月12日

ジェラールの瓦・煉瓦工場 工場はこのあたりか 2017年2月12日

ジェラールの瓦・煉瓦工場 それともこちらか 2017年2月12日

ジェラールの瓦・煉瓦工場 塗装発祥の地 2017年2月12日

ジェラールの瓦・煉瓦工場 壁泉からの湧水  2017年2月12日

岩崎美術館の壁泉 似ていませんか 2001年5月14日

ジェラールの瓦・煉瓦工場 もう一つの壁泉 2017年2月12日

ジェラールの瓦・煉瓦工場 壁泉から元町を望む 2017年2月12日

もっとも工場らしさを残しているプール管理棟  2017年2月12日

ジェラールの瓦・煉瓦工場 元町公園水泳場事務所 2017年2月12日

 
その後、工場跡は元町公園になり、山手の湧水を利用したプールが造られました。そのプールの管理棟の屋根部に一部煉瓦架構が残っています。


元町公園 プールの入り口 2017年2月12日

元町公園 中のプールを覗いてみると 2017年2月12日

元町公園の碑 2017年2月12日

元町公園 あの有名なジェラール瓦・煉瓦の見本だ 2017年2月12日

元町公園 地下貯水槽の 2017年2月12日

元町公園 事務所外観 2017年2月12日

元町公園 ブラフ溝 2017年3月11日

ジェラールの瓦工場と水屋敷跡(碑文から)
(西洋瓦製造のはじめ)
 この地は、明治初年フランス人アルフレッド・ジェラールが、居留地建設にともなう西洋瓦や煉瓦を製造した工場並びに水屋敷跡です。
 ジェラールの経歴については不明な部分が多いのですが、居留地77番〜79番の約3,370 坪(約11,200?u)を落札し、永代借地権を獲得して蒸気機関を原動力とした工場を経営しました。「日本絵入商人録(明治19年刊)」によると製品には、西洋瓦・普通及穿孔煉瓦・土管・タイルなどがみられます。1873年(明治6年)の製作年号のある瓦が確認される最古のものです。
 また、ジェラールはこの地から湧きでる清泉を代官坂に溝を掘って堀割に通し、「船用最上飲用清水販売所」の看板を掲げて、船舶に販売しました。水屋敷の呼び名はここから生まれました。
 大正12年(1923)の関東大震災により崖が崩れ、工場は倒壊してしまいました。跡地は震災の復興に際して市有地となり湧水を利用してプールを建設しました。
 横浜市教育委員会文化財課 社団法人横浜国際観光協会 平成5年3月


所在地:横浜市中区元町1-77-4 元町公園内
建造年:不明
使用目的:湧水の沈澄および貯水
施主:A・ジェラール
設計者:不明
施工者:不明
構造形式:煉瓦造ヴォールト構造2連
       外寸 幅7.8m×全長11.6m×高さ3m
       平面規模 2.8m×約10.2m+2.9m×10.2m
       高さ約2.5m 面積65m2
使用材料:アーチ部は煉瓦積み(厚320mm)+コンクリート(100mm)
       垂直壁体は煉瓦構造(720mm)
       床版は煉瓦平敷き(厚150mm)
       配管は6箇所で土管、鉄管を使用



元町公園 丘を登ってみると弓道場が見える 2017年2月12日

元町公園 男性かと思っていたら女性だ 2017年2月12日

元町公園 プールが見えてきた 2017年2月12日

元町公園 何だかレトロで素晴らしい2017年2月12日

 そういえば元町公園に来る途中に、立派なお墓があったが、そこの説明文を読んでみると昔、外人さん二人が本町通りで殺害された書いてあった。ちょっと怖いじゃん。


元町公園 オランダ商船の船長の墓 2017年2月12日

元町公園 その説明文 英文の方が微に入り細に亘っている 2017年2月12日