大船観音  2016年6月16日


 大船には、お客様の関係でよく行く所です。駅から見ると横向きの観音様の上半身が、山の中から突き出ています。ずいぶん大きなもので、観音様の足元はどうなっているのか、知りたいところです。以前に小田原の魚籃観音様を見たことがありますが、あれは立ち姿で20m位あったでしょうか。
 それよりは、はるかに大きそうです。

 少しグラブって見に行くことにしましょう。

 大船駅の北側に、仏海山観音寺があります。歩いて5~6分の所です。少し街並みに沿って歩くと、山道が見えてきます。意外に急な坂道で、結構往生します。崖地は急峻でどうやら崩壊危険地域にもなっているようです。


大船観音 駅前広場から見ると頭が少し見える 2016年6月16日

大船観音 拡大するとこんな感じ 2016年6月16日

大船観音 道路に大きな看板が出ています 2016年6月16日

大船観音 この山に入っていきます 2016年6月16日

大船観音 寺院名碑はふもとにあります 2016年6月16日

大船観音 見上げても坂の頂上は見えない 2016年6月16日

大船観音 坂は結構きつい 2016年6月16日

大船観音 急傾斜地の案内板 2016年6月16日

 入館の際に頂く「大船観音寺のあゆみ」とこのお寺さんのHPによると、曹洞宗總持寺の直末寺で、「大船観音寺」と言い、ご本尊は聖観世音菩薩だそうです。
「昭和2年2月、金子堅太郎氏、頭山満氏、清浦圭吾氏、浜地天松氏、花田半助氏らが集い、「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」という「護国大観音建立会」の趣意書を作成し、観音像建立費15万円、付属施設建設費5万円を目標金額とする寄付金の勧募が始められました。
 昭和4年4月14日、起工式が行われ、工事が着手されました。
「日本一の大観音像建立の工事は、先般来、地均し工事中であったが、数日前、地均しが完成したので、14日愈々、起工式を行ふことになった。立像台石高さ30尺、身長百尺の鉄筋造といふ偉大なもので、奈良東大寺に在す日本一の大仏さんに約2倍の高さである…」という記事は、当時の『横浜貿易新報』です。

 横浜貿易新報は、横浜市の新市庁舎の予定地から、煉瓦基礎が掘り出された新聞社ですね。
※横浜市新庁舎の遺構 (2015年12月19日)参照


 しかし、建立予定地が丘の突端で地層が東側斜面に崩れる地層であることから、当初の計画である立像建立を変更しなければならないこととなり、坐像を検討したが地形との調和がとれないことから、胸像に変更されたといわれています。
 そして、世界恐慌という世相の中で寄付金は思うように集まらず、昭和9年にはとうとう工事が中断され、観音像は未完成のままの状態で23年間放置されることとなりました。
 後に五島美術館館長となる西村清氏は、昭和28年の大晦日に五島慶太氏の私邸に呼び出され、「僕の学友牧野良三君や高階瓏仙禅師から、昭和4年に手がけて未完成のままであって、荒れ果てた大船観音を完成するよう」指示を受け、財団法人の設立手続きから大本山總持寺へ経営が移譲されるまでの間、業務を統括することとなりました。
 昭和29年11月2日、財団法人「大船観音協会」が安藤正純氏、高階瓏仙禅師、五島慶太氏らが発起人となって発足しました。
 画家の和田三造氏、建築家の坂倉準三氏らに意見を求め、東京芸術大学教授で建築家の吉田五十八氏を中心に、同大学教授で彫刻家の山本豊市氏の設計と指導のもとに修仏工事が進められることとなりました。
 昭和32年5月18日、起工式が行われ、昭和35年4月28日に落慶式が行われています。総工事費は4千数百万円だったといわれます。
 以来、観音像は財団法人「大船観音協会」の名によって運営され、その中心となるのは東京急行電鉄を核とする東急グループ(当時61社)によるものでした。仏具1つを購入するのも東急社員の募金によるものであったといいます。このような関係で、現在も東急グループ各社の発展と安全を祈願するための法要が毎朝行われています。
 大船観音協会の理事長であった牧野良三氏が昭和36年に逝去して以来、その運営は専務理事であった五島昇氏に負うところが大きかったといわれます。昭和46年4月、空席であった理事長に横浜市鶴見区の大本山總持寺貫首岩本勝俊禅師が就任すると、観音像を参詣する信者らから「信仰の場への移行」という要望がさらに切なるものとなり、昭和54年12月25日財団法人「大船観音協会」はその解散と宗教法人への移行を決定します。

 うさおにとってはなじみ深い名前が、二人出て決ます。五島昇氏と、坂倉順三氏です。うさおの大学は五島育英会の傘下で、建築科の教授連は坂倉順三氏に薫陶を受けたと聞いています。また、入社した会社の当時の社長は、五島昇氏でした。

 まずは、観音様の御顔を見に行きましょう。階段の方に回らないと、お姿が見えないようになっているので、演出効果満点です。


大船観音 これが山門、三解脱門とも言います 2016年6月16日

大船観音 入ってすぐの御堂 2016年6月16日

大船観音 開けたところに出ます 2016年6月16日

大船観音 これも慰霊碑です 2016年6月16日

大船観音 至る所に慰霊碑があります 2016年6月16日

大船観音 振り返ると観音様が 2016年6月16日

大船観音 少し階段を上ると圧倒的な迫力で迫ってくる 2016年6月16日

大船観音 昇り切るとこんな感じ 2016年6月16日

 背中の方から、観音様のご胎内に入ります。 ふなっしーのインストールのようですね。



大船観音 背面に回る参道にある塔頭 2016年6月16日

大船観音 マツコデラックスのようなお背中 2016年6月16日

大船観音 信心深い方がいらっしゃいました 2016年6月16日

大船観音 千社札を張り付けてあります 2016年6月16日

大船観音 堂内はこんな感じ 2016年6月16日

大船観音 この卒塔婆の束は何かなあ 2016年6月16日

 募金趣意書「大船観世音菩薩の尊像を一日も速やかに完成し、名実ともに法煙たなびく霊場として、十方世界を慈照する大観音の運遠崇高無比な聖姿を仰ぎ、法悦と随喜の光がおのずから心の闇を照らし、国民道義を清浄無垢な真の姿に復元し、日本の興隆と世界の平和に不動の礎を築く一助と致し、また、さきの大戦に殉ぜられた二百有余万の英霊をこの尊像の胎内にお迎えして悠遠の生命が、この霊座に鎮座ましまし、法楽の供養をささげ奉ることを祈念いたし、大船観音尊像の完成を発願いたしました」
にあるように、小さな仏像が飾られておりました。


大船観音 すごい数の佛の像 2016年6月16日

大船観音 お背中の入り口 2016年6月16日

大船観音 縁結びの桜 2016年6月16日

大船観音 もう一度ご尊顔を 2016年6月16日

 庭先を降りていくと、慈光堂というお堂があります。中には入れませんが、斜面に建っているので少しドキドキします。


大船観音 目が回りそうな階段 2016年6月16日

大船観音 がけの斜面なので100%地面に接していません 2016年6月16日

大船観音 慈光堂といいます 2016年6月16日

 降り切った所に原爆の慰霊碑があります。


大船観音  2016年6月16日

大船観音  2016年6月16日

原爆慰霊碑
 昭和45年4月、被爆25周年にあたる事業として神奈川県原爆被災者の会が、大船観音寺の境内に「原爆犠牲者慰霊碑」を建立しました。慰霊碑に爆心地の西蓮寺からは地蔵尊の土台石、長崎の浦上天主堂からも石が寄贈され、それぞれの被爆石は千羽鶴が刻まれた筏にのせられ、その台座には被爆者が平和の丘に向かう姿が描かれています。さらに、広島原爆資料館からのケロイド状の瓦や第5福竜丸の遺品等は地下に埋蔵されています。また、その慰霊碑の右手には「原爆の火の塔」があります。福岡県の南東、大分県との県境に星野村があります。この村で生まれ育った山本達雄氏は召集を受け、昭和20年8月6日広島の陸軍野営部隊で本隊へ向かう汽車に乗っていました。午前8時15分、原爆が投下されます。燃えあがる広島の街。汽車は止まり、市内に住む叔父の安否を気遣い、市街地を捜しまわります。8月15日、終戦。帰郷に際して、一片の形見を求めて叔父宅辺りを掘ると、残り火がまだくすぶっているのを見つけ、火をカイロに移します。その火は星野村の自宅に持ち帰られ、仏壇に灯されます。山本氏はこの火を絶やさないよう、囲炉裏や火鉢に移し、23年間家族とともに秘かに守り続けます。昭和41年、村の特産である茶の取材に来た新聞記者に長年の思いを伝えます。「叔父の供養の火であり、原爆で亡くなった人々を弔う火であり、恒久平和を願う火であり、怨念の火です」と。このことによって「原爆の火」は、初めて世に知られることになります。昭和43年8月6日、原爆の残り火は、山本家から星野村役場前に建立された「平和の塔」に移されます。この「平和の塔」から分火されたものが、大船観音寺の「原爆の火の塔」に今も灯っているのです。


大船観音 延命地蔵尊 2016年6月16日

大船観音 戦没者慰霊碑 2016年6月16日

大船観音 平日なのにお客さんが一杯 2016年6月16日

大船観音 山門から大船の街を見る 2016年6月16日

大船観音 見晴満点 2016年6月16日