追浜の戦争遺跡 2016年7月10日
追浜の「海軍遺跡」と「追浜まつり」を楽しもうと言う案内を、caccoが横須賀市のHPで見つけて来ました。caccoは21日間も、ウィルス性の風邪に掛かっており、めまいや食欲減退が生じ、家を出られませんでした。初めての外出になりますが、延々5kmも歩かなくてはなりません。うさおは、食欲モリモリ、体重もりもりで元気でしたが、同じく5㎞の徒歩見学に耐えられるでしょうか。
以前にも、貝山地下壕や、夏島に出かけた時も、3㎞程度でしたが、汗だくだく、足パンパンの大草臥れ振りでした。今日は徒歩5㎞なので、大変心配です。
追浜の戦争遺跡 巡った順番 2016年7月10日
追浜の駅に着き、集合場所のデッキに行くと、NPO法人よこすかシティガイドの方々が集まっていました。以前、夏島のガイドをしてくれた背の高い、足の速い「相原さん」もお見かけしました。今回は5班で、ガイドは石垣さんです。私たちを入れて8人の戦争遺跡愛好家たちです。
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追浜の戦争遺跡 追浜駅 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 祭りの準備が進んでいます 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 七夕の名残りかな 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 三々五々集まって来ています 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 ガイドは石垣さんです 2016年7月10日
[浦郷の軍事遺産]は、(当日の資料による)
・夏鳥・浦郷地域には終戦時、横須賀航空隊、第一海軍技術廠(旧海軍航空技術廠)等があり、その多くの施設は民間に貸し下げられた。
・特に海軍航空技術廠の残存施設は平成13年には17棟が確認されたが、平成20年までに4棟が取り壊され徐々にその姿が失われつつある。
おお、どのくらい残っているのか、楽しみだなあ。
さあ、出発です。駅を出て西に向かいます。途中から住宅街の中を通ります。町内はお祭りの真っ最中です。
坂道に掛かり、うえっと思ったら、目的地はすぐそばでした。
①平六トンネル(当日の資料による)
・昭和14年、浦郷小児童の避難路として開通。
・名前は地名に由来している。
・市内で一番狭いと言われていたが、平成23年、周辺の団地造成にがらみ大幅に改修された。
兵六はこのあたりの地名だそうですが、人名によるものらしいです。戦時中は中に軍事物資が積まれていて、とても児童の避難には使えそうもなかったとのこと。
追浜の戦争遺跡 いざ出発 最後尾で項垂れているうさお 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 日蔭で説明する石垣さん 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 兵六トンネルが見えて来た 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 兵六トンネル入口 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 兵六トンネル内 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 兵六トンネル出口 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 浦郷小学校にも軍事施設があった 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 坂道の途中に宿舎があった? 2016年7月10日
②深浦隧道(当日の資料による)
・自得寺の和尚(独園寺11世泰嶺)が掘り始め、明治44年に開通。当時は高さ1.8m、幅1.2m、その後拡張。
坂を下って降りると、もう浦郷隧道です。近いなあ。の割にアップダウンがあり、息は上がっているけど。
追浜の戦争遺跡 浦郷隧道入口 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 ここだよ!指の下は地下壕群 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 浦郷隧道出口 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 この右側の崖の斜面に地下壕群 2016年7月10日
③大国主社(当日の資料による)
・浦郷の総鎮守。深浦湾にあった周囲200m程の亀島にあった亀島社(事代主命=恵比寿)が遷されている。
・大漁や海上安全を祈る漁民の信仰が厚い。
・「四十五メ目」と刻まれた「力石」がある。(約170kg)
神社の東側の崖は、
地下壕を埋めるための工事を行っており、勿体ないったらありゃしない。
追浜の戦争遺跡 大国主社拝殿 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 地下壕のある崖地の改修工事、勿体ない 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 祭られている恵比寿様 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 遷社されたときに移設されたご神木、枯れてしまっている 2016年7月10日
④深浦庚申塔(当日の資料による)
・上部の欠けた庚申塔は、「寛」の文字が読め、「寛文(1661-72)」「寛保(1741-43)」「寛延(1748-50)」の何れかであり、江戸中期以前のもの。
通りすがりに見たので、ボーとしていてあまり由来は聞いていませんでした。
追浜の戦争遺跡 碑の脇にある独国寺の門碑 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 深浦庚申塔 由来が分からないんですよ 2016年7月10日
⑤(第一海軍技術廠構造物)(当日の資料による)
・等速試験水槽跡 (世界レベルの飛行機のフロートの実験施設)
・旧高圧風洞場、旧高速風洞場…東邦化学工業㈱
・旧第一研究場…青木製作所㈱
・旧第四風洞場…東邦化学工業㈱ (内部の柱は組立柱で、鉄骨が剥き出し。)
等速試験水槽跡
これが一番見たかったものです。何か実験装置と言うとわくわくします。うさおも以前に技術研究所にいたので、このような大きな実験装置に感動します。丁度、追浜隧道の出口付近に道路を横断して架かっています。
追浜の戦争遺跡
等速試験水槽跡
2016年7月10日
追浜の戦争遺跡
等速試験水槽跡
並列に2本並んでいた 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 等速試験水槽跡 当時の地図を見せてくれます 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡
等速試験水槽跡 昔はここまで伸びていました 2016
年7月10日
追浜の戦争遺跡
等速試験水槽跡
水槽の基部跡 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡
等速試験水槽跡 道路を隔てた反対側まであったとか
2016年7月10日
追浜の戦争遺跡
等速試験水槽跡 上から見ると埋めた跡が・・・
2016年7月10日
追浜の戦争遺跡
等速試験水槽跡 脇の階段を下りていきます
2016年7月10日
追浜の戦争遺跡
等速試験水槽跡 西南役殉国者宮修の墳墓です
2016年7月10日
深浦門付近
航空技術廠の深浦門があったところだそうで、ここに門衛があったとか。
追浜の戦争遺跡 深浦門 門衛 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 深浦門跡 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 深浦門跡のスケッチ 2016年7月10日
旧高圧風洞場、旧高速風洞場…東邦化学工業㈱
これも建物が残っていて、面白い。ゲッチンゲン風洞で送り出した風が、ロの字型の風洞を巡って、回遊して送風するもので加速された風のエネルギーがロスしない。技術研究所にいた時には、この手の風洞を境界層風洞と呼んでいました。
追浜の戦争遺跡 深浦門の前の小屋は今も残っているようです。 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 二重の屋根が写真にそっくりです 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 これが旧高圧風洞場 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 旧高圧風洞場 日蔭に入って講義を聴きます 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡
旧高圧風洞場 南側から 2016年7月10日
・旧第一研究場…青木製作所㈱
ここはタダの町工場かと思っていたら、指で示された窓枠に煉瓦が見えていて、こりゃあすごいやって思いました。外壁がピンクに塗られていると判らないよ。
追浜の戦争遺跡 旧第一研究場です 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 壁の一部が欠けており煉瓦が覗く 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 こちらは外壁が補修してあり白亜の建物です 2016年7月10日
旧第四風洞場…東邦化学工業㈱
第四風洞場は、蔦に絡まれ見るからに戦線の建物でした。窓も縦に開くタイプだし、レトロ感満載です。ネットが掛けられているのは、鉄筋が腐食し膨張してコンクリートの破片が落ちて来るからです。
追浜の戦争遺跡 旧第四風洞場です 化学工場みたい 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 旧第四風洞場 南側から 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 旧第四風洞場 窓が特徴的です 2016年7月10日
変電所跡と発電所跡
追浜の戦争遺跡 白い建物が変電所で右側の山が発電所でした 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 裏に回ると当時の変電所の建物が 後ろに白い建物がある 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 ここは発電所だったと言います 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 それらしき高圧線の設備が見えます 2016年7月10日
⑥海軍航空技術廠本庁舎跡地(当日の資料による)
・昭和7年、ここに海軍の総合航空実験・研究機関として「航空廠」が設置され、国内最大の航空研究機関の建物群ができ、数多くの飛行機が誕生した。
・ここには、本庁舎が建ち、戦後、北辰工業㈱社屋として使われていたが、平成17年に解体された。
ここは普通の工場が建っていました。少し、がっかりです。
追浜の戦争遺跡 海軍航空技術廠本庁舎跡 2016年7月10日
⑦「行幸記念」碑(当日の資料による)
・昭和13年に海軍航空廠を視察した昭和天皇行幸を記念して航空廠長官原五郎中将が建立。
その海軍航空技術廠本庁舎跡の道路に面して、行幸記念碑があります。ガイドさんが、昭和天皇がここに来られたのですよと説明していたが、急にあっ、今はそう言ってはいけないのかなと、語尾を濁らせていました。平和祈願なら良いが戦争勝利を願う碑は、今は問題になるのかな。
追浜の戦争遺跡 行幸記念碑 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 このあたりの軍事施設について説明がされている 2016年7月10日
⑧(第一海軍技術廠構造物)(当日の資料による)
・旧電話交換所‥・日本和紡興業㈱
・旧図書庫・‥日本和紡興業㈱ (窓枠に煉瓦が使用されている。)
・旧第六研究場…日本和紡興業㈱ (外観全体が、鉄板で覆われ保護されている。)
・旧第四研究場…日本和紡興業㈱ (一部にスクラッチ煉瓦を使用。)
ここもお目当ての所です。いやあ、この古さが堪りません。コンクリートのように見えますが、煉瓦造と鉄骨造です。道路に面した鋼板張りの工場の中に、第六研究場がすっぽり入っているのだとか。見たいなあ。
追浜の戦争遺跡 電話交換所・図書庫です 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 右手が旧第四研究場でしょう 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 旧電話交換所・図書庫 手前の建屋の中に第六研究場 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 図書庫の窓枠 煉瓦が覗ける 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 旧第四研究場 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 旧第四研究場のスクラッチタイル 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 当時の倉庫だと思う 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 いずれもレトロで素晴らしい 2016年7月10日
⑨追浜浄化センター(予科練跡地)(当日の資料による)
・市内3が番目の浄化センターとして昭和59年開設。
・再生水を利用した「トンボの王国」があり三浦半島に生息するギンヤンマ等10種以上の羽化を確認している。
・昭和5年、この貝山の麓には、横須贅海軍航空隊の海軍予科練習生(予科練)が設けられ、兵舎が建ち、昭和14年に霞ケ浦へ移るまでパイロット養成の為、日夜訓練が続けられた。
この追浜浄化センターの崖の斜面に、6だか10の地下壕があり、航空機用の貯油庫として使われていました。色々小さな地下壕を含めると、10以上あると言います。
追浜の戦争遺跡 追浜浄化センター 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 貯油庫 No.1 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 貯油庫 No.2 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 貯油庫 No.2 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 貝山の下にある貯油庫No.6 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 貝山に抜ける道すがらにも地下壕が点々と 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 貝山の下の地下壕の見れる処 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 地下壕には旗の台座が残っていた 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 倉庫として用いていた時の門の跡 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 左手の山が貝山 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 壁面に残る貝山地下壕の入り口2箇所 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 崖の上にある煉瓦構築物の跡 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 貝山の崩壊面 2016年7月10日
⑩貝山緑地(当日の資料による)
・戦前は、山頂に気象観測所や探照灯、鳩小屋、機銃砲台等があった。
・現在は、展望塔があり、緑地全体を市立博物館の自然教材園としているが、追浜観光協会が中心になって「杏の里つくり」を計画し、地元住民の木札苗木を購入し、700本が植えられ、既に収穫もされている。
ここはあまり期待していませんでしたが、結構面白いものが残っていました。
追浜の戦争遺跡 貝山緑地 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 予科練の碑 2016年7月10日
⑪予科練誕生之地碑(当日の資料による)
・昭和5年、横須賀海軍航空隊に海軍少年航空兵の教育機関として予科練習部が誕生し、全国から志願された5807人(15~17歳)の応募の中から79人が1期生として採用された。
・昭和5年の1期から昭和13年の10期までがここで訓練し、昭和14年に霞ケ浦に移転した。・予科練(乙種)は、24期迄、約8万7千人の内、約5千人が戦死した。
追浜の戦争遺跡 予科練誕生の地の碑 2016年7月10日
⑫海軍航空発祥之地碑(当日の資料による)
・大正元年10月、追浜海岸に水上機の発着練習場として滑空台、格納庫が建設され、同時に海軍の水上機が初飛行をした。その記念として建てられた。
⑬甲飛鎮魂の碑(当日の資料による)
・昭和12年、航空戦への対応でパイロット養成が急務となり、全国の中学生を対象に甲種飛行予科練習生制度が誕生し250名が甲種として採用された。16期迄約14万人の内、約7千人が戦死。
追浜の戦争遺跡 鎮魂碑と海軍航空発祥之地碑 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 海軍航空発祥之地碑 2016年7月10日
脇道を逸れていくと、機銃台座と気象台、何かの遺構がある場所に行きます。何かの遺構は、ガイドさんは何だか判らないと言っていたが、二つつの石柱が門型クレーンの基礎部で、6個のフックが附いているところが、滑車の反力台だとすると、比較的重いものも人力で持ち上げられると推理したんだけど。文献が無いのでtンる仮説ですけどね。
追浜の戦争遺跡 展望台 500羽の鳩小屋があったとか 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 機銃台座と言われるコンクリートのもの 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 うさおは門型クレーンとチェーンブロックのフック台と見たが 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 多分気象台の観測小屋の跡 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 得体の知れない石の構造物 2016年7月10日
⑭こんなところに地下壕が
追浜浄化センターに貯油地下壕がありましたが、丁度その同じ山の反対側にも地下壕があります。うさおは見つけちゃいました。残念なことに今は民間の倉庫のようなので、中に入ることが出来ません。蔦が生い茂る時期は無理ですが、枯れた時期なら階段と今は見えない地下壕が見えるのだそうです。
追浜の戦争遺跡 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 駐車場の所から見える 貯油庫並みに大きい 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 ネットがあるので見難いが結構大きい 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 倉庫の屋根越しに見える地下壕、大きい 2016年7月10日
追浜の戦争遺跡 中央の所に階段と地下壕があるそうです 2016年7月10日
当日は追浜まつりだとかで、山車や神輿が出たり、そーらん踊りやリオのカーニバルも行うとのことでしたが、何せ5㎞も歩いちゃったから15時まで待つ気力もなく、喫茶店に入って座ったら根が生えたように座りっぱなしでした。
追浜の戦争遺跡 ソーラン踊りに出かけるのか、女子組と男子組の行進です 2016年7月10日