千代ケ崎砲台跡 2017年1月21日
ようやく念願の千代ケ崎砲台を見に行けることになりました。今回は横須賀市の生涯学習課の肝いりです。ですので、見学の前週に、座学が行われました。
「千代ケ崎砲台跡の歴史」を野内秀明氏が、「上空より見る千代ケ崎」を川島裕毅氏が講演されました。
一発の砲弾を発射するのに10人程度の砲手が必要だったこと(正確には砲手10名、補給庫長1名、助手5名、火工手1名)、その際に全員がそっくり返っていたこと、射程距離が7.5㎞であったこと、千代ケ崎を特殊な航空写真撮影をして、3D処理をすると崖に洞窟(古来からの洞窟墓や陣地)があることを説明されました。(下図はいずれも当日の横須賀市の資料から)
千代ケ崎砲台跡 千代ケ崎のものではないが榴弾砲の写真 2017年1月14日
当日の資料より
千代ケ崎砲台跡 二十八糎榴弾砲の側面図 2017年1月14日
当日の資料より
千代ケ崎砲台跡 砲弾装填 2017年1月14日
当日の資料より
千代ケ崎砲台跡 発射 全員がそっくり返っている 2017年1月14日
当日の資料より
千代ケ崎砲台跡 千代ケ崎3D画像 黒い処が洞窟 2017年1月14日
当日の資料より
当日は大変良い天気でした。座学の時が雪が降るような寒い日でしたので、暖かくして出かけましたが、急な坂道を登る時には暑くて一枚脱いじゃいました。(参照134 逸見浄水場後半)
ともかくも、浦賀の駅を降りて直ぐに喫茶店YOKOSUKA Cool Clan Cafeに入りました。caccoは何しろ珈琲を飲まないと居られない性質です。喫茶店の中ではギターをもって歌いこんでいるおじさんが居ました。午後にはここでミニ・リサイタルを行うのだそうです。もしかしたら、横須賀で活動している目黒寿安さんかもしれません。
千代ケ崎砲台跡 浦賀駅 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 喫茶 YOKOSUKA Cool Clan Cafe 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 喫茶店内で歌っていたミュージシャン 2017年1月21日
バス停には、私たちと行き先を同じくする方々が集まっていました。降りるところを悩まなくて済むので大変心強いです。バスから降りるのは早かったですけれども、横須賀市の方が砲台までのアプローチは軍道で大変急であることを強調していましたがその通りで、砲台跡の門にたどり着いたのは最後のほうでしたとも。
砲台入り口に着くと、石造りの切通があり門扉の跡が見えます。柵門を抜けると、目の前に土塁が聳えたちます。軍事内容の目隠しと、敵の銃弾を避けるためでしょう。
千代ケ崎砲台は,当日の資料にその概要が詳しく述べられています。その説明に沿って見学をしました。この日は何と親切にもLED懐中電灯を貸与していただきました。でも光量が足らないといけませんので、自前の懐中電灯も用意しておきます。
千代ケ崎砲台跡 千代ケ崎砲台上空写真 googleより 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 地図 当日のパンフレットより 2017年1月21日
(史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ケ崎砲台跡より)
〇砲台の建設
千代ケ崎砲台は、江戸時代の平根山台場跡を中心に建設した砲台で、明治25年12月6日に起工し、明治28年2月5日に竣工しました。東京湾口を防御する観音崎砲台の援助や浦賀湾前面海域と久里浜に上陸した敵に対する防御が任務で、海正面防御の瑠弾砲砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されています。
〇軍道から柵門、そして塁道へ
軍道でもあった坂道を登りつめると石積みの柵門にたどり着きます。柵門を抜けると砲台を隠す土塁があり、その前面に堀井戸があります。土塁の左右から回り込むように進むと土塁南側で合流し、随道と露天空間が繰り返す直線的な塁道となり、その先は陸正面防御砲台に続きます。
(史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ケ崎砲台跡より)
千代ケ崎砲台跡 一見平坦に見えるが結構きつい 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 砲台出入り口から柵門を見る 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 建設当時からの石造りの切通 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 受付です 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 当日貸してもらったLED懐中電灯 2017年1月21日
いよいよ、砲台の中に入ります。配置図と見比べながら見学します。
千代ケ崎砲台跡 左手が土塁、正面が砲台と弾薬庫への阪路 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 露天塁道を見る 左が観測所に行く交通路 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 露天塁道と掩蔽部 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 左翼観測所に行く交通路 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 覗いてみました 奥は塞がれています 2017年1月21日
○貯水・排水システム
千代ケ崎砲台は、それ以前の砲台と比べ砲台構造の完成度が高く、諸施設の機能が充実し、建築技術にも進歩が認められます。
その一つが貯水と排水システムです。塁道の南北には雨水を集水・ろ過して生活用水を確保するための貯水所があります。これとは別に油を使う瑠弾砲砲座や砲側弾薬庫の雨水・汚水は流路が分けられて設計されており、貯水所の余剰水と合流して砲台の外に排水される仕組みに設計されています。
(史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ケ崎砲台跡より)
雨水の貯水槽は籠城したときに、自給自足が可能なようにしたものでしょう。
千代ケ崎砲台跡 北側に第2濾過過沈殿池があります 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第2貯水池 井戸様のものは水汲み口 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 雨が掛かるところは焼き過ぎ煉瓦を用いています 2017年1月21日
掩蔽部です。ここに多くの砲兵たちが暮らしていました。各砲座ごとに数十名の兵士が居住したので、その煮炊きや洗濯、物資の補給など、毎日、大変だったと思います。
第三砲座は、戦後にコンクリートで埋められてしまいました。
○弾薬庫と砲座
砲側弾薬庫脇の交通路は東に延びていき、揚弾室を経て階段で榴弾砲砲座に至る高塁道に接続しています。高塁道は南北に配置された瑠弾砲砲座と連絡し、途中に階下の揚弾室とつながる径1mほどの円孔があります。ここにはかつて揚弾機が設置されていました。
瑠弾砲砲座は1砲座2砲床で、塁道に平行して3砲座あります。砲座周囲の壁は石積みで、弾室が設けられています。(史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ケ崎砲台跡より)
千代ケ崎砲台跡 第三掩蔽部 倉庫に使われていた? 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第三掩蔽部 倉庫に使われていた? 2017年1月21日
更に第二砲座のほうに進みます。第二砲座は、海上自衛隊の横須賀通信隊千代ヶ崎通信所のテニスコートを作るために、埋められたと聞いています。何とか、砲座は掘り出しましたが、残りの施設(交通路、弾薬庫)は今後掘り出す予定だそうです。無傷で残っていた第一砲座と比べると、確かに石積などに損傷が見えます。
この千代ヶ崎砲台跡には、自衛隊の通信設備は何も残っていません。まあ、軍事的に極秘事項なので当然と言えば当然なのですが、何か釈然としません。通信鉄塔でも残っていれば良いのにね。
同じように、交通路、掩蔽部、弾薬庫、揚弾井が並んでいますが、埋まっているので掩蔽部だけ入ることが出来ます。
千代ケ崎砲台跡 隧道部に入りました 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 隧道内にある第二弾薬庫です 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 露天空間に出ます 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第二と第三砲座のための交通路です 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 土塁に昇る階段 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第二掩蔽部 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第二掩蔽部 2017年1月21日
いよいよ第一砲座です。地下壕の中に入っていけます。期待が増します。第一弾薬庫へ入ってみると、床と天井に丸い穴があります。これが榴弾砲の弾丸を砲台まで吊し上げた揚弾井です。この当時、榴弾砲に弾を込めるときには、砲自身を水平にして装填し、敵の艦艇に狙いを定めて仰角を設定し、発射したと思われます。弾の大きさから類推すると、その威力は大きかったと思われますが、何だか非常に効率が悪いですね。
現在の自衛隊には一分間に40発も撃てる速射砲もあるしね、また、280mmの同径のM65カノン砲は、トレーラー2台で牽引しなければならないので、このような大口径の弾が必要で無くなったのもあるかも。ちなみにこのM65は、核弾頭用のもので、大変恐ろしい武器です。
掩蔽部には、夏島、米ヶ浜の掩蔽部で見た空気抜きとも、明り取りととれるスリットが入口部と天井部にありました。
千代ケ崎砲台跡 隧道内 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 交通路を歩いていきます 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 細い通路があります 点燈室ですね 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第一弾薬庫に入ります 小窓は点燈室 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 揚弾井の床にある円形の穴 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 天井にある揚弾井の 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 弾薬庫全景 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 高塁道を登って砲座に行くぞ 2017年1月21日
砲座に入ってみます。おお、三軒家砲台や、猿島砲台、走水低砲台、観音崎砲台とそっくりな砲座がありますが、何といっても二連の砲座は関東では珍しいのじゃないのかな。
砲座から土塁に出られる石段と、手摺跡があります。うさおはだめだな、足が手摺梯子に届かないぞ。
三軒家砲台跡にあった伝声管と全く同じものがありました。
参加者の半数は、年配の女性で話の端々から、遺跡探訪の熟達者とお見受けします。うさおたちのように、夫婦連れででもなく単身参加はその方のドラマを想像しちゃいます。 ご主人が廃墟好きだったのですが、先に旅立たれてその遺志を継いで参加している。そんな構図です。
千代ケ崎砲台跡 揚弾井の部屋 天井に揚重機の台座がある 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 揚弾井の中を覗いてみます 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 砲座に出る通路 壁が壊されている 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第一砲座に出ました 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 砲座が並んでいます 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 砲座周りはこんな感じ 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 砲座の跡 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 記念写真をパチリ 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 土塁の上に登る階段 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 伝声管です 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 伝声管の内部です 2017年1月21日
第一砲座の隧道部にも、雨水の貯水槽があります。今まで通ってきた通路の右側の地下にその流路があります。
千代ケ崎砲台跡 隧道部に戻って来ました 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第一掩蔽部を覗き込んでいます 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 日陰のほうが綺麗に撮れる 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 左下のスリットが空気の取り入れ口 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 奥の壁の白い部分が排気口 2017年1月21日
説明されている川島裕毅氏は、日曜日の報道ステーションの猿島特集にも出演されていました。
千代ケ崎砲台跡 これが排気坑のスリットです 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第一掩蔽部の外観 2017年1月21日
ここの煉瓦アーチをご覧ください。土被りも薄く、構造的にはこのような多種類のアーチは必要ありません。もしかしたら煉瓦職人さんの遊び心かもしれないと、川島氏は言っていたような。
掩蔽部の屋根、入り口、窓のアーチ 種類が異なる 2018年11月11日
また砲台散策を続けます。
千代ケ崎砲台跡 第一掩蔽部の前の土塁に登る階段 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 隧道の先はフェンスで閉じられています 2017年1月21日
この先の出口は金網で仕切られており、外に出れません。隧道の天井の一部に煉瓦斜架拱(ねじりまんぽ:まんぽとは「まぶ(間府)」と呼ばれる鉱山の坑道を指すと言われています。
千代ケ崎砲台には、「ねじりまんぽ」が存在します。一般的には、「斜架拱」と呼ばれています。
【土木史研究 第16号1996年6月 審査付論文】の「組積造による斜めアーチ構造物の分布とその技法に関する研究」煉瓦研究の大家、小野田滋さんらの研究によれば、
「斜めアーチ」(Skew ArchまたはOblique Arch)とは、アーチによって跨ぐ対象物の軸線とアーチ上部の軸線とが斜交する構造物を総称したもので、具体的にはアーチ構造物の上部を通過する鉄道線路と、その下をくぐる河川や道路等との交差角が直角以外の角度で交わっているような場合を指す。このようなアーチ構造物を煉瓦や石積みなどの組積造で構築しようとする場合、軸力をアーチ全体に伝達させるために特殊な技法を工夫しなければならない。その技法の代表例が本論文の主題としてとりあげた「ねじりまんぽ」で、煉瓦や石材を交差角に合わせて捻って積むことによって、独特な構造景観をも演出している。
のだそうで、地形上斜めに交差するトンネルを、例えば煉瓦で積み上げる場合、通常の積み方では剪断力が働らくと容易に破壊してしまう。組積造なので、特殊な計算を行いある角度を以て斜めに積み上げる工法を指します。
また文献には、以下の記述が示されています。
その分布は図-2に示す通りで、大半が関西圏に集中しているが、北は新潟県から南は福岡県まで各地に散在している。こうしたことから、この技法が限られた地域で用いられていた特殊な施工法ではなく、全国規模で知られていた技法であったことが理解できる。
確かに関西圏だけのものでは無さそうですが、それでも地域は特化しています。この技術を持った煉瓦職人の移動範囲が関係していると考えているようです。
興味深い記述も見えます。
また、1888(明治21)年に建設された琵琶湖疎水のインクラインの下には「ねじりまんぽ」が1カ所現存するが、鉄道事業者以外が建設した「ねじりまんぽ」はこれまでのところ、これが唯一の存在である。
とすると千代ケ崎は、その技術を持つ職人が徴用されて来ていたのかも知れません。だとすると、鉄道事業者以外の二つ目の構造物になりますね、ねじりまんぽ建設史的には新発見かも。
千代ケ崎のねじりまんぽは、隧道が曲がった処と、その曲がった処に設置される横穴にも見られます。
初めに出会うのは、柵門から入ってすぐの左翼観測所に向かう交通路にあります。、露天塁道が曲線なのでこの工法を用いたのでしょう。
千代ケ崎砲台跡 交通路 ねじりまんぽの天井 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 交通路 ねじりまんぽの天井 同拡大 2017年1月21日
次に気づくのは、右翼観測所に向かう曲線隧道にある第一貯水池と?過沈殿池です。
千代ケ崎砲台跡 第一濾過過沈殿池 ねじりまんぽの天井 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 右手の第一濾過過沈殿池 ねじりまんぽの天井 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 右手観測所に抜ける隧道出口のねじりまんぽ 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第一水汲口 ここはコンクリートヴォールト 2017年1月21日
土塁の上に上がってみましょう。この銀色のものは、空気抜きの上に被さっていた屋根で、自衛隊が近代的なものに作り変えてしまいました。
あのあたりに、自衛隊の通信隊の電波塔が建っていたそうです。(だめですよねえ、勝手に撤去しちゃあ)
第二砲座が埋まっていた処を上から撮影します。ほんと、このままじゃもったいない。
千代ケ崎砲台跡 表に出てきました 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 空気抜きの穴に自衛隊が掛けた屋根です 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 掘り出した第二砲座 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 連絡隧道が塞がれています 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第二砲座 石がごろごろしている 2017年1月21日
第一砲座は私たちが、今まで見ていた処。次のグループの方が見学しています。
千代ケ崎砲台跡 第一砲座 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 第一砲座 次の班の方が見学中 2017年1月21日
皆さんが説明を受けている間に、柵の外の私有地を見てみると軽トラックの脇に、換気塔が建っています。その西側を見ると、切通しの様な道が見えます。さらに西に目を転じると、そこに煉瓦隧道の入り口が見えます。監視所につながる地下道なのでしょう。
土塁の脇の畑にも、コンクリート製の換気塔がありました。
千代ケ崎砲台跡 換気塔ですね 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 手前に掘割(露天塁道)がある 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 それはこの煉瓦隧道に繋がっている 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 この小山の監視所に繋がっていたのです 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 この岡にも換気塔があります 2017年1月21日
富士山も見えましたし、とても満足な見学となりました。
千代ケ崎砲台跡 富士山も見えました 2017年1月21日
出口の所に井戸があり、井戸は煉瓦で造られていました。その煉瓦の表面に、監獄煉瓦として名高い小菅収治監で造られた桜の花の刻印がありました。
最後まで、飽きさせない見学会でした。ちなみに参加料は一人100円(座学も含めて)でした。
千代ケ崎砲台跡 柵門の近くの堀井戸 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 中は煉瓦積みです 2017年1月21日
千代ケ崎砲台跡 おお、監獄煉瓦の刻印だ 2017年1月21日