走水砲台跡+三軒家砲台跡 (2015年9月27日)
「走水低砲台ガイドツアー(試行)のご案内」の案内を貰って、早速出かけてみました。
caccoが横須賀市の公園課のサイトに、「走水ガイドツアー」という催しを見つけ、私たちとGURIKO隊長夫妻と探検してきました。このガイドツアー(試行)の「試行」ってところが良いですよね。参加者は20人限定ですから。
来年の5月頃には、一般開放しようかと言う戦争遺跡を先行して見せて貰うのです。
走水砲台跡+三軒家砲台跡 地図 (2015年9月27日)
○印は砲台跡
参照:googlemap
上の地図上の数字は以下の通りです。
①観音崎砲台跡
②三軒家砲台跡
③走水低砲台跡
④走水地下要塞跡
横須賀市の広報によると、「現在立ち入り禁止となっている「走水低砲台跡」(同市走水)を整備する。市議会定例会に補正予算案として、整備費など約5100万円を計上した。新たな観光資源として活用していく方針。
同砲台跡は、東京湾に突き出た丘の一角にある。外国船の防備にあたっていた川越藩が1843年に台場を築造。86年に旧陸軍が砲台を整備した。1934年に実戦での使用を終了し、横須賀重砲兵学校の演習用砲台として終戦まで使われていた。丘の上に27センチカノン砲を据え付けていた。直径13メートルの砲座が4カ所、山腹には煉瓦造りの弾薬庫が2棟と兵舎が1棟ある。」と報じており、いやがうえにも期待は増すばかりであります。
朝から浮き浮き気分で、
~三軒家砲台跡~へ
車をどこに置くかを色々考えました。観音崎公園は駐車場が沢山あり、駐車料も安いですが、1.5㎞ほど走水低砲台跡に離れています。すぐ近くの漁港の駐車場は5000円もします。苦渋の選択から(何が苦渋だか)、横須賀美術館に車を止めることにしました。ここなら、駐車料金もそこそこで、1.0㎞の離れです。
車で行くと時間がうまく読めませんので、結構早く着いてしまいました。そこで、美術館のレストランで食事を取ることにしました、メニューが小洒落ていてどんな料理かよく判りませんが無難な所で冷静パスタをを頼んでおきました。
お腹が満杯になったところで、GURIKO隊長からの提案で、この裏手に三軒家砲台跡があるので、見に行こうと言うことになりました。
この砲台は明治27年12月15日着工し、明治29年12月20日に完成したものです。
後で見に行く走水低砲台跡と同様に、27センチカノン砲4門、12センチカノン砲2門を有する砲台だそうで、当時の原形を留めていると言うことでした。
隊長は以前に探検しているので、私たちを案内してくれますが、足が速いので附いていくのに一苦労です。だが隊長の足が急に止まりました。すずめ蜂が飛び回っているとのこと、確かに今年は異常発生しているとか新聞に書いてあったような。
びくびくしながら、探検しに行きます。
地下壕は埋められており、入ることが出来ません。イギリス積のレンガトーチカは、超美麗でした。
三軒家砲台跡 横須賀市美術館 (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 横須賀市美術館 (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 三軒家砲台へ (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 何だか雰囲気が出てる休息場 (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 いきなり地下壕の入口です (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 コンクリートで埋めてあるのが残念 (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 一番目の砲台跡 (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 道の脇に地下壕 (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 2番目の砲台跡 (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 伝声管のような穴 (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 煉瓦造りの壕 (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 便所とも言われていますが中々のものです (2015年9月27日)
三軒家砲台跡 説明板 (2015年9月27日)
~走水砲台跡~
さて、1㎞を歩いていきます。途中コンビニに寄ります。何気なくあたりを見渡すと「味美食堂」がありました。こういう処は意外と旨いんだよなと思いつつボーと歩いておりましたら、うっかり、走水低砲台跡がある旗山崎公園を通り越そうとしておりました。
隊長の「こっちだよ」と言う指摘が無ければ、脇目も振らず突き進んでいましたね。
走水砲台跡 防衛体制地図 (2015年9月27日)
走水砲台跡 低砲台地図 (2015年9月27日)
走水砲台跡 味美食堂 (2015年9月27日)
走水砲台跡 御所ヶ崎公園 (2015年9月27日)
走水砲台跡 低砲台の山を望む (2015年9月27日)
走水砲台跡 山に入ります (2015年9月27日)
走水低砲台とは、どんなものなのか。当日配られた資料によるとこのようなものらしいです。
「27.09.26 猿島公園専門ガイド協会 東京湾要塞 走水低砲台跡
走水地区は、観音崎地区とともに東京湾口の最も狭いところに位置し、湾口防衛の砲台を築くに適した要地であった。このため当初から、観音崎・猿島などとともに砲台の建設が計画され、これらの砲台に続いて走水砲台が建設された。
<走水低砲台>
走水低砲台は、走水海岸で東北に突出した標高約20㍍の旗山崎の丘上に、明治18(1885)年4月に起工し、1年後の明治19年4月に竣工した砲台である。東北に面して27センチ加農砲4門が明治26年3月に据え付けを完了し、日清戦争では戦備についた。日露戦争直前の明治37年1月、新輸入の27センチ加農砲に据え換え、開戦にともない当初2門が戦備についたが、ウラジオ艦隊に備えさらに2門も戦備についた。
この砲台は、当初単に走水砲台と称されていたが、走水高砲台が建造された関係で、明治30年9月に走水低砲台と改称された。構造は1門ごとの砲座で各砲座間に高い横墻(おうしょう)が設けられ、中央の横墻下に掩蔽部、その両側の横墻下に砲側弾薬庫、両側の横壇上に観測所が設けられた。
関東大震災で被害を受けたが、復旧され、昭和9年8月除籍された。
(新横須賀市史 別冊 軍事より)
<旗山崎台場跡>
(御所ケ崎)は江戸時代、台場が造られた場所でもあります。
走水低砲台跡周辺の海に突出した場所一帯を「御所ケ崎」といいます。御所ケ崎の地名は、日本武尊が東征の途次、走水の地から上総に渡ろうとしたとき、天候が良くなかったので2、3日のあいだ走水に滞在することになり、この地に仮の宿泊所を設けたところから「御所」の名前で呼ばれるようになったといわれています。また、旗山崎の地名も、日本武尊がこの地から出陣していくにあたり、裏山に旗を立てた「旗山」の先(崎)の地であるといわれるなど、「皇島」(尊が船に乗った場所)の地名などとともに、多くの伝説的な地名が走水には残っています。
旗山崎の台場は、海上防備のため天保14年(1843)に設けられました。『東海道三余雑記』によれば、大筒6挺をそなえており、狼姻筒とよばれる急用を知らせるための合図をおくる煙の信号筒が1挺、足軽2人、中間2人、大津番所(陣屋)より日々勤番にて、朝四つ(今の午前10時)交代とみえます。
現在、この旗山崎の波打際は大きな石で組まれ、台場の跡であることがすぐわかります。これらの石は真鶴や伊豆方面から船で運ばれてきたもので、明治以後、旧陸軍によって使われていたものです。
※「走水」という地名
走水の地名は古く、わが国でも最も古い本である『古事記』や『日本書記』の中にもみえます。地名の由来は、小原台の山の上から水が走るように流れ出ているためだとか、浦賀水道の潮の流れが走るように速いためだとか言われています。」
集まった人は、地元の横須賀マダム2名、東京の砲台愛好家2名、市の職員、ガイドさんの総勢16名でした。
ガイドさんは猿島がホームグランドの女性の方でしたが、本日は駆り出されてきたのだとか。まずは、フェンスの鍵を開けて、砲台陣地に入っていきます。
最初の地点は、第四砲座。27インチカノン砲が据え付けられていた所です。カノン砲は榴弾を用いる大砲の総称です。大口径のものは榴弾砲と呼ばれていたようですが、ここには高射砲は据えられなかったようで、大東亜戦争末期の本土決戦には用いられなかったようです。すぐ近くに観測所もあったようですが、本日のメニューに無かったせいか、スルーされちゃいました。
走水砲台跡 高塁道 (2015年9月27日)
走水砲台跡 第4砲座 (2015年9月27日)
走水砲台跡 第4砲座 (2015年9月27日)
走水砲台跡 第4砲座 ボルトの跡が残っている (2015年9月27日)
続いては、揚弾井、砲側弾薬庫、小隊長掩壕です。高塁道を伝わりながら移動です。地元のマダムは、猿島と比較するなど、大変詳しかったです。東京から来た方のお一人が、草の被っている土手に足を滑らしました。「足元が滑りやすいのでお気を付け下さい」とはガイドさんの弁。先に言ってよ~。
猿島の弾薬庫で見た、点燈室がここにもありました。弾薬庫で火気厳禁ですから、このような工夫が必要だったんですね。ここに蝋燭とか、カンテラを入れたのでしょう。
走水砲台跡 高塁道 (2015年9月27日)
走水砲台跡 砲側弾薬庫通路 点燈室が見える (2015年9月27日)
走水砲台跡 砲側弾薬庫 (2015年9月27日)
走水砲台跡 砲側弾薬庫の入口 (2015年9月27日)
走水砲台跡 小隊長掩壕 (2015年9月27日)
走水砲台跡 小隊長掩壕通路 両脇に点燈室 (2015年9月27日)
走水砲台跡 揚弾井 (2015年9月27日)
走水砲台跡 点燈室 (2015年9月27日)
走水砲台跡 壕の入口 (2015年9月27日)
次はまだ整備されていない第三砲座、草木が茂っていてよく判らなかった。
走水砲台跡 第3砲座跡 整備されていないので草ぼうぼう (2015年9月27日)
走水砲台跡 第3砲座跡 薄らと影が見える (2015年9月27日)
坂を少し下ると、生息掩蔽部です。確かに小部屋になっており居心地良さそうだなあと思いましたが、自分の人差指くらいの大きさの「やすで」が、壁床天井に大量に張り付いています。やはり人が住んでいないと、だめだなあ。怖い、怖い。
走水砲台跡 生息掩蔽部 (2015年9月27日)
走水砲台跡 生息掩蔽部入口 (2015年9月27日)
走水砲台跡 生息掩蔽部 (2015年9月27日)
走水砲台跡 生息掩蔽部 棚か物入れ (2015年9月27日)
走水砲台跡 生息掩蔽部 (2015年9月27日)
走水砲台跡 生息掩蔽部 (2015年9月27日)
第2砲座にも行ってみます。ここもまだ整備前です。
走水砲台跡 高塁道 見張り台か? (2015年9月27日)
走水砲台跡 高塁道 四角い所が揚弾井 (2015年9月27日)
走水砲台跡 高塁道 四角い所が揚弾井 (2015年9月27日)
走水砲台跡 高塁道 揚弾井の吊金具 (2015年9月27日)
走水砲台跡 高塁道 揚弾井内部 (2015年9月27日)
走水砲台跡 高塁道 (2015年9月27日)
走水砲台跡 高塁道 煉瓦に刻印が 字の判別はつかない (2015年9月27日)
走水砲台跡 第2砲座跡 (2015年9月27日)
走水砲台跡 この下にまた弾薬庫がある (2015年9月27日)
走水砲台跡 砲側弾薬庫入口 (2015年9月27日)
走水砲台跡 砲側弾薬庫 天井近くの丸穴はなんだろう (2015年9月27日)
走水砲台跡 砲側弾薬庫 (2015年9月27日)
走水砲台跡 砲側弾薬庫 (2015年9月27日)
走水砲台跡 砲側弾薬庫 奥と手前が弾薬庫、真ん中が超隊長掩壕 (2015年9月27日)
走水砲台跡 砲側弾薬庫 (2015年9月27日)
後は同じものがありますと言うガイドさんのお話で、残念ながら砲台陣地を後にします。
外に出てからは、ガイドさんと記念写真を一枚。
楽しい見学会でした。
走水砲台跡 杭があったけど、木杭だから昔のものではなさそうだ (2015年9月27日)
走水砲台跡 さようなら、低砲台 (2015年9月27日)
走水砲台跡 ガイドさんたちと記念撮影 (2015年9月27日)
砲台が造られる前に、この地にあった走水神社さんをお参りすることにしました。ロシア製の機雷が祭られており、何だか皆さんが拝んでいるみたいだった。
走水砲台跡 走水神社 (2015年9月27日)
走水砲台跡 走水神社 (2015年9月27日)
走水砲台跡 走水神社 よく拝んでおきましょう (2015年9月27日)
走水砲台跡 ロシアの水中機雷 (2015年9月27日)
走水砲台跡 走水神社 遠く千葉を望む (2015年9月27日)
走水砲台跡 走水神社 山頂にある三祠 (2015年9月27日)
帰りに、京急走水ホテルに寄って、コーヒーを飲んでいくことになりました。そこで、何と、GURIKO隊長は職場の同僚だった人とばったりお会いししていました。
偶然とはいえ、隊長、お顔が広い!