旧日立航空機立川工場変電所跡 (2015年9月20日)
9月の連休に東大和市の東大和南公園にある変電所跡を訪ねました。東大和公園という場所もあり、そっちに行ってしまうと、この遺構を探せなくなっちゃいます。
この変電所は東京瓦斯電気工業株式会社が航空機エンジンを製造していた軍需工場の変電所として1938年(昭和13年)作られました。その後、日立製作所と合併して、日立航空機株式会社の立川発動機製作所に移管されます。1945年(昭和20年)2月17日、F6Fヘルキャット戦闘機が、4月19日にはP-51ムスタング戦闘機によって、機銃掃射され、4月24日にはB-29 の空襲に会います。よく攻撃した機種まで特定できたものです。うさおの生まれる2年前ですね。
戦後は、東京瓦斯電気工業、富士自動車、小松ゼノアに引き継がれながらも、戦争の爪あとを残しながらこの変電所は保存されてきました。
今は、東大和市の史跡として、公園内に保存しています。
旧日立航空機立川工場変電所跡 地図 (2015年9月20日) 赤の□の処
当日はこの公園のプール際にある駐車場に車を止めます。ここがこの遺構に最も近いところです。すぐにこの返書が見えてきます。caccoの入れ込みのほうが大きく、どんどん、先に行ってしまいます。
うさおはじっくり写真を撮っていきます。変電施設の碍子や、ケーブルなどが庭にちりばめられています。
旧日立航空機立川工場変電所跡 公園の中にあります (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 近づくとこんな感じ (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 電線の束です (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 もう少し近づいてみます (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 変電設備器具をオブジェにしてあります (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 妻側はこんな感じです (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 正面から見ると銃弾の穴だらけ (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 これは給水塔の一部 (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 壁のぼこぼこが銃弾跡 (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 それはこんな感じ (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 チーズの虫食い状態 (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 慰霊碑 (2015年9月20日)
建物の前の碑文には、こう綴られています。
「 東大和市文化財 史跡・戦災建造物
旧日立航空機株式会社立川工場変電所
この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
北隣にあった設備で受電した66,000ボルトの電気を3,300ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。
外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。
この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。
平成8(1996)年3月
東大和市教育委員会」
旧日立航空機立川工場変電所跡 花壇の中のプロペラ (2015年9月20日)
旧日立航空機立川工場変電所跡 説明板は無かったと思う (2015年9月20日)
そんな中、花壇の中に、航空機エンジンが飾られていたのはご愛嬌でしょう。
古色ふんだんで満足いく遺構でしたよ。