蟹ヶ谷分遣隊跡(2015年6月20日)
今から20年以上にもなりますが、当時梶ヶ谷で市の地区センターを借りて、バトミントンのクラブ活動を行っていました。その当時、館内の市のチラシには、蟹ヶ谷分遣隊の見学と講演会の催しなどが良く貼られていました。
今だったら、すぐに飛んでいくのですが、その時にはふ~んと言う感じで、あまり興味を持ちませんでした。自分でも遺跡を探せるから殊更に参加しなくてもと思っておりました。これは大きな間違いです。先達さんがいらっしゃると、ものすごく探検が楽です。
そして、数年前に最後の電波塔が解体されたとの記事を見かけました。
しまった、時代は私たちが思うより早く、過去の文化を駆逐する方向で進んでいる。早く見に行かないと痕跡も無くなってしまう。
余談ですが、田浦の貨物線跡の近くにあった比与宇トンネルの脇にあった地下壕は、住宅の開発で見るも無残に潰されました。ここの地下壕はまだ見に行っていないのに・・・。
蟹ヶ谷分遣隊跡 近隣地図 青丸が遺構のあるところか? (2015年6月20日)
さて、家の近くですし、雨も上がったことだし、ちょいと、川崎市高津区蟹ヶ谷の旧海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊跡を見に行ってみましょう。
蟹ヶ谷分遣隊は海軍省が直轄していたものです。蟹ヶ谷が中短波の受信基地で、戸塚(深谷:横浜市泉区和泉町・中田町:深谷通信隊の項を参照のこと)と船橋(船橋市行田)が送信基地でした。
旧日本海軍東京通信隊
本隊 (海軍省)
船橋分遣隊(送信)
戸塚分遣隊(送信) 104 深谷通信隊(既報)
蟹ヶ谷分遣隊(受信)
これも余談ですが、深谷の通信隊は米軍に返還されたと言う割には、いまだに米軍が使っていますし警備が厳しいです。写真を撮るため、入口に車を止めただけで、見張りのおばちゃんが飛んできて中に入すことはできないから即刻退去するようにと強い口調です。 基地内に野球場があり、そこを借りる時の条件で、自分たち以外の人間の立ち入りを禁止することでも書かれていたのでしょうか。子供たちの野球場確保で、思わぬ権力を与えられた主婦連が、よそ者につれなくしている感じです。
蟹ヶ谷分遣隊跡 この丘陵にあります (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 この眺めの良さ (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 このマンションが目印です (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 この坂を下ります (2015年6月20日)
それはともかく、蟹ヶ谷に向かいます。googleの地図で、コイン駐車場が僅かしかないのは調べておいたので、着いて直ぐの駐車場に入れました。周りを見ると、ここより安いコイン駐車場が沢山出来ていました。どうやら、時間当たりの駐車料金が最も高い処に留めてしまったようです。
気を取り直して、地下壕の入り口に向かいます。地図で確認しておいた道路は、なかなか地下壕の入口につながっていません。かなり坂を下ってみましたが、その道路が見当たりません。ともかくも人家の脇を通って下の道まで降り、現場に近づきます。
道が終わってしまい、畑のど真ん中に入り込んでしまいます。民地ですね。農家の方に咎められたらどうしよう。農家の方の軽トラックが留められているよ。
とりあえず、人が居たらお声掛けをして了承を得ることで、ずかずか、農地に立ち入ってしまいました。不法侵入で警察沙汰ですよ。
しようが無いので、その代わりとしてご近所の方に、お暑いですねとお声を掛けておきました。あまり、地主のかたには関係がない話ですね。
こっちだよと、caccoに入口を指し示します。草に隠れて大変見難い状態です。でも、看板の裏に回り近くに寄ると、はっきり見えてきます。caccoは大変喜んでくれました。
蟹ヶ谷分遣隊跡 農地の中 (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 ここが現場です 茶色の看板があります (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 看板が出ています (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 地下壕の入り口です 上面に鍵が掛かっています (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 ほとんど草に覆われて看板が無ければ気が付かない (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 これだと農業下水の一部分にしか見えない (2015年6月20日)
取り払われたアンテナの基礎も見ておきたいところです。
分遣隊は1930(昭5)年に現地に地下壕を造り、受信環境が良い丘の上に電波塔を建てました。その当時は受信用アンテナが6本もあったそうです。その最後の1本(国交省東京航空局無線塔)も2012年には取り壊され、住宅の敷地の一部になって居ます。
電波の干渉を防ぐ意味からも、網状のアースが必要なことからも広大な敷地が必要であったようです。基地の面積は18.7haで22棟の建屋に200名以上のの人が働いていたそうです。米国の捕虜も技術を買われて働かされていたようです。
他からの受け売りですが、「太平洋上の海軍艦船の通信を受けて、暗号解読や敵の通信を傍受し解読するなどを行っていた。南方戦線で拿捕した米英軍人を、30人ほど翻訳係として使っていた」ということらしいです。また、「戦争末期に連合艦隊司令部を、巡洋艦「大淀」から日吉の地下壕(慶応大学構内)に移して、蟹ヶ谷から日吉までの約3kmの直通回線を引いて、情報を司令部に送っていた。」とのこと。
公務員宿舎あたりが、分遣隊の基地だったところのようで、そのあたりを探してみましたが、公務員宿舎そのものが取り壊しの最中でした。電波塔は多分、この小学校の校庭とか、草地の所にあったと思われます。何となくコンクリートのかけらがあったので、一応撮影しておきました。全く関係ないものかもしれませんが。
蟹ヶ谷分遣隊跡 どのあたりだろう (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 国交省の公務員宿舎跡 (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 公務員宿舎跡 (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 右手の公務員宿舎も取り壊しの最中です (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 何かレトロなもの (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 下母口小学校グラウンド ここに鉄塔があったらしい (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 宿舎の裏側になります (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 何かの破片が (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 基礎かもしれないのでとりあえずパチリ (2015年6月20日)
その後、川崎市平和館に行ってみました。後から思えば、こちらが先でしたね。気がはやって何も予習せずに現地に赴いてしまいました。
お目当てはこの地下壕の模型と、当時の写真、地図です。
蟹ヶ谷分遣隊跡 川崎市平和館 (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 空襲の跡の模型 (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 在りし日の電波塔の写真 中島信也氏蔵 (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 航空写真 昭和36年 四角が建物 (2015年6月20日)
地下壕は「く」の字の形をしており、天井高もそう高くなさそうです。閉所恐怖症の人はだめでしょうね。この狭い所には、何人の人が働いていたのでしょう。多くの人は無理そうですし、炊事やトイレはどうしていたのか、興味のあるところです。
蟹ヶ谷分遣隊跡 地下壕の模型 (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 発電機室 (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 通信施設の模型 (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 防空壕の実大模型 (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 防空壕の実大模型 (2015年6月20日)
蟹ヶ谷分遣隊跡 防空壕の実大模型 (2015年6月20日)
ここは無料でしたし、防空壕の実大模型もあり面白かったです。