寒川支線編(2001年10月13日)

 今回のメイン・イベント、「寒川支線跡」です。相模原から厚木に掛けては、嘗ては軍事基地や軍需工場、工廠などが多くある地域で、今は自衛隊や米軍が使っています。この「寒川支線」も昔は海軍工廠に繋げる軍用線だったようです。ご覧のように終点駅は、「相模海軍工廠跡」の石碑が建っています。この駅は、「四ノ宮駅」。寒川駅とこの駅の中間に「西寒川駅」があり、両駅とも今は公園になっており、軌道敷もそのまま残されています。鉄輪モニュメントもお洒落です。
この線は1984年に廃線になりました。倅が生まれる1年前あたりです。(あれっ、ライ隊員が書いていたんじゃなかったっけ?)(--;)
 藤本理弘さんのホームページにジモッティとしての記述があります。少し抜粋してみますと、
 寒川支線は1922年5月に寒川~四之宮間が,相模鉄道四之宮線(貨物専用線)として開通しました。相模川の砂利を運搬していたようです。
 同年10月に、中間駅として東河原駅が設置されました。のちに昭和産業が相模鉄道の筆頭株主となったため,東河原駅は昭和産業と駅名を変更し,工場で働く従業員を運ぶことになりました。
 しかし1940年,昭和産業の社長が九州で暗殺されるという事件が起き、昭和産業は衰退し、工場が国によって買収されて相模海軍工廠となりました。相模海軍工廠は国内でただ3ヶ所,毒ガスの製造が行われたと伝えられる場所だそうです。後で、cacco隊員がこの毒ガス工場跡地を探そうとして躍起になりましたが、探すことが出来ず地元の喫茶店主から数ヶ月前に取り壊されたことを聞き、地団太を踏みました。


寒川支線 2001年10月13日撮影



遊具にもなって居ます

鉄輪がオブジェになって居ます

枕木のモニュメント

かつての寒川駅のホーム跡


 横浜に住んでいる人は、「みなとみらい21線」というのをご存知でしょう。本当は今年に開通の予定でしたが、2年ほど開業が送れています。東急東横線の横浜駅から「みなとみらい21」地区を経由して、海岸通りから山下町を繋ぎます。東横線が横浜高速鉄道線に乗り入れるわけですが、それに伴って、「高島町駅」、「桜木町駅」の路線は廃止され2駅は廃駅になります。さらに地下化工事のために「反町駅」地上駅がなくなります。
 まずい、コリャ大至急取っとかなきゃアカン!
と言うことで、「ご近所トマソン隊」の出撃です。
 調べてみると、この地下化工事のために、東横線の廃駅も潰される事が判りました。「東白楽駅」と「横浜駅」の間に、「新太田駅」と「神奈川駅」の跡地があるようです。早速行って見ました。
 「新太田駅」は一足も二足も遅く、もはや高架は取り壊されており駅の残骸もこれっぱかしになっていました。別の章で緑道になった駅跡をご報告します。


 「新太田駅」 2001年7月20日撮影

 「神奈川駅」はかろうじて残っていましたが、高架工事はもうそこまで迫っています。こちら側には駅の跡はありません。マンションとの間に辛うじてホーム端らしきものがあります。
このマンションは以前お寺さんだったようで、三宝寺とありました。考えてみると、ホームを降りるとお寺さんというのも何か変ですね。


 「神奈川駅」 2001年7月20日撮影








 「反町駅」も取り壊しが始まっていました。これから地下駅になります。




 「反町駅」 2001年7月20日撮影

 「高島町駅」は綺麗な駅ですが、学習塾に行く学生くらいしか降りません。さて、駅を降りて通路を行くとアーチ通路がありますが、この風景は何処かと似ています。鶴見線の「国道駅」の高架下がそっくりです。この高島町駅と鶴見線の国道駅は、同じ設計者が作り上げました。コンクリートの神様と言われた阿部美樹志博士が手掛けたものです。博士は「浅野混凝土学校」の先生でした。高架橋の上に駅舎があるいわゆる橋上駅で、アーチ構造がふんだんに使われています。ともに海に近い環境で年月を経ているため、塩害の影響を受け鉄筋が腐食し、コンクリートの劣化が現れはじめています。
 「国道駅」が昭和10年の完成、「高島町駅」が昭和3年完成ですから、見た目より歳を経た構造物です


「高島駅」 2001年10月24日撮影






 京浜急行も路面電車から発達してきた線です。消えていった駅も数多くあります。昔は京濱急行湘南電気鐵道と呼ばれていました。
 「仲木戸駅」はJRの「東神奈川駅」と向かい合うように位置していますが、鄙びた駅で普通電車しかとまりません。その駅の裏側に旧駅が存在します。とても危ない感じです。鉄筋は露出しているし、剥離、剥落個所がほとんどで、コンクリート強度は期待できません。見つけることは出来ませんでしたが、この駅と「神奈川駅」の間に、「京急反町駅」があった筈です。


「仲木戸駅」 2001年10月24日撮影




「平沼駅」もマニアに有名な所です。戦争の爪跡を残しておこうと言うことで、少し前までは鉄骨だけの屋根がありましたが、老朽化が進み危険だと言うことで撤去されました。躯体の老朽化も進行していますので、いずれこの駅も姿を消すでしょう。何時かしっかり確かめたいと思います。


京浜急行平沼駅 2001年9月26日撮影

 京浜急行は、嘗て雑色だかに京濱急行湘南電気鐵道時代の本社があったはずで、車輪をモチーフにした記念碑が残されている筈です。これも探しましたが、よく判りません。「総持寺駅」「出村駅」など廃駅の宝庫のようですが、探し出すことは大変難しく判りませんでした。
 大阪に住むポン友、M氏が「北関東の産業考古学 産業遺跡を歩く」中川浩一著 産業技術センター刊という本を呉れました。大変貴重です。感謝。そう言えば、土木工業協会からも「土木造形家 百年の仕事」(注cacco読書リスト)を手に入れました。へっへっへっ、何かリッチじゃなあ。