明治大学 陸軍登戸研究所

 旧帝国陸軍の諜報、謀略、宣伝の研究所が、明治大学生田キャンパスの中にあります。日吉の地下壕のように、大学が保存している戦争遺構です。生田の駅から徒歩15分くらいですが、西門からキャンパスに入ると急な坂道が続きます。学生さんたちは苦も無く、登っていきます。家内と二人、大汗をかきながら、でも遺構に会える期待感で登り切りました。

戦争は残酷なものをつくります


登戸研究所(川崎市多摩区東三田)
 現在の明治大学生田キャンパスは、かつて、帝国陸軍の登戸研究所だったところです。ここでは、防諜・諜報・謀略(破壊・撹乱活動・暗殺)・宣伝(人心誘導)を研究していました。 
平たく言うと、忍者や007のスパイのアイテムを作っていました。陸軍中野学校の卒業生が、必要とした道具です。この中でも、人心誘導は近代戦略の要となるもので、ナチス・ドイツの宣伝相、ヨーゼフ・ゲッベルスは、「プロパガンダの天才」と呼ばれ、国民や敵に対して情報戦を仕掛け、士気を高めたり、誤誘導したりと、大きな成果を上げます。当時の日本としては、そのような宣伝技術が、重要で必要なものだと言う、進んだ考え方をしていました。
 さて、1937(昭和12)年11月に「陸軍科学研究所登戸実験場」として開設されますが、1942(昭和17)年10月には、「第九陸軍技術研究所」となりました。電波兵器・無線機器・宣伝機器などを開発する、技術者が集められました。敷地11万坪,建物100棟余,技術将校などの所員250名,一般の雇員・工員750名ほどの大所帯でした。その後、1950(昭和)年に登戸研究所の敷地の半分を、明治大学が建物ごと取得して、生田キャンパスとしました。


生田キャンパス配置図(2014年8月14日入手:東側に専修大学、生田緑地がある)

 なんとABC兵器のうち、B(生物兵器)、C(化学兵器)までもが、ここで研究されていました。
※ABC兵器:atomic, biological and chemical weaponsの頭文字をとって付けられた。

 戦争は残酷なものだなあと思うのは、こういう開発を見せられた時です。
この研究所で開発した風船爆弾(ふ号兵器)などは、ネーミングのせいか、おっとりと聞こえますが、風船が落ちてきても爆発、撃ち落としても爆発で、やはり怖い代物です。
 他にも、侵攻しようとする国の偽札や、暗殺用の武器、精細写真術(そう言えば、鬼人粋人伝の羽田武夫さんは、藤沢の海軍電波兵器測定学校で、写真技術の教官をされていたそうですが、ここの研究所には教えに来なかったのか、興味をそそられます)、電波兵器が展示されています。
 明治大学の資料館が注目されている点は、旧日本軍の研究施設をそのまま保存していること、あまり公にされない、秘密戦の資料が保管されていることなどです。現に見学に行った日にも、海外のお客さんが来ており、教授と院生と思しき方々が、施設の来歴について流ちょうに対応されていました。


キャンパス内の坂道



生田キャンパス内


風船爆弾(2014年8月14日撮影:資料館では当時の研究成果を模型で見せています ※明治大学平和教育登戸研究所資料館蔵)

現存する施設は

 この資料館は、数年前までは設立当初からの木造の建物でしたが、老朽化し危険なため、新しいものになりました。5号棟、26号棟は、数年前に取り壊したので、現存しません。
資料館の入り口斜め前にあるこの地下壕倉庫は、弾薬庫跡と言われています。私の子供の頃には、このような防空壕跡に人が住んでいました。




弾薬庫跡(2014年8月14日撮影:入口のすぐ後ろが山になっている)

 明治大学の第一号舎1号館裏手の、菜園の麓に地下壕があります。今は園芸学部の物置として使われているようです。「花卉園芸」と書かれています。




倉庫跡(2014年8月14日撮影:丘の下にひっそりと隠れています)

 消火栓は、構内には相当な数があったと聞きますが、今現在、判っているのは2つです。消火栓の文字の上に、帝国陸軍を表す星形が付いています。




消火栓跡(2014年8月14日撮影:もう一つの消火栓は,半分地中に埋まっています)

 動物慰霊碑です。実験に使われた動物たちの霊を慰めるために、非常に立派な石碑を立てています。実験のために死なせた動物たちに、愛を感じていたのかもしれません。


動物慰霊碑(2014年8月14日撮影:正門の裏にあり、目立たないので探しづらい)


弥心神社(生田神社)お手水場

弥心神社(生田神社)