私的祖父伝と歯科医師の碑 


 祖父のことをいろいろ調べてみました。ネット上でどのくらい探せるものでしょうか。結構探し出せたと思います。

祖父の参考文献

齒科醫事衞生史 昭和15年10月25日刊 日本齒科醫師會



 明冶二十六年六月帰朝し、同月直に内務省歯科医術開業免状第五十二号を授輿せらる。(中略)同月横濱市右川に開業したが、三ヶ月にして同市谷戸坂に移り、更に一ヶ年後境町に転じた。関東大震災に遭遇して總てを烏有に歸したる後、同市~奈川區子安町三二〇四番地に開業、生を終るまで繼續した。
 明治二十六年十月醫術開発試験委員を命ぜられ、三十一年四月、三十五年四月と相次で重任した。明治二十七年五月には、米国東洋艦隊臨時齒科醫を嘱託せられ、叉明治三十六年三月には功績によつて正七位に敍せられ、又三十九年には明治三十七八年戦役の際報国の賞として木杯五個竝に賞状を賜り、大正五年十二月は銀杯一個を賜つた。
 室は長井寓蔵の二女「むめ」(明治十二年生)で三男二女を擧げ、(中略)
 門に入り一家をなした主なるものは次の如くである。
  1、藍島元四郎 東京市開業
  2、大久保潜龍 ~田区駿河臺に開業、東京女子齒科醫學校を設立す、現に~田區~保町在住
  3、關田保太郎 埼玉縣開業
  4、佐藤 某 新潟縣開業
  5、寺川繁次 長野縣飯田市開業
  6、梅原 稔 青森市開業
  7、岡部鱗次郎 仙臺市開業
  8、丹羽 信、長野縣飯田開業、羽生と改姓
  9、長谷川朋一新潟縣開業
  10、奥村鶴吉 東京齒科醫學専門學校教授
     昭和十八年東京齒科醫學専門学校長 醫學博士 昭和二十一年東京齒科醫科大學學長
  11、山本光三郎 横濱市開業
  12、菅沼 明 横濱市開業
  13、菅沼亥惣次 横濱市開業

 ここでは、奥村鶴吉氏をマークしておきましょう。東京齒科醫科大學學長になった人ですね。

富山県歯科医師会100年史『一世紀録』2013年(平成25年)刊



歯科医療の黎明期・明治10年代(1860年〜1886年)の章に、祖父の名前が見えます。

 西洋からの歯科医術の導入
 @外国人歯科医師に直接師事した人々
  ・イーストレーキに師事―長谷川保兵衛、佐藤重、安藤二藏
  ・エリオットに師事―小幡英之助、佐治職
 A留学して歯科医師になった人々
  ・高山紀齋―在米7年、明治11年帰国、銀座に開業。高山歯科医学院開設。門下生37人。
  ・伊澤信平―在米4年、明治25年帰国、京橋南金六町に開業。門下生56人。
  ・益田廣岱―在米6年、明治26年帰国、横浜市子安町に開業。
  ・一井正典―在米9年、明治27年帰国。
 B口中医で西洋歯科医術を習得した人々
  ・伊澤道盛―明治8年試験に合格し銀座開業。
  ・渡邊良斎―平賀精次郎と「歯科学」を著す。

 祖父の住所が子安になっています。横浜山手谷戸坂、日本大通り栄町、子安と移り住んだので、最後に亡くなった場所を記してあるようです。
 高山紀齋医師が、富山県における歯科医師の嚆矢となる人物です。この方にスポットを当てて表された本ですが、結構周辺の出来事も詳細に記述されています。さらに続きます。

明治30年代前半に開業した人
 試験及第者で富山県内で開業した人は、 明治32年4月の吉田幸夫氏、同じく32年の永野一彦氏、33年8月の島川安次郎氏、34年5月の菅田良雄氏である。
 吉田幸夫氏は、熊本県の士族で、婦負郡長吉田安喜氏令息。熊本より移住。歯科医籍385号。6〜7年後に県外へ。
永野一彦氏は、吉田氏と同じ熊本県の士族の出身で高岡市三番町に開業した(458号)。
 島川安次郎氏は、上新川郡大庄村の出身で、東京歯科醫学院を卒業して、 高山紀齋氏の治療所に主任医として従事し経験を積み、 富山市覺中町6番地に開業(474号)。
 菅田良雄氏は、東京歯科醫学校並びに高山歯科醫学院を卒業し、 益田廣岱氏の病院に醫員を奉職し専ら実務に従事した後、 富山市殿町に開業(544号)。 菅田博子先生の祖父。

 菅田良雄氏が、祖父の書生をしていたということですね。常に10人以上の書生がいたと聞いていますので、その中のおひとりです。「齒科醫事衞生史」には載っていませんでした。

Webで見つけた祖父の足跡

深谷デジタル・ミュージアム 人物館 明治時代 に祖父の名前が僅かに見えます。
http://www.fukayadigitalmuseum.jp/portrait/archives/80.html



 深谷は祖父が育ったところであり、益田家の本家があるところ、うさおも3歳くらいまでは深谷で暮らしていました。親が大東亜戦争で疎開したのです。戦後、うさおはこの地に誕生することになります。
図 深谷デジタルミュージアム

明治時代
 益田広岱(ますだこうたい)

人物の解説
 人名   益田広岱
 ふりがな ますだこうたい
 生没年  1865-1932
解説
 歯科医師。石塚村生まれ。慶応義塾から、米ハーバード大歯学部卒。横浜で開業した。 我が国西洋歯科学の開拓者の一人である。
文献
(埼玉県1998『埼玉人物事典』から抜粋)

歯科医師試験関係略年表






 1892(明治25)歯科医術開業試験  東京 4月、10月、京都 5月、11月 (試験委員 東京 伊澤信平、益田広岱)以下数年にわたって、試験委員を任じられたと聞いています。
http://yukitaro.nomaki.jp/

 伊澤信平氏は、富山県歯科医師会100年史「A留学して歯科医師になった人々」に記述が見える人です。祖父より、1年前に帰国し開業した西洋史学の先駆者のひとりです。
 ここでの記述は何やら曖昧なものを感じます。、
@伊澤氏、祖父は1892年から1903年の東京の試験委員を行っていたのか。
A1998年 試験委員 大阪  西村輔三氏とあるので,この年から東京、京都、大阪で行っていた歯科医術開業試験を、東京、大阪に分離したのか。
Bその後はだれが試験委員だったのか記述がない。1905年から試験は全国地方庁所在地で、4月に一斉に行われることになった。とても、伊澤、益田、西村の3氏だけで試験を行うことは難しい。1907年頃から歯科医師法が公布され、歯科医学専門学校が作られているので、法制度が変わることで試験委員が増員されたのか。

1913年に、”欧米諸国における歯科医師試験制度”(奥村鶴吉)(歯科学報 17:9〜10) が著されています。この方は祖父の書生をされていた方です。その後もこの方は、試験委員を継続してされています。

血脇守之助小伝 C高山歯科医学院へ の章に名前が見えます。



(前略)2年ばかり勉学に励んだ守之助は、明治28年4月に学説および実地の試験を受け、みごと合格、7月16日付で歯科医師の免許を下付された。ちょっとまわり道をしたが,25歳の新進歯科医の誕生である。なお、このときの試験委員は高山紀齋と益田広岱で、受験者は105人、合格したのは16人という。(後略)
http://www.tdc.ac.jp/chiwaki/04shoden.html
先ほどの年表では、試験委員は伊澤信平氏と祖父であったようだが、大御所高山紀齋氏となっているが。

さて、?

野口英世 波乱の生涯 星亮一 第5章 大火傷 伝記の白眉の章にも名前が見えます。





 英世の伝記は数多いが、白眉といわれるものは昭和八年(一九三三)に刊行された奥村鶴吉編の「野口英世」である。(中略)                              
 奥村は歯医者だった。明治十四年十二月、神奈川県秦野の奥村藤吉の長男に生まれた 英世より三歳年下である。父は歯科の医師だったので、家業を継ぐために横浜に出て、ハーバード大学で歯科を学んだ益田広岱のところで書生をしていた。
 そこで英世の恩師血脇守之助の日に止まり、英世を知ることになる。奥村は高山歯料医学院時代、本郷の下宿で英世と同室だった。奥村はペンシルベニア大学に留学したのでアメリカでも英世に会っており、英世のすべてを知る人物であった。
 晩年は東京歯科医学専門学校の学長や日本歯科医師会の理事長を務めたいわば英世の刎頸の友といってよかった。
http://books.google.co.jp/books?id=v7zTL9KdipMC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false


祖父は歯科雑誌に原著論文を数編投稿していました。

齒科社會に於ての睡眠術 / 益田廣岱  1894(明治27)年09月



ドクトル、ゼームスロー氏の橋架冠齒 / 益田廣岱 1895(明治28)年02月




 ここからは話を転じて、歯科医師の碑の話です。

横浜は西洋歯科医術の発祥の地

 横浜は西洋史化医術の発祥の地と言われています。江戸時代の歯科医の一派に、長井兵助の流れを汲む医家がありました。長井兵助ば江戸の安政年間の歯科医で、長刀の抜刀術を大道で見せ、人が集まったところで、歯磨き粉を売り、歯の治療をしました。その長井家は、柘植で造った入れ歯が得意であったことから、歯の治療に専念し歯科医師としての地歩を確立させました。
 私の祖父は西洋歯科医師であり、横浜の日本大通で治療院を開きました。祖母は、この長井家から嫁いできました。和洋の歯科医術が融合したかのようです。かな?
 自分は建築の技術者ですが、専門とは関係ない横浜歯学の事始めに興味を持ちました。
 さて、横浜には近代歯科医術の発祥の記念碑が幾つかあります。碑の人物の来歴は、碑文だけではなく、「齒科醫事衞生史(前出)」と言う書物も参照しました。1940(昭和15)年10月25日に刊行された本で、編集は日本齒科醫師會が行っています。レトロ感を出すため、敢えて原文の文字を使いました。
 本では近代日本の歯科医業に、功績のあった人物を取り上げています。歯科医師の人脈の系譜ですね。歯科医学を三つの系に分け、「外人医師」系、「留学」系、「伝統医学」系です。祖父は「留学」系に名前が記載されていました。

西洋歯科医学勉学の地の碑 (旧横浜市中区山下町 新横浜市中区住吉町)

 山下公園からほど遠くない、KAAT神奈川芸術劇場の裏手の道路の角(現在は駐車場)に、この碑がありましたが、現在は桜木町寄りの横浜歯科医師会館の前に移築されました。
 碑は、米国人歯科医セント・ジョージ・エリオット博士と、ハラック・マーソン・パーキンス博士日本での功績を讃えています。両博士は、多くの日本人の門弟を抱え、近代歯科医術を教えました。


西洋歯科医学勉学の地の碑

西洋歯科医学勉学の地の碑

西洋歯科医学勉学の地の碑

西洋歯科医学勉学の地の碑(2005年6月25日撮影:最初の場所のものです)

 セント・ジョージ・エリオット (St.J.Eilliott D.D.S.米国 1838年 大正4年頃)
齒科醫事衞生史から少し引用してみます。「セント・ヂョーヂ・エリオットが日本に來航したのは明治三年(一八七〇年)である。(註 明治二年と記するものあり)。エリオットは天保九年(一八三七年)一〇月紐育に生まれ、父は眼科醫であった。初め兵士となりて南北戦爭に從軍し累進して聯隊司令官附将校となったが、負傷の為め除隊し、戦爭の終期に至り再び軍医官として陸軍に入り戦爭終焉後は独立開業した。(中略)
 エリオットが横濱に來た時には、二名の外國人が齒科を開業してゐた。其一人は佛人で、他の一人は米人だった。何れも極めて低級の開業で、エリオットが開業するや數週で佛人は内地に入りて佛語教師となり、米人は歸國したといふ程で、いかにエリオットに人氣があったかが想像される。(註 此二人の外國人齒科醫の事は全く調査の史料を缺く)。(中略)
 斯くしてエリオットは横濱山手に住居を構へ、又海岸の五十七番館を借受け之を改造して治療所としたのである。エリオットの住居はどこにたったかといふに、S.R.ブラウン博士の西隣であった。即ブラウン博士は山手二百十一番でエリオットの宅は二百十二番であった。ブラウン博士宅の南隣地は(二百十番)今の共立女學校の所在地に相當する。(中略)
 日本人へのiケを分かつといふ傳道の立前から、ドクトル・シモンズの切なる勸告から邦人の患者をも取扱ふこととなったが、エリオットの自記によれば、木戸孝允も其患者の一人なりといふ。明治事物起源(石井研堂著)によれば「エリオットが治療を施せし邦人は米國より歸朝したる翌日來りし新島襄と通辯を同行して來た西郷從道の外は絶てなかりき」と記す程に邦人患者は少なかったやうである。」(齒科醫事衞生史:原文のまま)
 碑文では以下の通りです。「エリオットはアメリカ南北戦争終期に陸軍医務官として従軍した。終戦後、フィラデルフィア歯科医学校を卒業して明治三年ここ五十七番館で開業し、明治七年まで五年間診療に従事した。その後、上海、シンガポールを経て英国ロンドンの歯科学校で手術学を五年間講義した。その後故郷に帰り、ニュージャージー州サウスオレンジ市で大正4年頃逝去。」
 本の方が詳しくて、語り口が時代を感じさせて面白いですね。
ハラック・マーソン・パーキンス(H. Mason Perkins 米国 不詳)
同じく齒科醫事衞生史で見てみます。「明治七年エリオットの跡を継ぎ、横濱山手百七十八番 裏は太~宮に續く靜な住宅、治療所は海岸の五十七番館 パーキンスは明治十四年秋に帰国したが、その後杳としてその消息を絶ち知る由が無い。」(齒科醫事衞生史:原文のまま)
 何か、エリオット博士と比べると、ずいぶん記述が少ないです。消息を絶ったとは穏やかではありませんが、確かに記録が残っていないようで、碑文でも以下のようです。
 「パーキンスは米国ペンシルベニア州に生まれ、ボストンの歯科学校を卒業した。三十七歳頃、横浜この地にエリオットの後を受けて開業し、多くの門人を指導。1881年秋帰米す。」(碑文)
松岡萬蔵
 この人は日本初の西洋歯科技工士だったそうですが、レリーフには顔が刻まれていません。碑文では以下の通りです。「明治三年より十四年までエリオット、パーキンス両歯科診療所に歯科技工士として勤務し、其の技術優秀にして両先生に信頼されていたが、早逝している。吾が国における歯科技工士としての嚆矢である。」


我國西洋歯科医学発祥の地の碑(旧横浜市中区山下町 新横浜市中区住吉町)

 元は関帝廟の近くの駐労会館前に、建立されていました。1860年(万延元年)に歯科医師として横浜で開業していた、米国人のウィリアムス・イーストレーキ博士を讃えた碑です。現在は、西洋歯科医学勉学の地の碑と一緒に、横浜歯科医師会館の前に移築されています。


我國西洋歯科医学発祥の地の碑

我國西洋歯科医学発祥の地の碑(2005年4月9日撮影:駐労会館前の駐車場にありました)

 齒科醫事衞生史では、非常にあっさりと記述されています。
 ウィリアム・クラーク・イーストレーキ(William Clark Eastlake亜墨利加(米国)1834.03.25−1887.02.26)
 明治十四年秋 横濱居留地 百六十番館で開業、その後福沢諭吉の紹介で麹町一番町十二番地に転居」(齒科醫事衞生史:原文のまま)
衛生史の資料はそんなに整っていなかったようですが、碑文では以下の通りです。
 「ここは、万延元年(1860)歯科医師として最初に来日した米国人ウイリアム・クラーク・イーストレーキ博士が、来浜3度目の明治14年に 歯科診療所を開設したゆかりの地である。博士は明治元年2度目の来浜に際し歯科診療所(所在地不明)を開設し献身的な診療活動の傍ら日本人歯科医師の育成に努力を傾注し日本近代歯科医学の世界的発展の端緒を開く役割を担われた。
 いまイーストレーキ博士の来浜125周年ならびに神奈川県歯科医師会創立60周年を迎えるにあたり博士の多大な業績を讃えその意義を後生に伝えるため西洋歯科学発祥のこの地に顕彰の碑を建設するものである。」
 碑文も縮めてみれば、衛生史とほぼ同文の内容です。イーストレーキ博士は、後世に残した影響はかなり大きなものだったと思われますが、関東大震災があり、多くの資料が失われたのでしょう。
 ほかにも、特筆すべき外国人歯科医師が居ます。
ヘンリー・ウヰン(Henly Winn)医師は、米国生まれで1850 頃に生まれ1890 年頃に没したと思われます。晩年には帰国する医師たちが多く、また、多くはその消息が不詳です。
 その当時の外人医師はほとんど居留区の外人や、高級船員を患者としていました。日本人はあまり診ていなかったのでしょう。当時の新聞のチラシに「口中一切治療仕候 百八番 ウヰン」というものが残っています。治療所は「山手に面した河岸で、前田橋と谷戸橋との中間に位する商館である。」とあるので、現在のフランス山の麓、元町の入口辺りのことだと思います。
 アレキサンドル(Alexandre)医師は、波乱万丈の人です。明治5年頃、佛國から日本に砲術の教師として松江藩に来ました。軍医も兼ねていたのでしょうか。横濱で開業した後、築地・銀座に転居します。齒科醫事衞生史では、「治療所の看板に自動式の上下顎の開閉する人形に義齒の見本を竝列する看板を出し、時人之を「パクパクの看板」と云い衆人の注目を引いた。(明治事物起源より)」とあります。
 更に、「其の後アレキサンドルは某地に行きて佛語の教師となりしといひ、或いは櫻井一齋氏に招聘せられしといふも詳らかでない。」 とあります。砲術指南の先生から、歯科医師、外国語教師となり、パトロンも付きました。「明治十五年三月二日本邦で歿して法名を「法海直入信士霊位」と記して居るが、死亡地は詳らかでない。尚アレキサンドルは在邦中ハナといふ女性と同棲してゐた。」
 何だかドラマになりそうな人生を歩んでいます。
ギュリツキ(Theodora W. Gulick)医師は米国人です。明治 12 年に来航して来て、横濱でわずかな期間開業後、神戸に移り開業しています。齒科醫事衞生史の本一冊で、結構、想像を膨らませて楽しむことが出来ます。










横浜歯科医師会館の碑(2012年7月23日撮影:碑は会館の前に全て集められました)

歯塚(横浜市鶴見区鶴見2丁目)

 鶴見大学の校内と言うか、総持寺の境内に入る道路の入口付近に、歯塚があります。右側の小さい碑ですので、見落としてしまいそうです。鶴見大学は歯学部があり、神奈川県歯科医師会が1965(昭和40)年に歯塚を建立しました。歯科医療の大切さを、多くの人に知って欲しいと言うのがこの塚の趣旨で、例年、供養を歯科医師会と鶴見大学歯学部の教職員、研修医、学生で行なっています。鶴見大学は総持寺が母体ですから、供養はお手の物です。
 この碑の脇に、背丈が歯塚の倍ほどもある碑が建っています。これは、毎日新聞販売店主物故者の慰霊碑です。毎日新聞を支えてくれる販売店主が鳴くなる亡くなると、この慰霊碑に合祀され、追悼法要が行われています。




歯塚(2005年7月24日撮影:総持寺の参道途中にあります)