大丸用水編
今も残る江戸時代の用水遺跡
大丸用水は、幾つもの支流が存在しますが、殆どが稲城市と川崎市にあります。用水と言えば、二ヵ領用水が有名ですが、この大丸用水もなかなか趣のある用水です。ここ10年来、仕事の関係で稲城市の南多摩付近に訪れることが多く、現場で目にすることあったため、興味を持ちました。
稲城市の観光案内では、「大丸用水は、稲城市大丸の多摩川から取水して川崎市登戸まで流れる用水で、江戸時代以降、稲城市域の村々及び下流の村々を潤す大変重要な農業用水として維持・管理されてきました。用水の開削時期については、明確な史料はあリませんが、江戸幕府の年貢の増収を目的とした大規模な治水・利水政策の一環として、17世紀頃につくられたと考えられます。(中略)
また延亨3年(1746年)の古文書(川崎市・佐保田家文書)によると、元禄12年(1699年)以来大丸用水組合による修繕資材の負担が行われていたことが記されていますので、少なくともその成立が17世紀まで逆上ることは間違いありません。」(-江戸時代の歴史を中心として-)とありますので、仕事の関係でよく見かける、菅堀を辿ってみることにしました。
取水堰(東京都稲城市大丸)
二ヵ領用水の取水堰(二ヵ領上河原堰堤)から、約6キロ㍍ほど上流に大丸用水の取水堰があります。取水口は残念ながら管理棟や鉄柵があり、立ち入りが出来なかったので、対岸からやや望遠で撮影してみました。コンクリートの堰板を上下させて水量を調節しているようです。対岸はバーベキュー場になっています。驚いたことに、水が淀んだ上流側で、サーフボードでパドリングしている人がいました。岸には連れと思われる方が待機していましたが、事故でもあったら大変ですが。
取水口から多摩川に沿った堀は、殆どが暗渠になっていました。一部は避溢(ひえつ)水路と思しきものがあり、金網で防護された堀として残っていました。余剰の水はまた多摩川に戻されています。
多摩を渡る南武線の土手のところで、隠されていた水路が現れます。水路はサントリーの工場の脇を通り、南武線南多摩駅の北側を通ります。途中の河岸段丘の擁壁に、「三沢川分水路」の銘がありました。多摩ニュ―タウン地域の雨水を、多摩川に流すためのものだと聞いています。
取水堰(2014年10月17日撮影:手前の土手の内側に取水口があります)
川の中央に魚道が・・・
近くには是政橋があります
取水堰(2014年10月19日撮影:対岸から。魚道には白鷺や鵜が集まっていました)
取水堰(2014年10月19日撮影)
皆でバーベキュウ取水堰(2014年10月19日撮影)
楽しそうです取水堰(2014年10月19日撮影)
お気楽なサーフボーダー取水堰(2014年10月19日撮影)
多分、避溢水路(2014年10月17日撮影:遊水地的な用途でしょうか)
三沢川分水路の標識が・・・(2014年10月17日撮影)
貨物線の橋の袂あたりで出てきます(2014年10月17日撮影)
南武線の土手に沿って用水は曲がっていきます(2014年10月17日撮影)
菅堀(東京都稲城市大丸)
菅堀は200近く存在する大丸用水のうちの、比較的長いものです。国土交通省関東地方整備局の資料では、「大丸用水は、稲城市大丸の取水口から多摩川の水を取り入れて、川崎市登戸まで流れる多摩川右岸側に位置する用水で、9本の本流と約200本の支流を合わせた総廷長は70キロ㍍に及びます。」とありますので、菅堀は本流の一つだと思います。
取水堀は今の南武線の南多摩駅の北側に位置しており、用水と谷戸川が交差するところに、江戸時代の土木の知恵である伏越によって、水路が保たれておりました。しかし、最近の南多摩駅周辺の市街化整備工事により、谷戸川とともに伏越は消滅してしまいました。
伏越跡(2012年11月13日撮影:手前が用水、コンクリート遺構が谷戸川伏越跡)
谷戸川の痕跡? 今はこれも無くなったかな(2012年11月13日撮影)
南多摩駅の東側に、大丸用水の分量樋があります。1:2の割合で堀が分割され、大丸村と他の村、部落に用水が分配されていました。今もこの遺構は残っています。
稲城市の「大丸用水-江戸時代の歴史を中心として-」では、「取入口は、大丸の「一の山下」(現在の南武線多摩川鉄橋のやや上流)にありました。多摩川に長さ約100間(約182㍍)の取水堰を築き、ここでせき止められた多摩川の水は横幅二間(約3.6㍍)の用水圦樋(いりひ)(用水を引き入れるための水門の樋)から取リ入れられました。取水された水は、まずうち堀を通って分量樋へと向かいます。分量樋は、大丸村用の用水と他村用の用水を分けるために付設された樋で、堀幅は大丸村用1に対して他村用2の割合に分けていました。ここで分水された大丸村用の用水は大堀と呼ばれ、大丸村の南部を潤したのち長沼村・矢野口村を流れ、さらに川崎方面に向かいます。」と記述され、当時の村民には、この水量の確保が死活問題だったのでしょう。
南多摩駅 この東側に分量樋跡があります(2012年11月13日撮影)
分量樋跡(2012年11月9日撮影:用水幅が1:2になっています)
左側のコンクリートの堰が分量樋(2012年11月9日撮影)
ここから道路一本わたると、用水の上に小さな公園があり、藤棚が美しく地域の住民の方が、手入れされていると聞いたことがあります。
藤棚(2014年10月17日撮影:橋の上が憩いの場です)
更に進むと、大丸親水公園に入っていきます。そこには円形の淀みが造られています。周りは水田地帯で、折しも稲刈りの真っ最中でした。(続く)
大丸親水公園(2014年10月17日撮影:サークル内に鯉が集まっています)
何とも牧歌的です(2014年10月17日撮影)
何の碑かよく判りませんでした 昭和45年5月建立 土地改良に携わった人達を讃えてます(2014年10月17日撮影)
菅堀(東京都稲城市大丸)
菅堀を矢野口駅方面に辿っていくと、大きな柳の木が見えて来ます。これは大丸親水公園の中にある遊び場です。子供が用水に近づかないように、一応柵がしてあります。先ほどとは異なり、今度は反対側の岸に、円形の淀みが造られています。
大丸親水公園(2014年10月17日撮影:水田の近くに住宅が並んでいます)
大丸親水公園(2014年10月17日撮影:公園は堀が巡っています)
稲城市の観光案内「-江戸時代の歴史を中心として-」では、「大丸用水を使った地域は、江戸時代には稲城地域の4村(大丸村・長沼村・押立村・矢野口村)と川崎地域の5村(菅村・中野島村・菅生村・五反田村・登戸村)でした。これらの村々は、橘樹郡と多摩郡という二郡にまたがり、支配領主も異なっていましたが、大丸用水を利用するという点では一致しており、「大丸用水九ヶ村組合」を組織していました。」と記されています。「大丸(おおまる)」という地名は、この仕事に携わる前には、聞いたことがありませんでしたが、それ以外は、殆どの村が聞いたことがある名前です。
現在大丸地区は、梨や、葡萄の果樹園が盛んなところで、今でもこの用水を利用しています。しかし、このあたりも市街化が進んできており、住宅が多くなってきました。いきおい、生活排水や雨水のための排水溝が必要になります。排水溝が用水を跨ぐときは、このような懸け樋で対応しています。ちょっと珍しい風景です。
横断する懸け樋(2014年10月17日撮影:増水したときが心配です)
大丸用水の水位と道路との高低差はほとんど無く、夜などうっかりすると踏み外して、堀に落ちてしまいそうです。そして至る所に分水樋が存在し、無数の支流が出来ています。家の脇を通る溝のようなものから、大きな川のようなものなど、大小様々です。
分水樋(2014年10月17日撮影:当新田の近く)
そうこうする間に、雁追橋跡に着きました。脇の碑文には「江戸時代の頃に、この近くに、大変美しくて、気立てのいい女の人が住んでいました。この人は御殿女中と言って、江戸幕府の中で働いていた人でしたが、どんなことがあったのかわかりませんが、この地に移り住んでいるのでした。近所でも評判の美しい人でしたので、村中の男たちは、キュウリができたり、ナスができたりすると、こぞって持って行きました。なんと仲良くなろうと思ったのでしょうが、大変貞淑な人だったので、男たちはすぐに帰されてしまいました。このころの稲城には、多摩川のほとりにたくさんの雁が来ていました。村人たちはこの雁にたとえて「雁と同じように男たちが集まってくるが、すぐに追い返されてしまう」と言って、うわさをたてました。女の人は長くこの地に住みましたが、そのうちに「雁追婆さん」と呼ばれるようになり、橋の名前にもつけられたのです。今では雁の姿もほとんど見られなくなってしまいました。」と「稲城の昔ばなし」の逸話が記されています。晩年の姿まで書かれてしまうと、なんだか寂しい話に感じますね。
雁追橋跡(2012年11月9日撮影:橋が架かるほど大きな川は無いようですが)
ここまで、稲城市文化財地図(平成20年(2008)1月)を頼りに歩いてきました。その地図を見ると、近くに但馬稲荷神社がありました。そこで、少し、引き返しました。但馬新田のあたりに分水樋があり、長閑なことに鴨の夫婦が羽を休めていました。
用水の土手の丸石は、江戸時代からあるものなのでしょうか。多摩川から運んだとしても、大丸用水はおよそ200本の支流があるそうで、大量な丸石が使われていることになります。
分水樋(2014年10月17日撮影:但馬新田のあたり、石の上に鴨の夫婦が居ます)
鴨のお昼寝(2014年10月17日撮影)
但馬稲荷神社は大変立派な参道を持っています。お社はさほど大きくはありません。伏見稲荷大社が総本社で、宇迦之御魂神・倉稲魂命を祭ると、置石の脇の木板に書いてありました。
この割れた置石には句が彫ってあります。芭蕉の句碑だそうで、「此あたり目に見ゆるものは皆涼し」とありますが、割れていますので判別するのが難しいです。この辺りまで、芭蕉が来たのでしょうか。(続く)
但馬稲荷神社(2014年10月17日撮影:お社の場所は何か霊的な感じがします)
趣のある木板(2014年10月17日撮影)
句の掘られた置石(2014年10月17日撮影)
菅堀(東京都稲城市東長沼)
雁追橋から直ぐのところに、津島神社があります。面白いことに、上新田と下新田に津島神社と呼ばれる神社さんが存在し、縁起も祭神も全く同じです。御祭神は素戔嗚尊で、津島神社・稲荷神社の「合体社」だそうです。かつて水争いをした時に、相手の土地に神社があるとお祭りが出来ないから、同じ神社を作ったのだと、誰かが言っていたように記憶しています。
津島神社(2014年10月17日撮影:鳥居の奥に神社があります)
津島神社 扁額は「天王社」です(2014年10月17日撮影)
さらに用水を辿ってみると、「いちょう並木通り」を越えたあたりに、洗い場がありました。昔はもっと素朴なものだったと思いますが、今は整備されすぎて少し趣が足りません。
洗い場(2012年11月9日撮影:昔は野菜を洗ったりしたそうです)
菅堀はここから、稲城長沼駅の方に戻るように曲がっていきます。中島のあたりに来ると、「旧川崎街道」が通っており、その街道の三叉路には石塔群があります。石塔群は、道標、常夜塔、石橋供養塔、馬頭観世音、庚申塔が並んでいます。あまりにも何気なく建っているので、道祖神か、お地蔵様だと思って見逃しそうです。
川崎街道と道標(2014年10月17日撮影:石橋供養塔は大きいので目立ちます)
菅堀は住宅街を通ってきましたが、これからは畑地が垣間見える土地を通ります。農作業をされている方や、声を掛けているご近所の方たちの姿が、何ともほのぼのとしています。
やがて、橋のたもとに葎草橋碑が見えて来ます。石碑がそっぽを向いているのと、あまりにも地味な感じで建てられているので、見逃してしまいました。探し回った結果、ようやく草の中から石碑が見つかりました。
この石碑は、天保9年(1838年)に長沼、押立両村が、大丸用水の木橋を石橋にかけ替えことで、建てられたものです。
石碑の側面に「渠田川や多摩の葎の橋はしら、動ぬ御代の石と成蘭」と彫られています。また、傍らの看板には、江戸・八王子・川越・府中・小田原・大山・川崎・日光山の八方面の道標とされていたことが記されています。
葎草橋跡(2014年10月17日撮影:特に電柱が悪さをして隠しています)
葎草橋跡(2014年10月17日撮影:草が邪魔で見えません)
葎草橋跡(2014年10月17日撮影:特に電柱が邪魔でした
稲城市の「-江戸時代の歴史を中心として-」では、「菅堀は村の北都を迂回するような形で流れたのち押立村方面に向かって、喧嘩口(けんかぐち)と呼ばれる分水口でさらに三つの流れに分かれます。」と既述され、菅堀、北堀、中堀に分かれます。この分かれた堀はここで暗渠になりますが、稲城大橋につながる道路(地下道)では、セミシェルターの天井空気抜き部分で箱樋として現れます。
喧嘩口(2014年10月17日撮影:右が菅堀、左が中堀、さらに手前に北堀に分かれます)
喧嘩口(2014年10月17日撮影:中堀と北堀の分岐)
喧嘩口(2014年10月17日撮影:右が菅堀、左が中堀、さらに手前に北堀に分かれます)
喧嘩口付近(2014年10月17日撮影:稲城大橋地下道、箱樋が列をなして見えます)
菅堀をさらに矢野口のほうまで辿っていくと、ルネ稲城のマンション前で分かれます。しかし、分かれた先には、大丸用水としての記録がありません。多分、昭和の時代に梨畑か、葡萄畑に用いるために、新たに分岐させたのでしょう。菅堀は矢野口を過ぎると、豊堀につながり用水は消滅します。
矢野口付近分住宅前(2004年11月24日撮影:家を跨いで用水があり多少不安です)
矢野口付近分水堰(2004年11月24日撮影:前はここに「いなげや」がありました)
最近、稲城長沼駅の南側を流れていた新堀が、市街化整備工事により駅側に付け替えられ、古い用水は水が枯れた状態になっていました。江戸時代の遺構として石積みだけでも残らないものかと思っています。
水が流れていた頃の新堀(2012年11月9日撮影:家の前に用水がありこの橋が玄関です)