高島嘉右衛門邸跡編(2009年10月17日、2014年11月16日)
事業家と易学の達人の2面性の人
横浜はもともと海だったところです。今の横浜に発展させた人は、浅野総一郎、守屋此助、安田善次郎、大川平三郎などと数え上げられますが、埋め立て事業では高島嘉右衛門だと思います。今でも、地名に「高島」の名前が付いた場所が多くあります。2代目横浜駅のあった高島町とか、神奈川台場のあった貨物線の「東高島駅」とか、東横線の神奈川駅付近の隧道のあった高島台などです。
明治5年 高島代から見た埋立地
高島嘉右衛門は1832年12月24日(旧暦天保3年11月3日)に、遠州屋という材木店(父は薬師寺嘉兵衛)で生まれました。父親は結構辣腕家で、南部藩や鍋島藩のために働き、藩史に名前が残っています。幼少期は清三郎と言い、時の観相家、水野南北をして「九天九地の相である」と言わしめたそうです。父の稼業を継いだ清三郎は、父の名前、嘉兵衛も継ぎました。
注)中国の故事で九天とは、天を九つに分け、鈞天、蒼天、昊天、炎天、玄天、変天、陽天、朱天、幽天としました。九地は地底奥深くのことだそうで、孫子曰く「善く守る者は九地の下に蔵し、善く攻める者は九天の上に動く。故に能く自ら保ちて全勝するなり。」とかで、瑞祥の卦のようです。
その嘉兵衛は流星を見たとか、釡が鳴るとかで凶事を悟り、鍋島藩に借金をして材木を買い漁ります。その額、一万両、この当時から易学の素養があったのか、驚くべき洞察力です。直後に安政の大地震が1855年11月11日(旧暦安政2年10月2日)に発生します。死者20万人とも言われており、江戸の町は壊滅状態に陥りました。この時、嘉兵衛(嘉右衛門)は22歳の若さだったそうですが、恩義のある鍋島藩の屋敷の復興と、江戸の町の復興に尽力を付くし、得た利益は約二万両程だったと言います。
南部藩の江戸屋敷の工事も五万五千両で請負い、順風満帆に見えましたが石巻から運んだ木材が、台風の影響で深川の材木置場から海へ流出し、数万両の借金が残ります。何だか、乱高下の激しい人生です。その失意の中、1858年(旧暦安政5年)に横浜の開港に合わせ、鍋島藩お声掛かりの伊万里焼の店の経営を任す話が来ます。「肥前屋」という異人相手の店は、大変繁盛しました。
横浜では外国商人が商品を銀で買い、輸入品は小判で売りました。当時の小判は金の含有量が多く、銀貨とは等価交換ではなかったのです。それに気付き、当時の法には触れますが、小判を鋳潰して銀に変え大儲けをします。莫大な借金は返済できましたが、奉行所の知るところとなり投獄されます。
牢に繋がれた時代に、易経を再勉強します。1865年(旧暦慶応元年)にご赦免になった嘉兵衛は、高島嘉右衛門と名を改めり、横浜へ向かいます。
通訳に横山孫一郎という語学の達人を雇い、異人とのコンタクトをはかります。建築・設計を手掛け、イギリス公使館新築を皮切りに、異人館建設を行い、その利益、15万両に及びました。
また、「高島屋」と言う大旅館も立ち上げました。豪華な和洋折衷の大変格式のある旅館で、明治政府の高官や、外国公使が常連客となりました。この時に、西郷隆盛、伊藤博文、大隈重信、木戸孝允などと親交を結ぶようになります。その傍ら、彼らに国政についての易を占いました。易は商売にはしませんでしたが、非常によく先を見通す卦が出たそうです。
高島嘉右衛門は、彼らに鉄道の有用性を説きます。出来ればその事業をやらせてほしいと提案し、金の工面までしますが、鉄道敷設の事業は井上勝に命じられることになり、嘉右衛門には鉄道を通すための神奈川青木町から横浜石崎までの、入り江の埋め立て工事を命じられました。
嘉右衛門は、数千人の人夫を集め、高島台(大綱山山頂)に立ち、現場を見渡しては伝令を飛ばして指揮を取りました。厳しい工事でしたが、1872年(明治5年)5月に新橋、横浜の鉄道が開通しました。1870年(明治3年)には、藍謝堂(らんしゃどう:別名高島学校)と言う、敷地1万坪の広さの当時最大級の洋式学校を造ります。また海運事業にも手を出し、ドイツ貨客船を買い、「高島丸」としましたが、当時はアメリカの船会社が権利を握っており、残念ながら事業申請はおりませんでした。その後、岩崎弥太郎が軍事輸送を引き受け、大儲けしました。
ガス燈の事業にも手掛けるようになり、馬車道などに街路灯を敷設します。「日本最初のガス会社:横浜瓦斯会社」を創設し、後に横浜市に移管されます。
陸奥宗光県令に「高島町遊郭開設許可願」を出し、ここに港崎(みよざき:横浜公園付近)遊郭を高島町に誘致します。高島町遊郭も大繁盛でしたが、2代目横浜駅の近所でもあり、如何と言うこともあり、遊郭は真金町、永楽町に移されてしまいます。
隠居後は高島台に住み、易学の神髄「高島易断」を書き上げ、1914年(大正3年)10月17日に死去されました。
高島嘉右衛門邸跡(横浜市神奈川区高島台)
さて、駆け足で高島嘉右衛門の軌跡を追いましたが、詳しくは横浜開港資料館で詳しく調べることが出来ます。また、「写真が語る沿線 神奈川区編 №.11 横浜の交通・文化・商業の中心地だった神奈川地区」には、神奈川青木町から横浜石崎までの入り江の写真が残っています。
今回は、高島嘉右衛門翁の邸宅跡を探ってみました。
横浜の紅葉坂の坂下に、本町小学校(横浜市中区花咲町)がありますが、本宅があったところと聞いていますし、ここには日本初の瓦斯会社が嘉右衛門によって開かれたとこでもあります。伊勢山皇大神宮が近くにあり、藍謝堂もこのあたりにあったと、何かに書いてありました。
本町小学校(2014年11月16日撮影:旧校舎の門も近くに残されています)
本町小学校((2014年11月16日撮影)
小学校の旧門(2014年11月16日撮影)
次に事業を行う時に住んでいた、嘉右衛門の邸宅跡だった「馬車道十番館」(横浜市中区常磐町)に行ってみました。レトロなレストランで、ついでだったので食事もしてきました。建物の前に「牛馬飲水場」が残っているのでも有名です。この建物は勝烈庵の十番目の店と言うことで、この名が付いたと聞いていますが、道を挟んだところにある勝烈庵本店の前には、獅子頭共用水栓と「ハマの街燈点火の地」の碑が建っています。
近所の関内ホールには、日本最初のガス灯の碑が建っています。馬車道十番館の前や、この日の周辺は当時さながらにガスの燃焼による街路灯です。よく見るとランタンの中に、ホヤが付いているのが見えます。
馬車道十番館(2014年11月16日撮影:牛馬飲水場の他にも、電話ボックス、ベンチなどがあります)
勝烈庵本店は道路を隔てた反対側にあります(2014年11月16日撮影)
ハマの街灯点火の地の碑が店の前にあります(2014年11月16日撮影)
十番館正面(2014年11月16日撮影)
牛馬飲水場(2014年11月16日撮影)
十番館の看板(2014年11月16日撮影)
近くの関内ホールの前にガス燈発祥の地の碑があります(2014年11月16日撮影)
実際にガスを燃やして照明しています(2014年11月16日撮影)
高島台に行ってみます。高島台公園(横浜市神奈川区高島台)があり、望欣台の碑、弁玉歌碑があります。ここは別邸跡です。この近くの本宅からこれらの碑を持ってきたとも聞いています。この高台に陣取って、入江の埋め立て工事を監督した場所です。
面白いことに、この近くに「聖蹟」の碑が、周囲から隠すようにありました。どうやら関東大震災の時に、摂政殿下がご行幸され見舞われた記念のようです。
高島嘉右衛門の易に対する偉業「高島易断」を讃えた碑が、この公園から20~30歩ほどの住宅街の中に建っています。その碑から数歩のところに、元の屋敷跡である「かえもん公園」がありました。この公園はつい最近できたものです。
高島易断の碑(2014年11月16日撮影)
聖跡の碑 ここから神奈川台町の公園が良く見えます(2014年11月16日撮影)
神奈川歴史の道にも指定されている(2014年11月16日撮影)
望欣台の碑(2009年10月17日撮影:近くの高島邸より移設されました)
弁玉歌碑(2009年10月17日撮影:三宝寺の住職弁玉の碑です)
高島台からの眺望(2009年10月17日撮影:ここから埋立工事を指揮しました)
高島山公園(2009年10月17日撮影)
かえもん公園(2014年11月16日撮影:邸宅の敷地の大きさが判ります)
高島台の坂を下りると、旧東海道の道筋に、坂本竜馬の奥さんだったお龍さんが居た、旅籠「田中屋」が残っています。田中屋の歴史では「海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいました。その様子は、広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景にも描かれています。その絵をじっくり眺めますと、坂の上から三軒目に「さくらや」という看板の文字が読めます。これが、現在の田中家の前身です。(中略) 幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めてくれていました。月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客様に評判だったといいます。横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったということです。
龍馬からおりょうにあてた恋文が、今も田中家に残っております。」だったそうです。
広重「東海道五十三次」神奈川・台之景 参照田中屋パンフレット
お龍さん 参照田中屋パンフレット
田中屋さん