鶴見七福神  2013年1月4日



 鶴見七福神は平成23年1月から、趣旨に賛同する神社・仏閣を集めて、始まったということです。
 「七福神」めぐりは、徳川家康が広めた説があります。狩野探幽に七福神を描かせ、庶民に流布させました。天海僧正が「恵比寿は正直、大黒天は有徳、毘沙門天は威光、弁財天は愛敬、布袋は大量、福禄寿は人望、寿老人は寿命」を表し、敬愛することで七徳が身に着くと宣ったことによります。
 順番は熊野神社・正泉寺・鶴見神社・総持寺・東福寺・安養寺・松蔭寺に健ちゃん一家がご縁のある杉山神社を回ります。それと新しくなった鶴見の駅ビル「シャル」の屋上庭園(建功寺の住職、枡野俊明氏の庭園設計)を見に行きました。
 

鶴見七福神 巡り地図 2013年1月4日

 鶴見七福神の場所は、鶴見駅を中心として回れるようになっており、本来ならアテンドさんが付いて、故事来歴を聞きながらご利益を得るのが本筋だが、、うさお、Cacco、健ちゃんの3人は体力と耐力の限界から、車で移動することになりました。港北七福神はお寺さんのご住職や大黒さんが、自筆で奉加色紙に書き入れてくれましたが、鶴見七福神では既に印刷された奉加色紙にお寺さんや神社さんに用意されたご朱印を押すだけのものです。何か雰囲気が出ないことおびただしいですが、七福神廻りに行きました。
 
○熊野神社

 鶴見市場にある神社さんで、時折お祭りの時に前を通り賑わいのある処だなあと思いました。境内の駐車場は只かと思ったら、ちゃんと料金を取られました。
 祀られているのは、福禄寿様(道教の天南星道士)で木彫りの小さなお姿です。この時に幼稚園児たちも参拝しており、「わあ、可愛い!」とか言われて玩具にされなかったのは幸いでしたね。
 境内には、芭蕉の弟子の加舎白雄と大島蓼太の句碑がありました。
 

鶴見七福神 熊野神社の境内に植物が少ない 2013年1月4日

鶴見七福神 熊野神社本殿 2013年1月4日

鶴見七福神 福禄寿様 2013年1月4日

鶴見七福神 福禄寿様 ちいさっ! 2013年1月4日

 俳人、加舎白雄と大島蓼太が鶴見橋を詠んだ句碑です。
「朝夕や 鶴の餌まきか 橋の霜 白雄」
「五月雨や 鶴脛ひたす はし柱 蓼太」
 達筆すぎて読めないけどね。


鶴見七福神 俳句碑 2013年1月4日

鶴見七福神 富士山登拝記念碑 2013年1月4日

○鶴見神社

 せがれの初宮参りはこの神社さんです。夏のお祭りは盛大です。よく、子供の手を引いて出かけた記憶がありますが、覚えていないそうです。
 すぐ脇を京浜東北線や東海道線が走っており、列車騒音の喧噪のなかにある神社さんです。しかしながら、神社さんの歴史は古く、素晴らしい由緒があり、社格が高いと聞いています。
 裏に回ると火山岩で出来たミニ富士山が造られており、浅間信仰のお参りが出来るようになっています。浅間信仰とは、富士そのものを崇拝する信仰で、「あさま」とは火山を現す古語だとも言われています。
 鶴見神社に祀られているのは、寿老人。
 三島由紀夫が建立した「清明」の碑があり、何やら由来がありそうです。鶴見は文学的だなあ。
 

鶴見七福神 鶴見神社正面 2013年1月4日

鶴見七福神 鶴見神社拝殿 2013年1月4日

鶴見七福神 「献」熔岩塊 2013年1月4日

鶴見七福神 「奉」熔岩塊 2013年1月4日

鶴見七福神 境内にある大鳥神社 2013年1月4日

鶴見七福神 神社が並ぶ 2013年1月4日

 横浜市地域有形民俗文化財  寺尾稲荷連道標
                      平成十八年十一月一日登録
                      所有者 宗教法人 鶴見神社
                      時 代 文政十一年(一八二八)
 寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(現鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への分岐点にあった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に、移されたと思われます。昭和三〇年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行なった際、道標が埋没しているのが発見されました。
   正面には 「馬上安全 寺尾稲荷道」
   右側面には「是より廿五丁」
   左側面には「宝永二乙酉二月初午
         寛延三庚午十月再建
         文政十一戊子四月再建之」
 とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができます。
 寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。
   平成十九年三月      横浜布教育委員会


鶴見七福神 寺尾稲荷道の碑 2013年1月4日

鶴見七福神 浅間山 2013年1月4日

 この神社が並ぶ一角に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫と森田必勝を祀った清明宮があります。「清明」と三島由紀夫自身の筆で揮毫されています。
 三島由紀夫は鶴見銀座にあったバーに、よく呑みに来ていたそうで、その縁で鶴見神社内に清明碑が建立されたと言います。心情的右翼には堪らない土地柄です。
 元々の「清明」の揮毫は、奈良桜井市の狭井神社に贈られたものらしい。

 狭井神社の碑には、「誌 :三輪山信仰と大神神社の神事とを、本格的に、作品の主題との深い関わりにおいて書いてあるのは、三島由紀夫の『豊饒の海』第二巻「奔馬」(昭和四十四年二月)である。三島氏は、古神道研究のため、昭和四十一年六月率川神社の三枝祭に参列。ついで親友のコロンビヤ大学教授ドナルド・キーン氏と八月二十二日再度来社、社務所に三泊参籠した。二十三日、三輪山の裾山の辺の道を散策。二十四日、念願の三輪山頂上へ登拝。この日、お山を下りた後、拝殿で神職の雅楽講習終了報告祭に参列。感銘を受けた氏は、直ちに色紙に「清明」「雲靉靆」と認めた。後日、左の感懐が寄せられた。 
 大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります。又、お山へ登るお許しも得まして、頂上の太古からの磐座をおろがみ、そのすぐ上は青空でありますから、神の御座の裳裾に触れるやうな感がありました。東京の日常はあまりに神から遠い生活でありますから、日本の最も古い神のおそばへ寄ることは、一種の畏れなしには出来ぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へられましたことは、 洵にはかり知れぬ神のお恵みであったと思ひます。
 山の辺の道、杉の舞、雅楽もそれぞれ忘れがたく、又、御神職が、日夜、清らかに真摯に神に仕へておいでになる御生活を目のあたりにしまして、感銘洵に深きものがございました。

 ここに、三島由紀夫と三輪の大神様との御神縁を鑑み、作家三島由紀夫揮毫の「清明」記念碑を篤信家によって奉納建立する。
 平成十六年八月吉日     
                        大神神社社務所」



鶴見七福神 清明の碑 2013年1月4日

鶴見七福神 寿老人のお姿が見えない 2013年1月4日

○正泉寺

 このお寺さんは、健ちゃん一族の所縁のお寺さん。生麦ごん鉄(健ちゃん家)の寄進の書がありました。生麦にあるお寺さんで、漁師町のど真ん中にあります。漁師さんの海上安全を祈願したのでしょう。この辺りに駐車場が無く、うさおは車でお留守居番となりました。
 このお寺さんのご宗旨は真言宗智山派で、写真の中にも「南無遍照金剛」と書かれた経文が写っています。山号は南海山。
 さて、このお寺さんでは恵比寿神が祭られています。関西では「えべつさん」、出雲の国の神様が祭られています。
 小さな御像で判らないので、拡大すると宝船に乗って鯛を抱えていますけど、あら、お友達がいなくて、一人で寂しいね。
 うさおは車の近くで、ウロウロしていると「道念稲荷」の鳥居が見えました。参道もある立派な神社さんでした。
 

鶴見七福神 正泉寺境内 2013年1月4日

鶴見七福神 朱塗りの台座に鎮座する宝船 2013年1月4日

鶴見七福神 宝船の恵比須様 2013年1月4日

鶴見七福神 登山壱百度大願成就修業先達の碑 2013年1月4日

鶴見七福神 道念稲荷 2013年1月4日

鶴見七福神 稲荷社なので千本鳥居 2013年1月4日

○東福寺

 鶴見駅西口から線路に沿って横浜方面に走ると、花月園に至る山道があります。その中腹にこのお寺さんはあります。山号は子生山、真言宗智山派で正泉寺さんと同じだ。
 お正月だからか、山門には幔幕が張られていました。この山門には、仁王像が祭られています。阿吽の形相で睨んでいる処は圧巻です。
 このお寺さんの七福神は、毘沙門天です。
 毘沙門天はインドの神様で、ヒンドゥー教のクベーラ神です。ヴァイシュラヴァナが訛って、毘沙門天になりました。はて、福禄寿は道教の道士でしたが、寿老人も道教の道士で、一説には福禄寿の仮の姿とも言われており、南極老人と呼ばれています。恵比寿様は日本の神様、で、毘沙門天がインドの神様、宝船ってすげえ国際的だなあって感じです。
 

鶴見七福神 東福寺山門 2013年1月4日

鶴見七福神 金剛力士像阿 2013年1月4日

鶴見七福神 金剛力士像吽 2013年1月4日

鶴見七福神 東福寺境内 2013年1月4日

鶴見七福神 句碑の一つかな 安房と読める 2013年1月4日

鶴見七福神 毘沙門天様 2013年1月4日

○安養寺

 このお寺さんの辨財天は境内ではなく、山門の脇のお堂に祀られていました。
 山号は一到山、浄土宗のお寺さんです。
 この辨財天は福壽辨財天と呼ばれ、「近江国竹生嶋天女と同木にて弘法大師御作」と伝えられています。つまりは浄土宗のお寺さんに真言宗の寺佛は同列には祀れないということで、山門の外にあるのかも知れないな。もし、弘法大師が作られたものなら、数億の価値があるかもしれないぞ。
 辨財天は毘沙門と同様、インドの生まれでヒンドゥー教のサラスヴァティー女神です。言語や知識、蓄財の神様です。お姿には、弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、羂索を持つ武力的なものと、琵琶を持った音楽的なものの二種類があります。後者は「江の島」の辨財天が有名で、音楽を志す人がお参りしているそうです。
 残念ながら、このお堂の中を目を凝らしてみてみたけれど、辨財天のお姿はあまりよく見えなかった。須弥壇に仏画が掛けられていたが、何が描かれていたのかも分からなかった。
 

鶴見七福神  2013年1月4日

鶴見七福神  2013年1月4日

鶴見七福神  2013年1月4日

鶴見七福神  2013年1月4日

鶴見七福神  2013年1月4日

鶴見七福神  2013年1月4日

○杉山神社

 安養寺さんのすぐ近くに、このお社があります。
 この神社さんも健ちゃんの一族の「生麦ごん鉄」の所縁の地、お爺ちゃんが喜捨した石碑があるのだとか。七福神巡りの息抜きにお参りしました。
 そう言えば、鶴見神社も元々の名前は杉山神社でした。杉山神社という社名には凄い由緒があるのかな。
 そしてこれが、健ちゃんのお爺ちゃんの碑、「元講大先達 飯島久行桑山彰徳記念」と記してあります。後ろの石碑は富士山の山形に赤い紋で「一山」と書かれています。
 つまり、健ちゃんのお爺さんは、富士登山の町内の講の引率者だったんですね。
 この神社さんには、戦後五十年の記念碑の拝殿の天井に、戦没者の遺影が貼られており、数の多さに圧倒されます。
 杉山神社は五十猛神(素戔嗚命)を祀ってあり、鶴見川流域にだけ存在する地域限定の、正体不明の神社さんで、続日本後紀によると72社があったのだとか、マニアの中には、杉山神社巡りなるものが流行っており、全てを見て回ると大層なご利益があるらしい。また、杉山神社は狛犬の種類が多いことでも有名です。


鶴見七福神 杉山神社参道入口 2013年1月4日

鶴見七福神 この階段をふうふう言いながら登る 2013年1月4日

鶴見七福神 階段途中の石碑「生麥」 2013年1月4日

鶴見七福神 参道修復記念碑 2013年1月4日

鶴見七福神 大先達(山登り案内人)の碑 2013年1月4日

鶴見七福神 漸く頂上に着きました 2013年1月4日

鶴見七福神 杉山神社本殿 2013年1月4日

鶴見七福神 健ちゃんの御祖父ちゃんが建てた碑 2013年1月4日

鶴見七福神 戦没者額 7名の飯島姓がある 2013年1月4日

鶴見七福神 写真が飾られているお堂 2013年1月4日

鶴見七福神 画筆塚 2013年1月4日

鶴見七福神 ここにも道念社がある 2013年1月4日

○松蔭寺

 先代のご住職は、歯科医だった叔母さんの患者さんだと聞いています。
 このお寺さんは、臨済宗建長寺派で鎌倉時代に開祖したもので、山号は仙鶴山です。いかにも、鶴見らしい処で東寺尾に位置します。もともと寺尾という地名は、この松蔭寺さんを中心に、寺域のはずれという意味で付けられたのだと、ご住職の弁です。寺尾は東、西、北はあるが南はありません。何故でしょう。
 七福神としては布袋様が祀られております。石造りでお庭に雨ざらしで置かれております。恐れ多いことでございます。
 布袋様は中国の禅宗のお坊さんで、実在した人物と聞いています。中華街のお祭りには、この布袋和尚(布袋尊)の被り物をした人がで街を練り歩いています。中国では身近な親しみのある聖人なのでしょう。松蔭寺さんのご本尊は、釈迦如来だそうです。
 本堂の脇にある小さなお堂(祠?)に、これまた雨曝しの仁王尊が立っています。可哀そうなことに、片腕が朽ちて無くなっています。
 この像はもっと文化財として、保存されるべきなんじゃないかなあ。ミルキーに頼んで、補修をしてもらい、この祠の中に入れてですね。
 お堂を護るという元々の目的と言うことからは、外に居るのが正しいんですけどね。このお寺さんから見えるのは、馬場町にある水道塔ですが、丁度、三つ池にある電波塔が重なって「角」があるように見えます。


鶴見七福神 相模の國 最古の松陰寺 2013年1月4日

鶴見七福神 鐘楼 2013年1月4日

鶴見七福神 布袋様 2013年1月4日

鶴見七福神 侘びのある義尭入道尊 2013年1月4日

鶴見七福神 片腕の無い仁王尊 2013年1月4日

鶴見七福神 こちらも朽ちているのが寂び 2013年1月4日

鶴見七福神 放射状が神秘的 2013年1月4日

鶴見七福神 串刺し馬場町の水道塔 2013年1月4日

○総持寺

 除夜の鐘が鳴り響く中、毎年、年初めをしに出かけているお寺さん、禅宗の曹洞宗の大本山であり、諸嶽山總持寺と言うのが正式なお名前。
 大晦日の晩に来ると、この大伽藍(香積台)の売店で甘酒を売っています。参道のところに香具師達の屋台があり、そこでも甘酒は売っているが、そこは喧騒の中。静かな環境で甘酒を啜りながら除夜の鐘を聴くのだ。
 その総持寺で祀っているのが、大黒様だ。大黒天とも称されますが、元はヒンドゥー教のシヴァ神の化身だそうで、シヴァ神?あのなんだか不気味な神様?破壊の神のマハーカーラ神とも言われていますが、その一方で出雲の国の大国主命だとも言われています。音読みするとダイコクって読めるからだそうだけど、一体、その正体は誰なんでしょう?
 大黒天は食物と財産の神です。
 総持寺の大黒天は身の丈、180pほどの大きさで関東一の大きさを誇っています。
 玄関にある大黒様ではなく、この奥院にある大黒様が凄く大きいのだ。漸くこっそり写真を撮ったのが2019年のこと。世にも恐ろしいお顔をしています。まじ、ビビります。
 比較的新しい民謡で、南部俵積歌と言うのをご存知でしょうか?合いの手が「コラッ」と言う、いつも怒られているような歌です。
 「ハアー、春の初めに、この家(や)旦那様は、七福神がお供して、俵積みに参りた。ハアー、この家旦那様は俵積みが大好きで(コラッ)、お国は何処かとお聞きある。私の国は(ナア、コラッ)、出雲の国の大國神、日本中の渡りもの(コラッ)、俵積みの先生だあ・・・」と唄われており、この縁起歌にも七福神は入っています。


鶴見七福神 総持寺三門 2013年1月4日

鶴見七福神 香積台 2013年1月4日

鶴見七福神 右側に布袋様 2013年1月4日

鶴見七福神 左側に大黒天 2013年1月4日

鶴見七福神 総持寺の大黒天 2019年1月4日

鶴見七福神 境内の中 2013年1月4日

鶴見七福神 トイレの間にある阿修羅のような像 2013年1月4日

 で、何だかんだ文句を言いながら、やじきた道中を進めて確保した「鶴見七福神」の色紙がこれです。あらかじめ印刷された文字の上に、お寺さんや神社さんで用意された印を押すだけ。港北七福神と比べると、何だか味わいが少ない気がします。お土産の七福神の土偶も付いていないし。


鶴見七福神  2013年1月4日

○鶴見の駅ビルシャル

 馬場町にある建功寺さんのご住職、枡野俊明氏が設計した屋上庭園を見たいと健ちゃんが提案してきました。リニューアルしたばかりの鶴見駅ビル「CIAL鶴見」に行ってみました。東口界隈は、この「CIAL鶴見」と地区公会堂、ホテルになっており、猥雑な街が綺麗に様変わりしています。
 鶴見を離れて15年程になります。東口は長いこと住んでいたところ、昼は官庁街、夜は風俗街のような街でしたが、やはりホームグランドの落ち着ける街です。鶴見を離れる機会にうさおは転職します。別に何の意味もありませんが。
 枡野俊明氏は日本庭園の造園作家で寺院や東急ホテル、海外のモニュメントなど、数多くの作品を手掛けています。「CIAL鶴見」には屋上庭園と、禅カフェ「坐月一葉」(どのような意味かな)があります。禅カフェってなんだろう。定期的に法話と座禅の会が開かれているようだ。紅茶や珈琲とは、」、どうも合わないような感じがするけど。
 屋上庭園のコンセプトは、「枯山水」。1月とあってちょいと寒かったですが鶺鴒が遊びに来ておりました。


鶴見七福神 シャル(鶴見駅ビル) 2013年1月4日

鶴見七福神 屋上庭園 清風苑 2013年1月4日

鶴見七福神 ウッドデッキと石庭 2013年1月4日

鶴見七福神 屋上とは思えない風情 2013年1月4日

鶴見七福神 都会なのにセキレイも来ます 2013年1月4日