前回の小名木川界隈の散策で、清州寮と東京海洋大学に行ってきました。2012年4月30日のことです。

清洲寮(東京都江東区白河)
 小名木川を辿っていく途中に、清洲寮がありました。清洲橋通りに面しています。古さは感じますが、良くメンテナンスされている建物です。つまり、老朽化を感じさせない建物です。
 古建築のマニアの間では、同潤会アパートが持て囃されていますが、それに匹敵する昭和の集合住宅だと思います。
 同潤会アパートは近年、取り壊されており、残っているものは少なくなりました。しかし、この建物は住んでいる方の愛情が感じられるので、あと20年くらいは残るのではないでしょうか。
 1933(昭和8)年に大林組の設計・施工で造られました。鉄筋コンクリート4階建(総戸数66戸)で、長さ70㍍ほどですので、当時としては大型で、豪勢なものであったろうと思います。
 すぐ裏手に、霊巌寺という浄土宗の関東十八檀林の一つとして、有名なお寺さんがあります。このお寺さんは元は霊巌(岸)島にありましたが、明暦の大火で焼失し、隅田川を跨いだ清澄白川に移ってきました。
 霊巌島と言えば、落語の「宮戸川」という話の中に出てきます。半七は将棋に夢中になり遅くなってしまいます。町内の木戸も締まってしまうので、叔父さんの家に泊めてもらおうと差し掛かると、幼馴染のお花がやはりカルタ遊びで遅くなり、一緒に叔父さんの所に泊めて欲しいとせがまれます。 
 早合点の叔父さんに、お花を引き合わせれば恋仲と勘違いして、万事飲み込んだ任せておけ、悪いようにしないと言いながら、二人を添わせようとするから嫌だと断りますが…。
 この叔父さんが住んでいたところが、霊巌島でした。話が長くて申し訳ありません。ちなみに、宮戸川は今の隅田川のことです。


清洲寮(2012年4月30日撮影:カーキ色の外観でまるで魯山人風の料亭のようです)

清洲寮(2012年4月30日撮影)

清洲寮(2012年4月30日撮影)

清洲寮(2012年4月30日撮影)

清洲寮(2012年4月30日撮影)

清洲寮内部(2012年4月30日撮影:木製の引き戸の玄関で、二階の標識もレトロです)

旧東京市営店舗向住宅(東京都江東区清澄)
 この建物は、ちょうど清住公園の東側の裏手にあります。1928 (昭和3)年に建てられたもので、設計は東京市、鉄筋コンクリート造2階建です。関東大震災後の復興事業の一環で、清澄通り沿いに建てたものです。これも先ほどの清州寮と同様に、80年は経っている建物です。東京市は再び震災で崩壊、火災が及ばないように、鉄筋コンクリートを用いました。
 6軒がひとつとなった建物が、5~6棟くらい並んでいます。太平洋戦争の戦火にも遭わなかったので、今に残っているのでしょう。そうは言っても、清澄公園側の裏側を見ると、非常に老朽化しているのが判ります。建物には昭和初期のアールデコの様式が残っているのですが、それがかえって侘しさを感じます。


清澄(2013年5月5日撮影:清州機公園の東側にあります)

清澄(2013年5月5日撮影)

清澄(2013年5月5日撮影)公園側から見るとこんな感じ

東京海洋大学(東京都江東区越中島)
 小名木川から少し離れた、清澄公園の近くの東京海洋大学に行ってみました。東京海洋大学は、私立三菱商船学校(1875年(明治8)年11月設立)と、大日本水産会水産伝習所(1888年(明治21)年設立)が合併して、国立大学になったものです。商船学校は、当初霊巌島にあり、そこに係留された成妙丸を校舎としていました。話が何となく霊巌島で繋がってきました。水産伝習所は越中島にありました。今回は越中島の東京海洋大学を見てきました。


海洋大学(2012年4月30日撮影)

海洋大学(2012年4月30日撮影)

第一観測台(経緯儀室または赤道儀室):八角形二階建煉瓦造 建坪八坪六合
 学舎の中には、レトロな建物があり、その看板には、「1903(明治35)年1月、霊巌島校舎より越中島新校舎に移転した後の施設充実の一環として、明治36年6月に建設され、航海用天体暦の研究用および航海天文学教授用として使用された記念建造物で、内部には、当時としては最新鋭の東洋一といわれた7吋天体望遠鏡(Theodolite)を備え、望遠鏡は分銅式によって天体の運行に等しい速さで回転するようになっていました。屋根の半円形ドームは手動で360度の回転が可能であり窓は二重になっていました。 昭和の初期までは時折り授業にも使用されたが、1935(昭和10)年頃以降は学生の同好会天文部部員の手により、天体の観測に利用されていました。
 1945(昭和20)年終戦直後、校舎を米進駐軍に占領された後内部施設も撤去され、現在は望遠鏡の台座が残っているに過ぎないが、輸入煉瓦造りの八角形の建物は貴重なものとされている。(原文のまま)」とあり、歴史的価値があるものです。


海洋大学観測所(2012年4月30日撮影:第一観測所)

MASTER MARINEの石碑

 第二観測台(子午儀室):八角形平家建煉瓦造 建坪八坪六合
同じく看板によると、「1904(明治36)年6月第一観測台とともに建設され内部には子午儀(Transit)を備え、天体の子午線通過時別を精密に測定して精確な経度の測定をすること、およびその時の天体の高度から緯度を測定することなどが出来た。昭和20年終戦直後、校舎を米進駐軍に占領された後、内部施設も撤去され、現在は台座のみであるが、八角形の建物で輸入煉亙造りの現存する建物として貴重なものとされている。」と記されており、小じんまりとした角塔は、可愛らしく感じます。
 測量をされる方は、セオドライト、トランシットは、馴染みのある測器ですが、元はどうやら同じものを指すようです。日本ではトランシットは、特別な用途の測器として扱われています。


海洋大学観測所(2012年4月30日撮影:第二観測所)

 この大学内には、明治丸と言う燈台巡視船があります。この船は重要文化財です。英国ネピア造船所で造られ、1875(明治8)年に横浜に着きました。しかし、この船の性能が優れていたため、燈台巡視船よりは、明治政府の政治的な目的に使われます。
例えば、小笠原諸島の領有するために日本政府調査団を運ぶとか、日朝修好条規締結を促すために、日本艦船の対馬基地に石炭を運ぶ示威行動とか、朝鮮壬午事変では高島陸軍少将が乗船し、軍艦4隻を連れて仁川に入港しました。
 1887 (明治20) 年からは、燈台巡視船としての本来の活動をしますが、9年ほどで商船学校へ譲渡されてしまいました。係留帆船となり、甲板整備などの学生たちの練習に使われました。今は陸上に置かれ、やはり訓練に使われています。ですが、大しけの時でも揺れないので、船酔いは起きません。 


海洋大学明治丸(2012年4月30日撮影)

海洋大学明治丸(2012年4月30日撮影:年に何回かは一般公開されていますので、今度はぜひ行きたいな。)