今回は小名木川界隈の散策です。2012年4月30日のことです。
諸兄姉には「閘門」と言うものをご存知だろうか。あのパナマ運河やスエズ運河で有名な、水位差のある運河で二つの堰を設けて段差を解消し、船を航行させるものだ。
例えばこの図の運河で、下の水門を開けて船を進入させ、閉切ってから水位を上げ、川の水位が等しくなったところで上の水門を開け船を通すものだ。手間は掛かるが結構な水位差のある川でも、上り下りが出来ます。
こんな閘門が昭和の初期に造られ、その遺構があることを耳にし、東大島の閘門跡を見てきました。
今回は「旧小松川閘門跡」、「扇橋閘門」、「東京海洋大学」にターゲットを絞り、運河巡りをしました。うさお的には、荒川と隅田川を結ぶ運河に水位差があるなんて思いもしませんでした。
あんまり乗り慣れない首都高速7号小松川線で小松川に一直線。
長いこと横浜に暮らしているので、東京については良く判りません。
首都高は1号線と3号線はよく使っていますが、他の線は何処で降りたら良いのか、出口を見逃してしまいます。ナビを見ながら出口ランプを見落とさないよう、どきどきしながら走行、取敢えず無事到着。
「旧小松川閘門跡」があるいう大島小松川公園の周りをぐるぐると廻ってみます。
あれ、駐車場が無いなあ。東大島駅にコイン駐車場があったので、そこを利用。
ついでに団地の喫茶店でモーニング・ブレイク。休みを取るのが早いぞ、Cacco。渋いうさお。
東大島駅
団地内のお洒落なトイレ
団地内の喫茶店
こんな大きな団地なのに、ショッピングモールはこのあたりだけらしい。
この団地の方々は、旧中川という運河を渡って、「大島8丁目」方面で買い物をするらしい。「Aeon」とか「○○バーガー」とかの単語が、すれ違う人の会話の中に聞こえてくる。
スパゲッティも食べちゃった二人は、お腹パンパン。
この東大島団地には、奇特な方が居て入口にスカイ・ツリーの模型が飾ってあります。まだ、本物はオープンになっていない4月の時期ですが、とってもタイムリィーだったよ。ちょいと小高い所に行くと、本物も見えるし素晴らしいところでした。
団地の入り口のスカイツリー
大島小松川公園より
この団地に住んでいる子供たちはきっと大喜びだなあ。このまま、夏休みの共同研究ってことで出せば、何か賞が取れるぞ。
さて、大島小松川公園ですが、時期もよく色とりどりの花が咲きそろい、緑も鮮やかな処でした。
このあたりは0m地帯なので,盛土をして小高くし、地震や津波のときに備える公園なのでしょうか。
テクテクと丘の上まで歩いていきましょう。
公園の登り道
小名木川が望めます
後で調べてみると、NHKの「ブラタモリ」でもこの運河を紹介していました。ブラタモリはNHKの力を借りてどこでも行けちゃうのが、悔しいなあ。
なんだ紹介してたのかあ~。
でも、「旧小松川閘門跡」は紹介していなかったと思うぞ・・・。ここが今日の主役です。
丘を昇りきると直ぐにこの遺構が見えてきます。両側に閘門を支える構造体があり、それをつなぐ形で閘門の上に通路があります。閘門の本体そのものは、土中にあるとのことで見ることは出来ませんが、この頃の土木構造物は意匠が凝っていて、とにかく素晴らしいものです。
旧小松川閘門跡
国土交通省と東京都の通達には、以下のことが書かれています。
「この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。
川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。
ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となりました。
この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、舟の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、需要な役割を果たしました。本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。
また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。」
ヨーロッパのお城のようじゃありませんか。このフェンスは邪魔ですね。
中に入りたいなあ。あの回廊のようなところを歩きたいなあ。
このあたりの川は、満潮時には海水が入り込んでくるので、コンクリートが剥れている箇所が見受けられました。鉄筋が錆びると膨張して、その力で周囲のコンクリートを押し出して、爆裂しちゃうんです。
可愛い子も居ましたよ。ほらね、黒っぽい顔しててね、お公家さんのように、眉毛がてんてんとして、凛々しいですよ。
まだ若いから、ぴょんぴょん跳ねるようにして歩くんですよ。
次は、江東区中川船番所資料館に行って見ました。公園を出て目の前の旧中川を渡った処にあります。
資料館の前の東屋のような処が、船番所だったようです。江戸時代はもっと水際にあったようですし、低い処だったようです。
中には昔の船番所を再現したジオラマっぽいのがあって、お金が掛かっている感じで、流石,東京都はお金持ちだなあ。
これだけ立派な建物でも、この中には喫茶店の一つもありません。って言うか、お客さんが居ません。夏休みにですよ。人気がありませんね。やはり、タモリに来てもらうのも必要かも…。
年配の男性の方が一人、このあたりの好事家なのでしょうか、丹念に遺物や文献を見ておりました。
写真を撮ってはいけないところで、私たちは、ストロボをボキュン、ボキュン(擬音です,あとチャージの時のキューって音も付きますね。)焚きまくっていました。もちろん私たちは、この方に顰蹙を買っていたと思われます。
中川船番所資料館外観
昔の船番所を模した公園の東屋
小松橋は新扇橋閘門の脇にある橋で、これもリベット・トラス橋で年代を感じさせるものです。この橋から、閘門を覗くとなかなか迫力があります。
こんな風に見えます。川の中に信号機があって踏切のような雰囲気です。
ここは橋と閘門が近いので、閘門の仕掛けが手に取るように判ります。
にょきっと伸びた操作場が、ここは普通の橋と違うんだぜ、ワイルドだろうってなことを言ってそうです。
じゃあ、廻って前扉のほうに行って見ますか。
トコトコ歩いていくと、小さな公園があります。入ってみるとよく見えます。
何だかこんなところで働きたい気分だ。見晴らしが良くって気分がいいだろうなあ。ちょいと大地震の時の津波が心配だ…。まあ、それも人生かな。
うさおも残りの人生が、ぼんやり見えてきたので、こういう職場でもいいな。閘門事務所の前にお住いのお爺さんが、超高級なカメラをお持ちで、東京スカイツリーと桜の写真を大量に見せてくれました。
さて、前に回ってみると、ちょうど閘門を潜って船が出てくるところでした。ラッキーでした。
閘門が上がっていくところは圧巻です。
丁度、閘門が開きました
新扇橋は小松橋とそっくりです。
ここは昭和52年に作られていますので、遺構としてはやや若いと言えます。もうあと20年も経つと、程良く歳を取って、くすんだ色合いになるでしょう。
「扇橋閘門」の説明文には、「江東区は、東側が地盤が低く西側が高い地形になっています。そこで昭和46年策定の江東内部河川整備計画では、東側を常に水位を一定に保つ水位低下区域としてまた西側の感潮部を耐震区として整備をすることになりました。
この閘門は、両区域の接点に当たる小名木川の中間に位置し、水位差を調整して舶の航行を可能にするための施設です。30億円の事業費と5年3ヵ月の歳月を費やして昭和52年に築造されたものです。この方式は,パナマ運河と同じです。」と書いてあります。耐震区って何でしょう?雰囲気は理解できますが、良く判りません。
また、職人や倉庫の町なのか、「民営機械製粉業発祥の地」の碑も、橋の袂に作られています。ここの脇を通って川沿いの遊歩道に降りることができます。
ここに至るまでにも、Caccoはきょろきょろと一休みできる喫茶店を探していた。昭和を未だに引きずっている喫茶店「ポルシェ」。名前からレトロじゃん。メニューもハンバーグにナポリタンスパゲティ。釣瓶落としの陽を気にしながらまだ次があるんだよなあと思いつつ、同潤会風レトロ住居と東京海洋大学のキャンパス、月島のもんじゃ焼きの話はいつか詳説しようと思います。いや、暑くて疲れちゃいました。
お店の入り口
東大島閘門編