大井町から品川へ (2007年8月25日)

 前回は大井町駅に近接するJR東日本総合車両工場を中心にご紹介しました。
 しかし、うさおの記憶では以前に説明し終わったと思い込んでいました。あれっ、そうでしたっけと思いながら、紹介します。認知症か、うさおは。


大井町から品川へ  大井町駅からゼームス坂へ (2007年8月25日)

 まずは一休みした喫茶店から出発です。ゼームス坂を目指して下っていきます。何の変哲も無い普通の街並みです。
 坂道にもゼームス坂と記してあり、何やらお洒落に見えるせいか、色々な建物の名前にこの坂の名前が使われておりました。


大井町から品川へ  ここがそのコーヒー店 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  喫茶店「ポットリー」店内 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  大井町駅からゼームス坂へ (2007年8月25日)

大井町から品川へ  こんな街並みです (2007年8月25日)

 ゼームス坂に辿りつくと、三越ゼームス坂マンションの入り口にひっそりと碑文がありました。
 このマンションは英国人ジョン・M・ジェームス邸跡地だとか。
ゼームス邸跡地について
 此の処は南品川英国人ジョン・M・ジェームス邸跡地である。
M・ジェームスは慶応二年二十八歳の時来日した。そして坂本竜馬等とも知り合い後に日本海軍創設に貢献し明治五年海軍省雇入れ以降幾多の変遷を経て住いを此の地に構え隣人に慕われつつ明治四十一年七十歳にて没した。墓は身延山本道裏山に在り「日本帝国勲二等英国人甲比丹ゼームス之墓」と刻まれている。(以下略)・・・ 更に歩を進めることとしましょう。


大井町から品川へ  三井ゼームス坂マンション (2007年8月25日)

大井町から品川へ ゼームス邸跡地の碑文 (2007年8月25日)

 この碑の前方に、高村光太郎の「レモン哀歌」の碑が建っています。

 高村智惠子詩碑は足元にあります。皆が碑を踏みにじりながら高村光太郎の碑を眺めることになります。周りを土ではなく、石畳にすれば、こんなイメージにはならないのに、雨の後は悲惨だなあ。


大井町から品川へ  高村光太郎の碑 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  この地にあったゼームス坂病院で智恵子は亡くなった (2007年8月25日)

大井町から品川へ  高村光太郎の原稿の碑 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  高村千恵子詩碑 (2007年8月25日)

 親切なお巡りさんに道を聞きました。地域に密着している人の良さそうな小父さんで、色々な見所を教えてもらいました。尤も、江戸時代からの遺跡はないかとの質問は難しかったかも。


大井町から品川へ  親切なお巡りさん (2007年8月25日)

大井町から品川へ  煉瓦の塀はどこにあるでしょうか (2007年8月25日)

大井町から品川へ  散歩コース (2007年8月25日)

 申し遅れましたが、歩いて辿った跡は赤の破線の通りです。青の破線丸は本文に示した名所旧跡です。

 この日は陽射しも強く、暑かったため、余り散策する気になれなかったが、歩きました。
 こんなに歩いたことはめったに無く、Caccoは完全にばてていました。いつもは車で移動するため、または直ぐ喫茶店に入っちゃうため、こんなことにはならないのですが喫茶店が無かったのだ。

 次に訪れたのが湍運山天龍禅寺(前回もご紹介)。ここは煉瓦塀が有名なところです。
 関東大震災ではやはり被害が在ったようで、真ん中辺に大きなひび割れが入っていました。上の地図の青丸の「天龍禅寺」とあるところです。


大井町から品川へ  天竜禅寺の煉瓦塀 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  天竜禅寺の煉瓦塀とうさお (2007年8月25日)

大井町から品川へ  後になったけど天竜禅寺山門 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  瑞雲山天竜禅寺の山号寺号 (2007年8月25日)

 日本における煉瓦は、澁澤榮一が深谷に工場を作ったことで、明治の時代に爆発的に使われるようになりました。この赤茶の色合いは他の建設用資材では表しようがありません。
 このお寺さんの近くに、馬頭観世音の祠がありました。品川という地名には、発展し続ける近代都市的な響きがありますが、どうやら実態は「古き良き江戸」を色濃く残している仕舞屋(しもたや)の町であるらしい。
 ご近所の方も信心深くいらっしゃるようで、お花、蝋燭など絶やされていない。祠の扉の開け閉めでさえも、毎日となればその労力たるや、大したものだ。


大井町から品川へ  馬頭観世音のお堂 (2007年8月25日)

 深廣山海蔵寺には多くの無縁佛や、首塚、関東大震災の被災者、京濱鉄道轢死者などの慰霊碑が多くあります。
 気の弱いうさおは境内を通って深夜に、家に帰るなんてことは出来ないだろう。
 多くの霊を背負って帰る・・・玄関を開けたとたん、あら、何方か御一緒なんですかって言われたら腰が抜けちゃうよ。首塚かと思ってカメラを向けたら、駐車禁止の石だった。


大井町から品川へ 海蔵寺の手前にある東關森稲荷神社 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  海蔵寺参道は町屋の中 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  時宗海蔵寺 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  何かと思ったら車止めの石塔 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  品川区の指定史跡になっている (2007年8月25日)

大井町から品川へ  境内は結構広そう (2007年8月25日)

大井町から品川へ  関東大震災の被災者の慰霊碑 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  慰霊碑の碑文 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  京濱鉄道轢死者の慰霊碑 (2007年8月25日)



大井町から品川へ  海蔵寺から品川宿へ (2007年8月25日)

 国道15号線を横断し、緩やかな坂を上り東に向かうと、日蓮宗自覺山海徳寺があります。
 この寺には幕末の遺物が色々残っていますよ。
 このお寺さんの参道はとても狭く、民家が肉薄しています。もちろん境内もそう広いものではなく、大変手狭です。
 ここに台場から持ってきたとかで、戦艦に積まれていた大砲が飾ってありました。
 隣にある碑は、明治39年12月9日の軍艦「千歳」が突風のため転覆し、乗組員65名、見送人15名の計83名が亡くなった時に建てられたもの。
 「千歳」は米国のユニオン鉄工所(サンフランシスコ)に発注された防護巡洋艦で、年明けに渡米する予定でした。
 また江戸時代から、神仏の御影や御札の版木が残されていることでも有名であり、品川区指定有形民族文化財に指定されているそうです。
 こんな所に何かを祀った碑と、当時の立看板の模造品が置いてあります。ここの銀杏木も春の桜も有名だそうです。
 この寺が有名なのは、「ホームラン地蔵」があること。昭和23年生れの岩崎和夫少年は野球が大好きだったが、心臓肥大のため小学4年で入院、偶然病院に立ち寄った王選手が病室に寄ってサインをして励ましたが、亡くなってしまった。彼の墓はバットを抱いた地蔵の姿で「ホームラン地蔵」と名づけられた。『海徳寺寺報』より。(実は見つけられませんでした。)


大井町から品川へ  思いがけない所に煉瓦塀の一部が (2007年8月25日)

大井町から品川へ  鈴木電業社は大正の香りがするぞ (2007年8月25日)


大井町から品川へ  海得寺山門 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  海得寺本堂 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  軍艦「千歳」の慰霊碑 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  軍艦「千歳」の大砲 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  境内の一隅 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  江戸時代の定書(切支丹の禁令) (2007年8月25日)

大井町から品川へ  筆塚 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  ホームラン地蔵と間違えましたが、煉瓦塀が写ってます (2007年8月25日)

 海徳寺から目黒川に出て、荏原神社に向かいました。この地図の左上のほうに、品川神社があるのをお気づきだろうか。この品川神社と荏原神社は縁続きの神社さんなのだ。
 縁起に言います。和銅2年(709年)9月9日、大和国丹生川上神社より高?神(水神)の勧請を受けて南品川に創建し、後に遷座しました。
 旧鎮座地には今も水神の貴布彌神社がありました。長元2年(1029年)に伊勢神宮より豊受大神・天照大神、宝治元年(1274年)に京都祇園社(八坂神社)より牛頭天王を勧請したとのこと。牛頭天王ってのは須佐男之尊のことだよ。だから元々は水神さんなのだ。漁師町だからね。
 この水神を祭って海の中に入り祈願した浅瀬のところが天王州だ。現代にも天王州アイルとして地名が残っています。
 さて、渋谷の近くの池尻大橋から端を発する目黒川を渡ってみましょう。この橋は鎮守橋といいます。流石、荏原神社の前にある橋です。鎮守・・・
 元々この地には地主神(出雲神または蝦夷神)がいたはず。それを伊勢大社系(大和朝廷)の神々が取って代わった為に、祟られないように鎮守したってことかなあ。
 二期に亘って鎮守したことは長い間祟りがあったってことかな。


大井町から品川へ  鎮守橋 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  鎮守橋を渡る (2007年8月25日)

大井町から品川へ  荏原神社 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  荏原神社境内 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  荏原神社石碑 (2007年8月25日)

 この橋の掲示板に曰く。
品川橋の今昔
 この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。
 〔品川橋〕は、旧東海道北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には〔境橋〕と呼ばれていました。また別に〔行合橋〕・〔中の橋〕とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。
 〔品川橋〕がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。
平成三年四月一日   品川区

 品川橋の袂には常夜灯を形取ったものや阿妻屋と掲示板がありました。橋の上に樹木が生い茂った分離帯があります。歩く人にはとても居心地の良い緑のゾーンです。橋の横幅がとてもある橋に感じます。周りの橋も赤い欄干がデザインが冴えておりました。

 品川橋から南品川を望んでいます。
 昔の橋はどんな橋だったのか、この方向に何が見えたのか、疑問は残ります。
 目を転じて北品川を見てみましょう。旧街道は意外に道幅が狭かったようです。


大井町から品川へ  品川橋 (2007年8月25日)

大井町から品川へ 品川橋の由来 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  目黒川 (2007年8月25日)

大井町から品川へ 北品川方面 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  南品川方面 (2007年8月25日)

 品川橋から日本橋のほうに歩いていきましょう。商店街入口にあるアルミ製のモニュメントって言うか、ちょいとチープな大門もどきを潜り抜けて、暫く歩いていくと聖蹟公園の入口に辿り着きます。
 ここにどうやら本陣が在ったらしい。時はまさに祭礼の準備に忙しい夏の真っ盛り。暑くて歩くのも嫌でした。名物の松の木が一本植っており甲賀の宿より貰ったものらしい。


大井町から品川へ  品川から日本橋へ (2007年8月25日)

大井町から品川へ  品川宿入口の看板 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  品川宿本陣跡 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  同石碑 (2007年8月25日)

大井町から品川へ 甲賀郡より送られた松 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  古びた説明高札 (2007年8月25日)

 江戸時代の地図を見ると、海徳寺を見ることが出来、品川神社と思しきところに「天王様」とあるのでさほど地形は変っていないようだ。兎にも角にもお寺さんと神社の多い処だ。海難事故が多かったのかな。

大通りに面した所に品川宿が並んでいたのだろう。御殿山の裏手はほとんど畑であったようです。
 品川と言えば品川遊郭が有名ですが、正式には品川に遊郭はありません。江戸時代は遊郭は吉原以外は認められていません。幕府は娼婦を認めていませんでした。だから宿場に置かれたのは飯盛女と言う娼婦でした。
 時代が下がると、東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、奥州街道の千住、中山道の板橋の四宿には、例外的に女郎を置くことが認められました。江戸の地は慢性的な女性不足で結婚できない若い衆が結構いたそうで、落語なんぞによりますってえと、若い衆が四宿に遊びに行く話が多いって寸法だあ。
 「品川の 客、人へんの あるとなし」の句は言いえて妙ですね。人偏が付いているのが「侍」で、付いていないのが「寺」。大名行列と多くのお寺さんで賑わう品川らしい。侍とお坊さんが人目を忍んで宿場に遊びに行ったのでしょう。
 こういう句はうさおは好きです。


大井町から品川へ  江戸時代の地図 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  品川宿浮世絵 (2007年8月25日)
 
 さて、このお寺さんは豊盛山延命院一心寺です。宿場町の真ん中にいきなり現れますので、ええって感じです。真言宗智山派のお寺さんらしいです。うさおの家も真言宗です。(だから何だと言われると・・・)
 寺の歴史は意外に浅く、井伊直弼の一言で町が建立したらしい。中を覗くと成田山新勝寺の不動明王を分身してご本尊としていることが書かれています。紅殻の提灯建てが如何にも品川っぽく感じるのは、うさおだけか。


大井町から品川へ  一心寺 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  一心寺 (2007年8月25日)

 ここは品川宿品海公園。ここも宿場の跡です。御殿山が左手の方に見えています。
 立看板には当時と道幅はほとんど変わらないと書いてあります。品川は江戸への入口、大名行列も品川には必ず逗留した筈。
 この狭い道で行列がすれ違うことは出来まい。とすれば江戸詰めの気の利いた用人が事前に各大名家と調整をして、行列がぶつからない様にしたのだろう。格式も気にしながらだ。
 何時の時代もサラリーマンは辛いなあ。


大井町から品川へ  ここでUターン (2007年8月25日)

大井町から品川へ  品川宿品海公園 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  品川宿品海公園の松 (2007年8月25日)

 ここで変なことに気が付いた。ここにも品川の松が存在するのだ。
 品川区の説明によると、この公園の改修の際に品川宿から5本目の松として寄贈されたのだとか、5本目、何か希少価値が無いなあ。

 しばらく北品川方向に歩くと金物屋に行き着きました。見事に緑青を吹いた銅版細工がノスタルジックなものを感じさせます。


大井町から品川へ  昔の佇まいのお店 (2007年8月25日)

 うさおは暑くて目も開けられない。汗が滴り落ちるのです。メタボ症候群の典型だ。
 品川宿はこのまま町を維持していけるのだろうか、天王州、品川駅周辺の開発は年々顕著になってきています。これだけの数のお寺さんは今後も維持していけるのか、何となく「消え行く町並み」のような気がして、「棄景」と言う言葉が頭をよぎります。

 地図で台場小学校を見ると、昔の台場の敷地の形が見えてきます。小学校の敷地が台場そのままなのです。
 どうせなので小学校の周りを巡ってみることにしました。
 この細い路地を辿って行くことにしましょう。人一人がやっとの狭さです。
 思わぬところにお稲荷さんがありました。狭い住宅の合間にぬっと出てきます。どうも品川は驚かすことが好きらしい。ええっ、驚いちゃいましたよ。夜だったら叫んでいるところです。怖くて。しかもこの狭い通路しか出入り口が無いんですよ。
 変な場所に「文部省」の石碑が路面に刺さっていました。


大井町から品川へ 台場小学校南門 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  学校の南側 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  学校の西側 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  その路地を歩いてみる (2007年8月25日)

大井町から品川へ 途中にお社が突然現れる (2007年8月25日)

大井町から品川へ 文部省の境界石 (2007年8月25日)

 ようやく路地を抜けると、小学校の正門に行き着きました。
 そこにはミニチュアの品川灯台と、台場に使用されていた擁壁の石が積まれていました。
 うさおはだらしない格好に見えますがね、本人はこれはこれで楽な取材体制なのです。 足は昔の人と同様に草鞋履きですし、背に振り分け荷物(リュックサック)ですっかり旅人気分を味わってました。(ちょいと無理がありましたか)


大井町から品川へ  学校の北側 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  何と灯台の模型が (2007年8月25日)

大井町から品川へ  前の看板に台場小学校の歴史が貼ってある (2007年8月25日)

大井町から品川へ  同看板 (2007年8月25日)

 最後はとても疲れちゃったから、京浜急行の北品川駅から乗って家に帰りました。平日でしたので高校生が多く乗っていました。


大井町から品川へ  品川の見どころ案内 (2007年8月25日)

大井町から品川へ  京急北品川駅 (2007年8月25日)