子安の防空壕(2009年7月10日)

 下の地図の真ん中の赤枠の中は「浅野学園」です。 以前にもトマソン隊で取り上げましたが、浅野セメントや日本鋼管、東亜建設工業などの創始者、「浅野総一郎」氏がコンクリート工法講習所として開校した学園だ。高校野球も進学率も最近頓に有名になってきた浅野学園だが、起伏のある山の中に校舎がある、最近ではあまり見かけない良い環境を持つ学園だ。
 立地条件もよい。眼下に昔は子安の浜が見えただろうが、昭和3年の時代には、もう日本石油のプラント群が地図上で見て取れる。国道15号線に市電が走っているし、市電の終点「生麦」の前に麒麟麦酒の工場群も見える。ここは今でも夜になると、このビール工場や石油の精製工場のプラントの灯りが、何と言えぬノスタルジックな夜景を形作っている。横浜の夜景十景に入っていないのが不思議なくらいだ。以前、ここから開港記念の花火大会を見てやろうと出かけたが、花火は良く見えるが小さくしか見えないのが残念であった。
 やはり花火は頭上から降り懸かるくらいのものでないと、迫力が無いね。


子安の防空壕 これは昭和3年の時代の子安周辺の地図です (2009年7月10日)

 下の写真は終戦直後のものね。黄色の枠内が浅野学園。


子安の防空壕 これが、昭和22年頃の米軍が撮影した同地点のところ (2009年7月10日)

子安の防空壕 平成21年の写真 (2009年7月10日)

 やはり写真は、色が付いている方が学園全体を理解し易い。戦時中も艦砲射撃や空襲にも遭わなかったようだ。学園の中央付近にあるブルーシートのところは、首都高環状2号線の工事中の箇所で、トンネルの坑口になるのだ。破線が首都高の分岐線が延びて来るところだ。

 で、何を言いたいのかというと、この学園の西側の小高い丘に着目して欲しいのだ。ここに戦争遺跡が残っている。防空壕の跡だ。それをご紹介したい。(一点鎖線で囲まれた丘)

 子安と言う町は、元々が漁師町だった所為で、網元風のお宅が幾つか現存している。
 ここもそのようなお宅だ。
黒板塀に見越しの松なら、「切られの与三」と「お富さん」だが、ここは建物の壁が黒板塀で、料亭みたいだった。


子安の防空壕 網元のお宅だと勝手に思っている (2009年7月10日)

 その坂を上る途中にあるのが、コンクリートの小屋に収まったお地蔵さん?
夜中に見たなら、ちょいと恐いかも。


子安の防空壕 このお地蔵様は? (2009年7月10日)

 坂の上から見るとこんな感じだ。
何のためにこんな樹木の中にって思わないかい?稲川淳二に語って貰いたいところだ。


子安の防空壕 お地蔵様が木立の中にあることも怖い (2009年7月10日)

 さて、坂を上って日産グランドと横浜マリノスのグランドの間を歩いていくと、東側に浅野学園の丘が見えてくる。この鬱蒼とした森がそれ。着目してほしいのは、道路との境のコンクリート雍壁だ。近づいてみよう。


子安の防空壕 グラウンドから浅野学園の小山を見る (2009年7月10日)

 おお、ある、ある。防空壕を塞いだ跡が。結構沢山あるぞ。もう少し近づいてみてみよう。


子安の防空壕 近づいてみるとこんな感じ (2009年7月10日)

子安の防空壕 並んでいる様は結構壮観だと思います (2009年7月10日)

子安の防空壕 碑文が貼られた防空壕 (2009年7月10日)


 何か碑文が残っているぞ。


子安の防空壕 こんなことが書かれている (2009年7月10日)

戦争遺跡・防空壕
 大平洋戦争中、本校の“銅像山”には、本校(浅野綜合中学)生徒や地域の人々がアメリカ軍による空襲から逃れたり日本鋼管株式会社等の機密資料を保管したりするために日本軍や本校生徒の勤労作業によって数個の防空壕が作られた。
 ここは、その場所の一部である。当時、生徒たちの防空演習では、学年別防空壕への避難訓練も行われていた。
 1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲では、防空壕内に待避した大勢の人たちは、火と黒煙が渦巻く横浜市内の惨状、そして焼夷弾が火を噴き焼け落ちる学園の校舎を涙して眺めていたという。
 今日に伝わる”戦争遺跡”として後世に残すものである。
                                                 浅野学園
                                                 2004(平成16)年8月

 この碑文は比較的新しい時代に作られています。でも2000年くらいまで防空壕が口を開いていたとは思えないな。
 この辺りは日産の社員住宅が多かったところで、日産グランドなどがあります。

 この雍壁はこの新興住宅街のところで、折れ曲がっています。伸び上がって覗き込んで見ましたが、こちらのお宅の裏庭に防空壕跡があるかどうかは判らなかった。


子安の防空壕 小山の土被りは薄いが焼夷弾には有効だったか? (2009年7月10日)

子安の防空壕 ここから一般の住宅が現れてくる (2009年7月10日)

 更に行くと雍壁が浮き上がっている処がありました。どうやらここが終点らしい。


子安の防空壕 マンションの脇の擁壁、防空壕は無し (2009年7月10日)

子安の防空壕 ここのコンクリート版が浮き上がっている (2009年7月10日)

 この海に面した道路をここで曲がると、今の防空壕跡に辿りつきます。この丘は鳥獣保護区で、浅野学園の生物部の活動はとっても有名らしい。


子安の防空壕 小山の奥の状態 (2009年7月10日)

子安の防空壕 鳥獣保護区の看板が!禁漁区じゃないの! (2009年7月10日)

 浅野学園から海側を望むと、ENEOSの石油プラントが見えます。住宅が多くなったなあ。高速道路の下にある貨物線についても触れたいけど次の機会に。


子安の防空壕 新日本石油のコンビナート (2009年7月10日)