フェリス女学院10号館(2008年3月8日)

 フェリスといえば、高校生時代にはある憧れを持つ言葉だった。あの夏服の水色の襟のセーラー服がそのシンボルだったのだ。同じ駅に立つフェリスの女の子の制服は、本人以上に楚々として可愛かったし、気高さがあった。(フェリスの娘と付き合ったことが無いから、本当かどうかは判らないけど・・・)
 学校の所在地もその憧れに拍車をかけた。何しろ横浜の山手ですよ、山手。東京で言えば、白金、成城、田園調布に当たるところ。通う娘全てがお嬢様で、庶民の生活なんてご存じない方ばかりと思っていました。
 とは言うものの、うさおの住んでいる最寄の駅でもお見掛けしたので、実際はそうではないのかもしれないが、でも、やはりお金持ちのお嬢様という認識があった。


フェリス女学院10号館 憧れの制服 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 配置図 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 正門前にて (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 三々五々 人が集まり始めている (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 J.M.カイバー記念講堂  (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 事務棟かな (2008年3月8日)

 フェリス女学院のそのような青春の思い出は兎も角として、幕末から明治にかけて創生された歴史のある学び舎で、その中に存在する建物も相当に由緒のあるものが多い。
 何せ、明治の時代からお金持ちア~ンド、出自の良さがステイタスの山手でしたから。うちの爺さんも、此処、山手の地に住みたかったのかも。何故なら、数回転居を繰り返したが、ほとんどが山手の麓の地域でうろうろしていたからだ・・・。
 さて、横浜にお住みでない方のために、「フェリス」についておさらいをしておこう。
年配の方々は「ふえりす」と言った。「フェリス」とは、アメリカの改革派教会の伝道師さんの名前です。日本には来ませんでしたが、学校の創設にお金を出してくれました。しかし、「フェリス女学院」と言えば、メアリー・E.キダー女史と、若松賤子女史が有名です。メアリー・E.キダー女史は、ヘボン博士の私塾の講師をしていましたが、女子だけのフェリス・セミナリー:寄宿学校を開校しました。


フェリス女学院10号館 昭和11年頃のフェリス (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 メアリー・エディ・キダー (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 若松賤子 (2008年3月8日)

 若松賤子は本名は巖本嘉志子と言い、会津若松市の人。三歳のとき会津の戦いが起き、賤子一家も戦いの渦中に。父勝次郎はその後行方不明、母は病没のため賤子は親戚に引き取られた。
賤子の才を見込まれて横浜の織物商山城屋和助の手代大川甚兵衛は、彼女を養女とし横浜に連れて行きました。明治4 年に養母は賤子をキダーの英語塾に入学させました。この塾は横浜居留地のヘボン宣教師の施療所内にありました。
 明治5 年、山城屋和助は明治政府の疑獄事件に関与し倒産。甚兵衛は賤子を連れ東京へ転居しました。明治8 年に、キダー塾が寄宿制のフェリス・セミナーとなったのを機会に、賤子は横浜に戻り学業に取り組んだ。賤子は優秀な成績で第一回の卒業生となり、教師ブースの要望を受け、フェリス・セミナーの和文教師となりました。
 賤子は「時習会」という文学会を結成し活動を始めました。『女学雑誌』の主宰者、巖本善治とも親交を深めていった。善治の勧めにより『女学雑誌』23 号に「若松賤子」のペンネームで「旧き都のつと」と題する鎌倉紀行文を発表。
 「若松」は生地からとったもの、「賤子」は神の恵に感謝するしもべの意味です。
 明治22 年、2 人は海岸教会で結婚式を挙げました。この時、「われはきみのものにならず、私は私のもの、夫のものではない。あなたが成長することをやめたら、私はあなたを置き去りにして飛んでいく。私のこの白いベールの下にある私の翼を見よ」という『花嫁のベール』と題した凄い詩を善治に贈っている。
賤子25 歳のときである。
 賤子の文筆活動は、『女学雑誌』を中心に、『国民の友』、『太陽』、『評論』、『少年団』、『少年世界』と発表の場を広げ、創作、評論、詩、英米図書の翻訳など多岐にわたった。
 賤子の文筆は、「お向こうの離れ」、「すみれ」、「忘れ形見」と発表する中で賤子の人気が高まっていく。


フェリス女学院10号館 明治38年ヴァン・スカイックホール (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 海岸から(年代不明) (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 ペン置きとインク壺のある机 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 その机の上の写真 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 今も使われているベンチ (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 椅子が飾られている玄関 (2008年3月8日)

 『女学雑誌』に発表したバーネットの翻訳小説「小公子」は延べ45 回の長期連載となり、文学者としての地位を不動のものとした。やがて賤子は過労から肺結核となった。しかし賤子は病床より「イノック」、「アーデン物語」、「ローレンス」等の翻訳を世に送った。明治29 年、賤子は三十三歳の生涯を閉じた。
 この学校はヘボン博士となにか関係があったように思っていましたが、そう言うことでした。うさおの思い込みではありませんでした、今回は事実です。
 創設当初には「キダーさんの学校」と呼ばれ、山手178 番地に新校舎が出来てから、「フェリス・セミナリー」となりました。その後、大東亜戦争の影響もあり、学校の名前も「フェリス和英女学校」、「横浜山手女学院」と変遷し、校名復帰運動が沸き起こり、今の「フェリス女学院」となったそうです。

 で、今になって何故「フェリス女学院」なのか?このところ、トマソン隊はやたらと建築家アントニン・レイモンドづいていて、横浜での遺跡を数箇所訪ねているが、これもそのひとつです。
 さて、どんな遺構があるのかというと、フェリス女学院10 号館がそれです。この館は、旧ライジングサン石油会社の社宅で女性専用のフラットだった。「10 人の女性速記者のためのフラット」をコンセプトに設計されたとか。


フェリス女学院10号館 旧ライジングサン石油会社住宅(年代不明) (2008年3月8日)

屋外


フェリス女学院10号館 現在の10号館 同じ方向から (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 現在の10号館北側より (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 現在の10号館北側より (2008年3月8日)

 何となくイメージするのは、金髪碧眼のウェストが吃驚するくらいきゅうっと細い外人女性がタイプライターの前に座っている情景だなあ。白いシルクのブラウスにロンタイ(以前のTICA さんが好んで着ていたロング・タイト・スカートの略。
 これだけ注を入れるなら、省略するなって!)で髪はアップだなって、まるでブロンディのような好みの女性像を述べちゃったね。
(ブロンディ:戦前、戦後に出回ったチック・ヤング作のアメリカ家庭漫画、典型的なアメリカ美人の奥さんと子供二人、犬多数。子供たちは両親にそっくり。うちの親父が持っていたもので、昭和20 年代には珍しいカラー刷り、親父は米軍の基地に入れるパスを持っていたので、そこで貰ったのかもしれない。)
 外観はレイモンド節と言うか、女性向けにフェミニンになっているところが味噌だね。


フェリス女学院10号館 ブロンディより  (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 以前見に行ったスタンダード石油社員寮 (2006年5月3日)

 室内に入ると右手に居間(造りはシンメトリィになっているので、処によっては左手)、奥に広い居室で北側にある台所、パントリィにつながっている。この辺が女性の気持ちを上手く掴んでいる。
引率者は大学の先生と遺構保存の会のメンバー及び市の職員。NHK の女性ディレクターも取材に来ていたよ。


フェリス女学院10号館 南側の前庭 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 前庭から西側を望む (2008年3月8日)


フェリス女学院10号館 特徴的な時計が残っている (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 バルコニーの凹凸部 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 南側全景 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 東側側面の出入り口 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 北側のらせん階段 (2008年3月8日)


屋内

 一階の居間には窓側にスチーム型の暖房機、壁側にアラバスターと思える縁取りの暖炉がある。これだけがやけに男っぽい。脇には細かいものの収納飾り棚が設えてあった。
 二階に上がるとウォークインクローゼットと寝室、浴室、トイレ、もの入れがあり、クローゼットの扉には等身大の鏡が張られている。これは真夜中に見たらちょいと怖いかも。楳図かずおの世界だ。
 現在は大学の研究室として使用されているそうですが、毎晩パーティが開けそうなくらい広い部屋と緑の芝生の前庭があり、羨ましいを通り越して切なくなっちゃった。お金持ちっていいなあ。


フェリス女学院10号館 窓下のスチーム暖房機 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 見学者たち (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 広い室内 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 窓の外の緑、良い環境である (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 暖炉、内側に煉瓦積み (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 暖炉 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 赤いカーテンが女らしい (2008年3月8日)


所在地:横浜市中区山手町38
構 造:R.C.2 階
設 計:アントニン・レーモンド
施 工:清水組
建築年代:昭和4 年頃
一階居間の暖炉
二階のベッドルーム、赤のカーテンが欧米的
二階のベッドルーム、二つもある

 旧ライジングサン石油会社の社宅の居室内には、多くの鏡が仕掛けられている。女性のナルシシズムに訴えかける普遍的なものであろう。男性でも若いうちは、鏡の前から離れられない者も多い。うちの倅がそうだ。給湯栓がある洗面台は当時でも、ものすごく先鋭的だったと思う。
 屋根の上に突き出た煙突のスリットが特徴的。コンクリートと鉄とガラスで構成された建物であるが、屋根の廻縁に陶製タイルを使っているのがこだわり。 優美な螺旋階段も良く使われるモチーフ。


フェリス女学院10号館 屋外の電燈 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 洗面台と化粧鏡 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 外の景色が見える居間 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 居心地の良さそうなベッドルーム (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 勝手口を望む (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 暖房機 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 パントリィかな? (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 当時珍しい水洗トイレ (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 パーティが開ける広さ (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 台所 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 屋内燈 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 ワードロープ (2008年3月8日)


フェリス女学院10号館 お風呂 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 給湯蛇口もある洗面台 (2008年3月8日)

フェリス女学院10号館 屋根部のタイル、大変貴重 (2008年3月8日)

 エリスマン邸もレイモンドの代表的な建物だ。暖炉が特徴的。色使いが素晴らしい。


フェリス女学院10号館 エリスマン邸 (2002年5月10日)

フェリス女学院10号館 エリスマン邸 (2002年5月10日)


フェリス別稿
 幕末から昭和の初期にかけて、女子を学校に通わせることの出来る家は、よほどの裕福な家でないと叶わなかった。その様な目で見ると、この彼女達は実にモダンだ。


フェリス女学院10号館 フェリス和英女学校の卒業式「横浜グラフ」より (1934年)

別稿「若松賤子像」和田裕:ヰオリニスト群像より。
 同じ明治二十三年、バーネット作『小公子』も又翻譯發表せられたり。譯者は若松賤子なる筆名の當時横濱のミス・ギダー學校(フエリス女學院の前身)に勤務する一女性教師なりき。賤子は會津藩武士の長女として生を享けたるも、父は幕末の函館戰爭に敗れて捕はれの身となり、彼女は横濱商家の養女となりて成長せり。英語に堪能なりしはミス・ギダーの薫陶によるものにして、成績優秀なるにより、そのまま母校に教師として殘れりと聞く。若松の筆名は郷土「會津若松」に由來せるなり。賤子は同じく教師の巖本善治の妻となりたるも、明治二十九年三十三歳の若さにて身罷りぬ。彼女の譯せる『小公子』はその後譯されたる『小公女』と共に同時代の子女に廣く愛讀されし作品にして、今も岩波文庫目録に記載されある古典的一册なり。我が最初に之を繙きしは中學校入學の頃なるも、感銘を受けしは數年後徳川夢聲の朗讀を聞きて再讀せし折なり。その譯文は特徴ある口語體にて『第一、おっかさんのいって聞かせて下さる事が不思議でたまらず、二度も三度も聞直さない中は會得出來ませんかった』と記述せられ會話にしばしば「・・・ましたっけ」なる表現の見らるるは、如何にも女性らしき言葉遣ひならむ。又「僥倖」に對するルビとして「こぼれざいはひ」の用ゐられしを見て、その適切なる言葉撰びに感嘆久しうし、その字句は我が腦裡に深く刻み込まれたり。

レイモンド別稿
 同じチェコ人の設計家、フォイエルシュタインやスワガーも在籍していた。この時代、日本の建築界を動かしていたのだ。


フェリス女学院10号館 1935 年レイモンド設計事務所,ここには前川国男、吉村順三がいた