神奈川台場  2006年1月1日、2006年6月4日、2007年3月3日、2007年4月30日

 うさおの周りにも、根っからの「浜っ子」は大変少なくなったようです。お向かいに住まわれていた「NOBORU」ちゃん(子供の頃に遊んでもらったお兄ちゃんですが、もう古希を過ぎています)も家を売って引っ越されました。寂しいなあ。
 うさおの両親は横浜で生まれ育ちましたが、うさおは戦後に両親の疎開先で生まれたので、生粋の横浜人と呼ぶには抵抗があるけどね。だから、うさおも含めて横浜の郷土史を知っている輩は本当に少なくなったと思うね。日出彦さんあたりが記憶のボーダーかな。
 まっ、東京のお台場を知らない人はいないけど、神奈川お台場を知っている人はすごく少ない。最近、この神奈川お台場の南側の海を埋め立て、超高層住宅が建てられ始めました。遺構が無くなっちゃうよ。caccoが、神奈川台場の新聞の切り抜きを取っておいてくれました。


神奈川台場  2006年6月4日 朝日新聞

 そんなことを考えていた2007年3月3日に「神奈川お台場フォーラム」が横浜港の波止場会館で開催されたので行ってみました。波止場会館は大桟橋の袂にある煤ボケた建物で、大空襲にも焼け残った風情のある建物です。
 海岸通は戦争前には各国の領事館や大使館があったところで、元英国領事館であった「開港記念館」も、通りを隔てたすぐ近くです。
 ホテル・ニューグランドも焼け残りました。GHQが活動拠点にしました。米軍は意識してこの歴史エリアを爆撃しなかったのかも知れないな。
 伊勢佐木町周辺は戦後は焼け野原となり、焼け跡に農園を作っって、牛も飼っていたようです。


神奈川台場 波止場会館 2007年3月3日

神奈川台場 波止場会館フォーラム会場 2007年3月3日

神奈川台場 右手の白い建物が波止場会館 2007年3月3日

神奈川台場 戦後の関内付近 「横浜再現」より 2007年3月3日

神奈川台場 御開港横浜正景 開港資料館蔵 2007年3月3日

 この神奈川お台場フォーラムに横浜市議さんが来られて、初っ端の挨拶をされたのは閉口しました。長い挨拶の後は、次の後援会があるからとそこそこに座をはずされました。 それなら最初から来なくても良いのに。勝手なことを思いながら、1500円も参加費を払ったのだからと、配られたお茶をぐびりと飲む意地汚いうさおでした。

 講演者は横浜開港資料館の研究員西川武臣氏で、貴重な資料を提示してくれました。


神奈川台場 西川武臣氏 2007年3月3日日

 西川氏は史学博士の学位を持ち、すこし斜に構えて処はありますが、とても学者さんぽい方で、、熱心に判りやすい説明をされるました。


神奈川台場 日本土木史より 2007年3月3日

神奈川台場 俯瞰図 googleより 2007年3月3日

 当日配布された西川氏の資料を借りて、俯瞰写真にちょいと加工をして見ました。俯瞰図に台場の位置を入れたものです。とはいっても、Google Earthの機能を借りただけですけどね。現代の地形と比べてみると権現山などは、跡形もない状態で崩され海だったところがすっかり陸地です。
 これでは昔の台場の遺構跡など判ろう筈がありません。


神奈川台場 明治初期の神奈川砲台場 開港資料館蔵 2007年3月3日

 西川氏の講演の骨子は以下のとおりです。
 「図は「御開港横浜正景」と言い、横浜開港資料館に所蔵されているもので、幕末に刊行された地図です。下方の海中に突き出した五角形の構造物が神奈川台場で、市街地が外人居留区を含めた開港場だったところです。東京湾の内にお台場が築かれるのは、西欧諸国の黒船が日本の沿岸に現れるようになってから、幕府は防衛のためにお台場を築き諸藩に対してもお台場の築造を命じました。
神奈川のお台場は横浜市神奈川区の海岸に、松山藩が万延元年(1860)に築造しました。この地は現在では周辺部の埋め立てが進み、かつての景観を知ることはできませんが、この台場は横浜市域唯一の台場であり、横浜市の貴重な史跡になっています。
この神奈川のお台場は、開港場に付随する施設として築造され、軍事施設よりも諸外国の外交団や外国の国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用されました。
 お台場の築造には多くの人びとが関わり、横浜市磯子区の旧家堤真和家からはお台場築造に使用するための岩塊を磯子の山から切り出したことを記した古記録が。また、保土ヶ谷宿の名主の苅部清兵衛が台場築造費を幕府に献納した古記録も残っています。
お台場の警備にあたった藩士や兵士の様子を記した記録、幕末から明治時代の台場の様子を描いた絵地図も残っています。お台場は観光地としても有名になり、多くの人びとが巨大な石組みに驚嘆の声をあげました。
 残念ながら、台場は明治時代末年から周辺地域の埋め立てが進んだため、現在では石組みの一部分が残されているにすぎません。震災と戦災で多くの史跡や歴史資料を失いましたが、土中とはいえ貴重な史跡が残されていることは大変喜ばしいことであり、台場への関心が高まることを願っています。(横浜開港資料館HPより)」


 どの位の大砲があったのかと言うと、次のような記述があります。


神奈川台場 西川氏資料より 2007年3月3日

 1斤とはおおよそ600g程度のこと、60斤とは36kgのことかな?結構重いものが撃ち出されて飛んでいることになるが、主に祝砲に用いられていたのなら、空砲なので実弾の保管は必要が無いと思えるけど、まっ、お役所仕事だからね。

 さて、実際の神奈川お台場の位置を西川氏はこう推理しています。今のJR貨物の軌道配置を参考に地図に被せるとほぼ敷地の区切りと一致しているようです。
 発見されている所は、碑の建っている元は海だった西の際と、その北側に位置する西取渡り道の一部(台場公園の処)と東南の端の高層住宅の開発を行う際に仮設の駐車場で石積が発見された処の3箇所です。


神奈川台場 位置予想図 2007年3月3日

神奈川台場 西川氏の提示された古地図 2007年3月3日

神奈川台場 西川氏提示:東高島駅の配線トラップさせると 2007年3月3日

神奈川台場 そうだったのか!と、頷くうさお 2007年3月3日

 
では、実際の場所に行ってみます。勿論、ライ隊員も大活躍です。
 碑が建っていた所は以前は海で、海との境の護岸雍壁の石積みが見えていたものです。


神奈川台場 台場の北側端に碑が建っています 2006年1月1日

神奈川台場 近くに公設市場があります 2006年1月1日

神奈川台場 東側を見てみます 2006年1月1日

神奈川台場 西側はこんな風です 2006年1月1日

神奈川台場 碑の裏側は開港百年記念と記されています 2006年1月1日

神奈川台場 往時を彷彿とさせます 2006年1月1日

神奈川台場 東の道だったあたりか? 2006年6月4日

神奈川台場 右手の道路が江戸時代の陸地かな 2006年6月4日

 今でも周りは運河に囲まれているところが砲台跡で、出島に樹が茂っている様は、なんだか横浜のようではなく、呉とかの広島のようです。(あっ、うさおの思い込みです。)
 そしてここに煉瓦造りの出島の護岸です。明治の時代の遺構かも知れないなあ。


神奈川台場 明治時代に新たに埋め立てられた処 2006年6月4日

神奈川台場 護岸は煉瓦積です 2006年6月4日

この神奈川砲台はその後、国鉄の手に渡り貨物線の基地として変貌していきました。高島貨物線がそれで神奈川臨海線に繋がり本牧まで延びていました。東のほうは鶴見臨港線、武蔵野線を経て、常磐線の「いわき」駅のほうまで延びています。
 散々探し回ってみると、漸く貨物線の「東高島駅」が見えてきました。駅入り口の前には、おおっ、「鉄チャン」だったら泣いて喜ぶ廃線跡が・・・。

 そして、Caccoの勧めもあり、この「東高島駅」の中に入って調査することにしました。入るときは堂々と、あたかも職員さんが休日出勤で来たんだぞって感じで、やや横柄な態度で侵入します。


神奈川台場 この「東高島町」駅が台場の跡です 2006年6月4日

 そうすると色々なものが見えてきます。む、む、む、ここにも廃線跡が・・・。って廃線跡を調べに来たんじゃあないぞ。
 ここは川に渡る鉄橋部分だけが取り残されています。


神奈川台場 良いなあ、臨海貨物線の廃線跡い 2006年6月4日

神奈川台場 ランドマークタワーが見えます 2006年6月4日

 後ろの超高層はみなとみらいの街並みです。

 石の割り図はこの砲台を造るときに使われた標準図です。本当に使われているのか隅の石積を検証してみましょう。


神奈川台場 西川氏資料より 2007年3月3日

神奈川台場 西川氏資料より 2007年3月3日

 記念碑の在る箇所では中に入れますので、石積みの角を見てみます。あっ、ありました、磨り磨りの刻みがはっきり見て取れます。
 でも、この刻みの意味は何でしょう。他と比べて石の大きさは格段に大きいですが、大型石材と木端口が同じなので、土工さんがうっかり間違えないように、片方に刻みを入れたのかも知れないな。


神奈川台場 また、来ました 2007年3月3日

神奈川台場 あっ、これだこれだ 2007年3月3日

神奈川台場 ちゃんと刻みが入っています 2007年3月3日


神奈川台場 台場公園にも碑が建っています 2007年3月3日

神奈川台場 台場公園の中 2007年3月3日

 その他の石は、西の取渡り道の住宅街の路地に見受けることができます。何かそこいら辺に転がっている普通の石に見えますがね。
 でも、土に埋まっていた石を転用したものですが、遺物だから記念に持帰ったら怒られるね。
 あっ、道路側に転がっているのは、物干し台のコンクリートですから。(ちょいと無理なギャグでした)(^^♪ お好きな方には砲台の仕様を乗せておきます。


神奈川台場 西川氏資料より 2007年3月3日

 14門の大砲があったのは確からしい。この砲台の演習時に何人かの砲兵が亡くなっている模様です。(亡くなった方には失礼ですが、砲兵って懐かしい響きです。子供の頃には、大人たちの会話の中でよく聞いた言葉ですが、自分たちは軍人将棋で遊んだことを思い出します。)
 その方々の鎮魂のための「神奈川砲台招魂碑」があるんだって。浦島町にある宗興寺の中に一般のお墓に混じってあったため、つい最近まで誰にも気づかれなかったそうです。 2001年にこのお寺さんに行ったときには、浦島伝説とヘボン博士の碑に夢中で砲台までは気が回りませんでした。

 それは当然で当時は、まだこの碑は発見されていませんでした。お寺さんの入り口から、本堂までの間の南側に安置されていました。普通のお墓のようで知らなきゃ見逃しちゃいます。(「東京湾海堡ファンクラブ」会誌より)

その当時の記述として米刊誌『ザ ファー イースト:明治四年(1871)6.1. (陽暦)』に、
 神奈川砲台で爆発事故があり、1名が即死、ほかの1名は重傷のち死亡との記載があります。また、『東京横濱毎日新聞、明治十三年(1880)6.24.』では、「さる21日は、英國女帝即位の當日なれば正午十二時、~奈川砲臺にても祝砲を放ちしが、同所詰合の砲兵卒佐藤某はこの砲の内部を掃除せんと筒先にて働き居たる折柄火藥の筒内に殘居て忽ち爆発したれば憐れや佐藤は身體微塵に砕けて死し居たるに此の物音を聞附けて駆集まりたる人々も詮方なく昨日同驛宗光(興)寺内に埋葬したり 」
『東京日日新聞、明治十四年(1891)2.9.』の記事に、「~奈川砲臺 これまで~奈川の砲臺においては、大砲の据方の適当ならざるため、傷害を被むりし者あること既に三四回におよび足れば、今ど陸軍省にていよいよ据替となること決せられ、十四門のうち七門だけに着手なりしよし、又た是までは鋳鐵銃なりしを今度は銅銃とせられたりとか」
とあります。

 当時としては大砲の事故で死亡することは、世間を騒がす大事だったようです。でも考えて見ますと、この砲台の工事そのものも大変な事業だったと思います。
 築造中にも結構たくさんの人が亡くなったと思われます。
 「死んでしまおか、お台場へ行こうか、死ぬがましかえ、土かつぎ」と当時の狂歌に歌われています。
 今まであまり、その方々の慰霊碑があることは、話題にあがってこないですね。


神奈川台場 「海堡」No.14資料より 2007年3月3日

神奈川台場 「海堡」No.14資料より 2007年3月3日

神奈川台場 宗興寺の神奈川砲台招魂碑 2007年4月30日

神奈川台場 宗興寺の神奈川砲台招魂碑 2007年4月30日

神奈川台場 宗光(興)寺 2001年1月7日

神奈川台場 宗興寺の中に、ヘボン博士の碑があります 2001年1月7日

(補足の記事)

 実はこの記事なんですが、大変気になることが書いてありました。
 「安政六年(一八五九)の横浜開港後、開港場周辺地域には開港場を維持するためのさまざまな施設が置かれた。そうした施設のひとつに現在の神奈川区の海岸部に築造された神奈川台場がある。台場とは砲台のことで、西洋では国際港に砲台が置かれることが一般的であり、砲台は港を防衛するとともに、港にやって来る諸外国の外交団などとの儀礼交換の祝砲の発射地として利用された。そのため、幕府は開港場を現在の中区に置くとともに、対岸に台場を築造することになった。
 実際に台場を築造したのは愛媛県松山市に城を持っていた松山藩で、台場は開港の翌年の万延元年に完成した。台場が廃止されたのは外国人居留地が撤廃された明治三二年(一八九九)のことで、この間、台場は祝砲発射という外交儀礼をおこなう重要な施設として活用された。また、台場は観光地としても有名になり、多くの人びとが巨大な石組みに驚嘆の声をあげた。
 残念ながら、台場は明治時代末年から周辺地域の埋め立てが進んだため、現在では石組みの一部分が残されているにすぎない。しかし、平成十四(二〇〇二)年に横浜市教育委員会が台場跡地の試掘調査を実施し、土中にも築造当時の石組みが残されていることが確認された。
 横浜開港資料館・調査研究員 西川武臣」



神奈川台場 横浜市広報 中区歴史の散歩道より 2007年4月30日

 えっ、発見されたの。今まで新たな発見が無かったって言われていたのに。横浜市のタウンニュースを見てみました。ああ、ありました。この前のときは気が付かなかったので、見逃しちゃいました。

 神奈川お台場 発掘調査 「ほぼ完全な状態で埋蔵」可能性高まる 「西取渡り道」の橋台部の石積みを発見
 幕末の横浜開港当時に東海道神奈川宿の臨海部に築造され、現在は地中に眠る巨大な砲台遺構『神奈川お台場』で、新たに「西取渡(とりわた)り道」の橋台部の石積みが見つかった。これまで確認されてきた石垣などは島部に集中していたが、今回は、島部への連絡道路「取渡り道」からの発見だ。発掘調査を行った『(社)神奈川地域活性化推進協会』では「島部以外もほぼ完全な状態のまま埋蔵されている可能性が高まった」とし、「保存・活用への大きな一歩」と位置づけて、今後、関係機関へ方策の検討などを働きかけていく。



神奈川台場 横浜市広報 神奈川区版 2007年4月30日

 地中に眠る開港の歴史 保存・活用に大きな一歩
 調査は区内神奈川1丁目の神奈川台場公園内で2月下旬、関東学院大学の鈴木伸治助教授の協力の下、同協会の調査・研究委員会(内藤宗一委員長)が実施した。過去の調査で不明瞭だった2本の連絡道路の内、唯一橋があった「西取渡り道」の橋台部の石積みが健全な状態で現存していることが確認された。 
 同協会専務理事の野渡圭一さんは「他の未確認部分もほぼ同じ状態であることが予想されるため、今回の発見は非常に意義が大きい。残る東取渡り道が確認できれば、ほぼ完全な状態で残っていると言える」と話す。同協会は台場の保存を目指す市民団体を前身に平成16年に発足し、調査などを続けている。台場の大部分は現在、JR貨物・東高島駅の下に埋没しており、野渡さんは「開発と保存の両立やまちづくりへの活用を、行政やJR貨物に働きかけていきたい」


 もう一度、行ってみなくては。この地図だけを頼りに行って見ました。


神奈川台場 横浜市広報 神奈川区版 2007年4月30日


神奈川台場 新発掘現場 googleより 2007年4月30日

 明治維新のときも多分こんな風だったのでしょう。

 開港資料館に保存されている江戸から明治にかけての地図(前掲)には、砲台の敷地の形状が異なって書かれています。この砲台は、関東大震災やら大東亜戦争などにより、海が埋め立てられ人家が建ち、今ではその敷地を見ることも出来ません。この西取渡り道の石積が見えた場所を探しに行きました。


神奈川台場 ここが台場公園で渡り道のあった所 2006年6月4日

神奈川台場 縄で囲まれたところが西取渡道の石積みが見つかった所 2006年6月4日

神奈川台場 公園から海の方を臨む 2006年6月4日

 碑が残っているほうの出口に小さな公園の中にを見つけました。
 ここのロープで地取りされている所が、ご近所の人から聞いたところによると当該の箇所らしく、「なんか石積みが出てきたけど、また埋めたよ!」とのこと。

 こらこら、勝手に埋めるな〜。


象の鼻

 では、「象の鼻」の話です。確かに子供の頃に親父やお袋から「象の鼻」という言葉を聞いたことがあります。メリケン波止場に象の鼻があったという話です。
 そう言えば長い間、この言葉は忘れていました。「象の鼻」とは大きく曲がった防波堤のことで、その曲がり具合から、その名が付きました。
 「YOKOHAMA CHART」をご覧ください。この時代には直線的な埠頭はありますが、まだ曲がった埠頭は出現していません。


神奈川台場 西川氏提示資料 象の鼻1 2007年3月3日

神奈川台場 西川氏提示資料 象の鼻2 2007年3月3日

神奈川台場 象の鼻改修前 2007年3月3日

神奈川台場 象の鼻改修前 2007年3月3日

神奈川台場 今は無き東西倉庫の屋根と正面に横浜税関 2007年3月3日

 工事概要の絵図を見てみると、その形が様々に変化していることが判ります。
 今残っている実物を見てみましょう。大桟橋に付随して横に伸びているので唯の防波堤のように見えますが、確かにコンクリートは古いし、先端の灯台らしきものもちょいと貧弱で電柱のように見えますし、港町にあるようなものです。


神奈川台場 ふ〜ん、こんなになるのか 2007年3月3日

 その「象の鼻」を明治の時代のものに再現する修復工事が行われており、6段階の変化があるそうです。
 「みなとみらい21」の革新的な開発と「赤煉瓦倉庫」や貨物線跡を用いた遊歩道のようなレトロなものの継承が行われるようです。
 この遊歩道に立つと、クイーン、キング、ジャックの3つの建物を、一望に見ることができます。この荷揚げ用のクレーンもできたらそのまま残してほしい気がします。
(このクレーンはその後撤去されてしまいました)


神奈川台場 荷揚げクレーン 2007年3月3日