横須賀港  2006年8月17日



湘南電氣鐡道株式会社線路平面図

 この地図は湘南電気鐵道の大正時代の三浦半島から鎌倉に掛けての沿線地図です。現在は京濱電気鐵道と合併し京浜急行になりました。
 今回はこの横須賀から三浦半島、千葉半島に掛けての帝都防衛ラインの一環でした第三海堡の遺構がテーマです。っ言ってもそれはほんの僅かで、後はノスタルジックな文献調査の記録だよ。

 発端は何と言っても矢澤さんの「東海道」に起因します。『大垣から関が原まで東海道本線は二手に分かれていた。なんでも明治の頃この場所の坂を登るのに当時の機関車の力不足で上り坂は機関車を二両つないで登ったとか。登りきった後一両の機関車を元に戻すために別ルートが必要だったことの名残である。』
 うさおは「鉄ちゃん」ではないので、これは自称「鉄ちゃん」のタツオトさんに任せちゃおうと思ったのですが、部下の「鉄ちゃん」に「こういう廃線の話、知ってるぅ?」と聞いてみたら、「うさおさん、なに言っちゃってます?廃線じゃありませんよ!廃駅です。廃駅!『新垂井駅』のことでしょう?」


新垂井駅跡 絵が無かったのでお借りしました http://www.railwaystation.jp/haieki/s_tri.html

 彼は歴史マニアでもあったので、この後、延々2時間と関が原と新垂井駅についての話を聞かされました。迷惑でしたよ、矢澤さん。でも、いつか取材に行きたい。
 面白いことも判りました。新垂井駅というのは戦争中に生まれたものだそうで、当時の東海道本線は矢澤さんの記述の通り関が原で急勾配になるため、二連成の機関車でないと迅速に重い軍用物資を運べませんでした。軍部の意向でこの区間を迂回する下り専用の別線を造ったというところが本筋らしい。その下り線には新垂井駅が新たに造られました。
 この駅も昭和61年には廃止されましたが、迂回線は現在でも使われています。「鉄ちゃん」達には大変有名なところで、関西の「鉄ちゃん」は一度はお参りしないといけないそうです。そうですって、タツオトさん!
 戦時中は要塞司令部に物資を運んでいたと言うのだが、えっ要塞?名古屋にぃ・・・?
 敦賀には要塞があったけど、名古屋にありましたか?乃木大将の旅順攻略の時にでも造られたか?または紀伊半島の何処かな?そういえば鈴鹿市北伊勢陸軍飛行場掩体は遺構として残っていますが・・・。
後注:この駅は木造駅舎で、全国でも珍しい部類に入ります。後にこの駅でボヤがあり、半焼したので駅舎の建て替えの話が当社にも来ました。木造駅の権威の日大建築の先生に指導をお願いして挑みましたが、入札金額が合わず受注できませんでした。ヒデヒコさんがこの地に薄墨桜を見に行っています。そういえば、横浜線の大口駅も、横浜線唯一の木造駅です。貴重ですね。

 ということで、名古屋のことは由佳さんに調べてもらうとして、手近の横須賀軍港でも行って見ることにしました。

横須賀港


 「くじらぼ」って広報誌を知っていますか?国土交通省関東地方整備局東京湾口航路事務所が発刊しているものです。横浜市の図書館に行くと、これが只で置いてあります。何か嬉しい。


横須賀港 くじらぼ5月号 2006年8月17日

 東京湾上の海堡群は幕末から維新にかけて、江川太郎左衛門が観音埼から富津岬を結ぶ帝都防衛ラインを奏上したことに始まります。
 この「くじらぼ」の表紙にあるように、山県有朋、黒田久孝、西田明則がその建設に貢献します。


横須賀港 第三海堡建設設計図 くじらぼ5月号より 2006年8月17日

 これがその当時の建設設計図です。第三海堡は長年の風雨や波に浚われて崩壊し水中に没していきます。その海中からの引き揚げ作業が開始され、いくつかが展示されているということでそれを見に行くことにしたのです。 (くじらぼ 5 月号より)
 「うみかぜ公園」の地図で見ると、第三が右手に、第一と第二が重なって一つの島に見えたようです。


横須賀港 第三海堡遺構展示場 くじらぼ5月号より 2006年8月17日

 見に行く場所は「うみかぜ公園」と「追浜展示施設」です。ついでに横須賀のヴェルニー公園も行って来ました。「うみかぜ公園」は目の前に猿島を擁する如何にも防衛に適した処、「追浜展示施設」は実は殺風景な海からの引き上げ物の仮置き場でした。

 「うみかぜ公園」に到着。夏の暑い最中なのに家族連れやら、釣り人やらで結構賑わっていました。中にはコンロを持ち込んで焼き肉をしていたカップルも。彼女のほうは少し恥ずかしそうでした。ライ隊員が鼻をヒクヒクさせて近寄っていったからね。


横須賀港 うみかぜ公園 2006年8月17日

横須賀港 うみかぜ公園 釣りも盛ん 2006年8月17日

横須賀港 うみかぜ公園 ライ隊員と散策 2006年8月17日

第三海堡遺構

 そこは猿島がほんの指呼の間にある処で、この日、猿島で行われていた何かのイベントすら窺うことが出来ました。人の群れと幟が立ち、Caccoが渡って見ようかって言ってました。
(あっ、望遠レンズで見てたんですけどねっ)うさおはそんなに暇じゃないんだけどなっ。
 猿島も島内には色々な軍事施設が残っており、煉瓦トンネルも縦横に掘られています。
(「トマソン隊 No.3 隧道編」に Cacco とグリコ隊長の探訪記があります。ご参照ください。)


横須賀港 猿島 2006年8月17日

横須賀港 猿島とライ隊員 2006年8月17日

 その猿島越しに見えるのが、第二海堡、第一海堡です。いやあ、まさに帝都防衛ラインそのものだなあ。実感、実感。


横須賀港 第二海堡 2006年8月17日

横須賀港 第一海堡 2006年8月17日

 一番近い海堡が第三海堡だったのですが、関東大震災で崩壊したのと航路の確保のために、海中深く没しました。
 しかし、第三海堡の遺構は海中から引き上げられ、一旦追浜の仮置き場に置かれた後、修復されてこの公園に飾られました。


横須賀港 引き上げられた第三海堡遺構 2006年8月17日

 ベトン(Beton:独逸語でコンクリートのこと)と言うのに相応しい、年季の入った地下の兵舎でした。こんな閉鎖空間は戦争でなかったら、閉所恐怖症ではないのでうさおは大好きです。
 この兵舎の詳細については、この遺構の説明図をご覧ください。
 この写真に第三海堡の全容が示されています。


横須賀港 第一海堡 2006年8月17日

 この当時の構造物が鉄筋コンクリートであったかは分かりませんが、あの当時を考えますと重力式の無筋コンクリートであったことが容易に推測できます。
 ですから今回、海から引き揚げる時に、破壊を生じさせないようにどう引き揚げるか、頭を絞ったに違いありません。幾つかの引き揚げ用の鋼棒を通す穴が、この遺構に穿たれていました。そうでもしないと引き揚げの際の海水の浮力が無くなった時点でばらばらになったでしょう。
 引き揚げられた遺構は煉瓦造りの入口の壁も綺麗に残っていました。村風子的なうさおと、いぬいぬしているライ隊員です。下の写真はこの兵舎の裏を通っている地下連絡通路です。


横須賀港 遺構の煉瓦が黒っぽい 焼き過ぎ煉瓦か? 2006年8月17日

横須賀港 遺構の側面 2006年8月17日

横須賀港 反対側に廻ってみます 2006年8月17日

横須賀港 これで遺構の全体の1/20 2006年8月17日

横須賀港 引き上げる時に用いた穴 2006年8月17日

横須賀港 通路部分 2006年8月17日

 これで遺構全体の 1/20 位の大きさですので、海上基地はものすごく広かったことが分かります。何も無い海上に人工島を作り建造されたことを考えると吃驚しますね。遺構はまだまだサルベージされていますので、「追浜展示施設」にも行って見ました。
 最初は何処だか判りませんでしたが、東亜建設工業の看板の出ている現場がありましたので、覗いてみるとそこが引き揚げ仮置き場でした。この日は現場の門扉(「東京湾口航路事務所」の看板も掛かっていました)は閉じられたままでしたが、Caccoは関係の無い隣の工場にずかずか入り込んで写真を撮ってきました。しかし、大急ぎで帰ってくると「早く車を出して・・・どうもあの守衛さんが不審者と思ってこっちに来るから・・・」おお、すげえ、すっかり廃墟マニア振りを発揮しているぞ。


横須賀港 追浜に向かいます 2006年8月17日

横須賀港 東亜建設工業の敷地 2006年8月17日

横須賀港 何にも見えないよ 2006年8月17日

 でも、ここからではネット越しなのであまり良く対象物が見えません。
 そこでこの入り江が見えそうな出島に行って見ました。こっちのほうが良く見えるね。 先ほどの処と同じアーチ状な屋根を持つ構築物が見えます。それとボイラーでしょうか、鉄製の煙突らしきものも見えます。手前に見える大きな壁のようなものは、先ほどの場所の入口で見えたものです。なんだかタイタニック号のサルベージを遠くから見ているようで、早く一般公開してほしいなあ。


横須賀港 横須賀市役所環境部リサイクルプラント 2006年8月17日

 後の話ですが、第三海堡の遺構は写真を撮っているところの、背面の広場に安置されました。またこの施設の裏山に、貝山地下壕がありましたので見に行くことになりました。


横須賀港 遺構が山積みされています 2006年8月17日

横須賀港 手前に先ほどのコンクリート壁が見えます 2006年8月17日

横須賀港 これを引き上げるのに潜水夫が海の底に 2006年8月17日

 この遺構の詳細は、「062貝山地下壕」をご参照ください。
 この帝都防衛ライン、日本を欧米から守るために考えたのだろうが、これを造ったのは誰だろうと考えてしまう。幕末から明治にかけてのこの当時に、これだけの建造技術を持っていたのは日本に来ていた、英国か仏蘭西の工兵隊であろうよね。
 でも、それだと矛盾があるよね。自分達の工兵技術を駆使して造った要塞で、自国の艦隊から防衛するのだからね。それとももう既にその技術を習得した日本人技術者がいたのだろうか?
 確かに琵琶湖子疎水を造った田辺朔郎のような土木の天才も生まれて来てはいましたけれど・・・。


横須賀港 横須賀の観光案内パンフレット 2006年8月17日


 軍港横須賀。今も昔も艦隊の街です。うさおの母が若かりし頃、父と旅行気分で横須賀にでも行ったのでしょうか、「横須賀の観光案内」を持っていました。
 これが結構面白い。
 「觀覧手續」
 横須賀軍港所在艦船部隊其の他海軍工廠、航空隊等海軍諸施設を觀覧せらるゝ場合は左記様式により緊急已むを得ざる者の外觀覧期日十日前迄に横須賀鎮守府宛願書を出す事になって居る。但し個人又は少人数の場合は當日口頭にて直接願出て差支ない。

 「要塞地帯に就ての注意」
 本市並びに三浦半島全部は要塞地帯に属してゐますから海陸共に特別の許可なき限り撮影、模寫、録取等厳しく禁じられてゐます。之を犯す時は處罰されますから寫眞機等は成るべく携帯されぬ様御注意下さい。」

 昭和11年のパンフレットです、すごく軍事色が濃いなあ。
 この年、二・二六事件が勃発、陸軍皇道派将校が約1400 名の兵を率いて首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、朝日新聞などを襲撃しました。
 東京全市に戒厳令が布かれ、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らが殺害されました。
 軍事色が強い当時を反映してか、パンフレットにある土産物なども「東郷煎餅」、「軍艦煎餅」、「武功しるこ」などなど、感心しちゃうなあ。
 そう言えば靖国神社のお土産屋さんも、「(安倍)晋ちゃん饅頭」や「海軍ドロップ」、「晋撃の大臣」、「(麻生)タロ・カポネ」など右寄りだったなあ。


横須賀港 この潜水艦二艦は自衛隊のもの 2006年8月17日

横須賀港 自衛隊の護衛艦はるさめ、イージス艦きりしま 2006年8月17日

 この入り江を挟んで対岸がヴェルニー公園、今立っているところですね。ここは以前は諏訪公園と呼ばれていました。


横須賀港 ヴェルニー公園のボードウォーク 2006年8月17日

 明治維新前の 1865 年に、フランス海軍の技術者、フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837 年~1908 年)は、幕府から横須賀製鉄所(造船と船の修理をする施設)の建設と運営の要請を受け、来日しました。
 日本は開国直後で、海軍・海運の整備が急がれていた時期です。ヴェルニーは、製鉄所のほかに観音埼灯台や走水水道などの建設を手掛けました。まさに横須賀は、日本の産業近代化の発信地となったのです。
 この功績をたたえ、旧横須賀製鉄所(現在は米海軍横須賀基地内)を望むJR横須賀駅から京急汐入駅にかけての海辺に、ヴェルニーの生まれ故郷フランスの庭園様式を取り入れた「ヴェルニー公園」が誕生しました。
 園内には、四季を通して楽しめるバラの花壇や噴水、洋風あずまや、さくらの広場などを配置、海に沿ったボードウォーク(木道)では、心地よい潮風に吹かれて散策ができます。公園の中心の開明広場には、ヴェルニーと並んで幕府勘定奉行・小栗上野介忠順の胸像があります。近代日本の礎を築いた二人の姿は、今も日本の発展を願い、横須賀の海を見つめています。(横須賀市経済部観光課)



横須賀港 ヴェルニー公園を歩く 前方に洋風あずま屋 2006年8月17日

横須賀港 洋風あずま屋 2006年8月17日

 園内には幾つかの碑群があります。「海軍の碑」、「軍艦山城之碑」、「軍艦沖島の碑」、「国威顕彰」、「軍艦長門碑」、「正岡子規の句碑」、「開港碑」、「小栗上野介の碑」、「ヴェルニーの碑」、「記念石」(これは小栗上野介が斬首された河原の石だって、意味わかんね~!)などが展示されています。



横須賀港 海軍の碑 2006年8月17日

横須賀港 軍艦山城之碑 2006年8月17日

横須賀港 国威顕彰 2006年8月17日

横須賀港 この時は晴れていたのだが 2006年8月17日

横須賀港 軍艦長門碑 2006年8月17日

横須賀港 正岡子規の句碑 2006年8月17日


 ここにヴェルニーの私邸があった場所ではなかった様で、本当に只公園だったようです。この碑群以外にも「開明広場」には逸見波止場衛門衛兵詰所がありました。


横須賀港 衛兵詰所 2006年8月17日

横須賀港 軍艦沖島の碑 2006年8月17日

横須賀港 開港碑 2006年8月17日

横須賀港 にわか雨にも負けず取材する Cacco 2006年8月17日

横須賀港 ヴェルニー像 2006年8月17日

横須賀港 小栗上野介像 2006年8月17日

横須賀港 記念石 2006年8月17日

横須賀港 仏蘭西風噴水 2006年8月17日


フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837~1908)(碑文より)
 フランス人の造船技師で、海軍増強をめざした徳川幕府の要請により横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者として 1865 年来日した。
 明治維新後も引き続きその建設と運営の任にあたり、観音埼灯台や走水の水道の建設、煉瓦の製造のほか、製鉄所内に技術学校を設けて日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍し 1876 年帰国した。


小栗上野介忠順(1827~1868)(碑文より)
 日本初の遣米使節をつとめ、外国奉行や勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと横須賀製鉄所(造船所)建設を推進した。軍政の改革、フランス語学校の設立など日本の近代化に大きく貢献したが、大政奉還後に徹底抗戦を主張したため役職を解かれ、領地の上野国権田村(群馬県倉渕村)で官軍により斬首された。

 フランス風の噴水とボードウォークと呼ばれる板敷きの遊歩道が大変綺麗な処ですが、この公園の対岸は米軍のベース(横須賀製鉄所跡地)があり、いやでも戦争の爪あとを思い出させます。(いや、うさおは戦争は知りませんでした。潜水艦を可愛い薩摩芋みたいだと思ったくらいですから。)


横須賀港 公園の向こうには軍艦 2006年8月17日

 このボードウォークを歩きながら、汐入のビル群を眺めて軍港横須賀の新旧の対比をひしひしと感じたうさお達とライ隊員でした。
(この辺りにご興味の方は冒頭の湘南電気鐵道のマップを参照されて散策されると良いと思います。おいおい、今のじゃないから行けないジャン。)


横須賀港 ボードウォークを歩く 2006年8月17日

横須賀港 汐入の街を望む 2006年8月17日

 今回は突然の雨とヴェルニー記念館が閉館だったこともあり、記念館の写真を撮ってきませんでしたので、石渡カメラ店のものを使わせていただきました。URL を載せておきます。
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/syasinn/index.html


横須賀港 ヴェルニー記念館 2006年8月17日

 またご興味のある方のために、「軍港横須賀案内」のパンフレットを掲げておきます。


横須賀港 パンフレット表 2006年8月17日

横須賀港 パンフレット裏 2006年8月17日

横須賀港 パンフレット地図 重砲兵聯隊 海軍工廠の記述あり 2006年8月17日

この地図には、大楠山、金子十郎遺跡(誰でしょう?)、武山不動、満昌寺大介ノ墓ト切腹松、衣笠城址、浦賀ドック、走水神社、角なしサザエ、航空隊、鎌倉宮(大塔宮護良親王)に記述があります。当時の観光地だったのでしょうね。