縁辺の人 今風にいうと、しくじり先生です
2003年頃には、どうやってデータを集めたのでしょう。サイトも残っていません。参照箇所を明記してありませんがご容赦ください。
縁辺の人とは、世の中が大きな円盤とするなら最も外円に居る人々で、今にも世間から落ちそうな人と位置付けることにしましょう。それはうさおもCaccoも他人事ではなく、大変興味を持っている人々のことです。
トマソン隊や読書リストに断片的に書いて来ましたが、今回はその総集編にしたいと思います。
さて、自分のことを円盤の中心にいて、このレコードを回しているのは自分だと思っている人は少ないと思います。うさおだけでなく、多くの人は一度は縁辺にいるぞという意識を経験したと思います。自分はとんでもない所に立っているぞ。ああ、後が無い。
前回の「吾妻ひでお」も片足を踏み外した人でしょう。
ある意味、新庄剛志もなまじ能力があったため、メジャーにチャレンジしちゃいましたけれど、「記録はイチロー君に、記憶はボクに!」と言わざるを得なかった所に、この「縁辺」意識を感じます。
ここで取り上げる縁辺者は、丸田祥三、ウイリアム・アイリッシュ、藤原マキ、桜井亜美、藤沢周平、高田渡、アーサー・キッドです。
知ってる人は知っている。知らない人は覚えてね。
丸田祥三:
廃墟マニア、廃線マニアには、絶対外すことの出来ない人です。風景写真家ですが被写体は、滅び行くものたち。物悲しいノスタルジックさが売りです。あの廃墟王「グリコ隊員」が最も敬愛する写真家だ。丸田については以前Caccoがドクガクで詳細な丸田論を展開しています。
簡単に略歴を再掲しますと、1964年に東京の新宿に生まれました。小さい時から失われていくものに異常な興味を持っていたようです。和光大学を卒業後、東映に入社しテレビ事業部に勤務しましたが、そのわずか5年で、写真・随筆家として独立します。著書に写真集「棄景Ⅰ~Ⅴ」、「鉄道廃墟」などがあり、「少女物語-棄景Ⅳ(春秋社)2000年」でブレイクします。
縁辺の人 丸田祥三
廃墟マニアだけでなく一般の人にも知られるようになりました。
丸田は人間関係を作るのが最も苦手なタイプでそれを自認しています。写真家としては色々な処に出かける必要があり、それによって嫌でも人と交わらざるを得ない状況が生まれることになります。
そこに「棄景」の記録を残すことと、他人と馴染むことに葛藤があったようで、「棄景を写し取ることは生来群れに加われない自分だけに出来る『惨めな目的意識』であった。」そうな。この辺がそそるところです。縁辺の人だなあとつくづく感じます。
縁辺の人 燃えろ消防車
縁辺の人 廃車
『鉄道廃墟』には彼の自伝的な記述が見受けられます。うさおの読書リストを参照するとこうあります。
「彼の気持ちを傷つけたのは初めはヤクシさんです。B社の編集者で団塊世代の割りに若そうなファッションで、「いい気になるな、おまえの代わりなどは掃いて棄てるほどいる」という刺々しい嫌味を言います。
その次がバイト先の同僚の清水さんと言う女の子です。彼女がしみじみと言います。「私も不幸な影を背負ってるけど、お宅も結構不幸なんじゃない。」これでざっくり傷つきます。
そして、とどめは朝倉泉です。髪の長い綺麗な娘だったようで、丸田は思い詰めた恋心を抱いていましたが、残念ながらアッシー君どまり。奔放な彼女は多くの男性と交際し、ついに丸田の果たせぬ想いが爆発し彼女をなじります。これが更に大きな傷跡になったようです。
丸田は著書の中では、無縁のすれ違っただけの人は名前の無い人間として扱っています。自分に嫌な思いさせた人間は実名で出すことで復讐を行うという、つげ義春的性格があるようだ。」
縁辺の人 丸田祥三 マニアには神と敬愛されている
うさおと同じ、見事に縁辺の人でしょう。
参照;DOKU-GAKU vol.17棄景~廃墟への旅~ 丸田祥三を読む Cacco
ウイリアム・アイリッシュ:
別名コーネル・ウールリッチ、ジョージ・ハプリーとしても有名。彼の叙情詩を歌い上げるような書き出しと、日本人的な物悲しさが好きです。彼は1903年にニューヨークで生まれ、少年時代はメキシコで育ちました。 1921年にコロンビア大学に入りますが、学生時代から小説に取り付かれ大学はやめてしまいます。その頃は売れない作家であったようです。
縁辺の人 ウィリアム・アイリッシュ
処女作「Cover Charge」が映画化され、そのプロデューサーの娘と結婚しますが、一ヶ月も持たずに破綻します。この辺りから他人に対する隔たりを感じ始めたのかも知れません。この後、生涯にわたり母親と共にホテル住まいをしています。
縁辺の人 コーネル・ウールリッチと母
31歳頃からパルプ・フィクションを書き始め、下世話なサスペンス小説家として隆盛を極めていきます。彼の作品はヒチコックの映画にもなり、今でもTVドラマ化されています。
「暁の死線」、「幻の女」、「喪服のランデブー」、「裏窓」、「突然アリスは消えた」、「夜は千の目を持つ」・・・突然ですが、うさおはこのタイトルも大好きです。漫画家、石の森章太郎もよくパクリまくっていました。同人誌向きなんですよね。こんな感じが・・・。
少し前の映画、アントニオ・バンデラスとアンジェリーナ・ジョリーの「ポアゾン」は、「暗闇へのワルツ」が原作ですがこんな話だったかなあ。彼が裏切られることを知りながら、彼女を信じ続ける、そんな切ない物語だったような・・・。R18指定だからドキドキさっ。
縁辺の人 暗闇へのワルツ改めポアゾン
巨額の印税が入り、連夜のパーティとホテルのスイート暮らしが続くアイリッシュ。ですが母親の病気と共に筆を絶って行きます。1957年の母親の死がきっかけで、厭人的性格がひどくなり、晩年はアル中で糖尿病により足は壊疽し切断されました。・・・生涯独身でした。
意識して都会の片隅の裏ぶれたホテルに住みながら偏屈な老境を迎えて、時折雑誌社に原稿を送っていたようですが、かつての輝きは無かったようです。その後、消息も絶たれた時期があったようですが、1968年に亡くなりもちろん遺族も無く、葬儀の参列者も僅かだったそうです。遺産はコロンビア大学に奨学金として寄贈しています。
そうだ。これこそ縁辺中の縁辺の人と認定しましょう。
藤原マキ:
ご存知、つげ義春の奥さんだ。氏の漫画の中に色々登場してくるが、私小説的色合いの濃い漫画のこと、結構、実在の出来事をベースに書かれている可能性が高いぞ。
彼女は1941年大阪に生まれます。高校を卒業後、関西芸術座で本格的な演劇の勉強を始めます。そして上京し、色々な劇団、「ぶどうの会」、「変身」、唐十郎率いる「状況劇場」で活躍することになります。
縁辺の人 つげ義春一家
特に「状況劇場」では、「腰巻お仙」の役どころで主役を演じます。「由井正雪」では夜桜姐さんを演じています。
しかし、名作「腰巻お仙」はその後、李麗仙が台頭してくることにより、主役の座を追われます。
かてて加えて、「状況劇場」では演者に一銭のギャラも支払われなかったので、彼女は極端に借金生活に陥って行きます。昼は演劇、夜はキャバレーと掛け持ちをしていましたが、何しろ巡業が多いため、日銭の入りようが無い。
その頃、つげ義春と知り合いの写真家を通して知己になります。「状況劇場」に腹を立て、彼女は自主退団をしてしまい、つげ義春の家に転がり込み、同棲生活を5年ほど続けます。そして一粒種の正助が生まれたので籍を入れ、正式に柘植真喜子となりました。つげ義春も貧乏暮らしで人間嫌いの漫画家ゆえ、今回の縁辺の人に入れる予定でしたが、奥さんも負けじ劣らずであったため、名誉ある縁辺者入りです。
縁辺の人 藤原マキ 私の絵日記
縁辺の人 その中の一コマ 奥の部屋で寝ているのは誰か 箪笥に映った影は・・
写真ではいつも笑い顔しかありません。挿絵とエッセーを書いていたが、絵はつげ義春に相当影響されていることが判ります。でも、つげ義春と結婚しなかったら、こんな仕事は出来たのかなあ。
この当時つげ義春は水木プロダクションに出稼ぎに行ってました。彼女は子宮癌に侵され、つげ義春も不安神経症により仕事が出来ない日々「無能の人」が続き、経済的に相当逼迫してきます。彼女は役者であったように表に自分を出したいタイプであったようですが、つげ義春はその真っ反対。
「平凡なぬるま湯のような生活は嫌だ、太く短く生きたい」が口癖の彼女。その思いは彼女に何をもたらしたのでしょうか。それでも貧乏暮らしにはさほどの不満も無かったようで、他所の家の花や、大根を勝手に採ってきては食卓に乗せていました。享年58歳、旦那よりも早くあの世に旅立って行きました。
桜井亜美:
この人は誰なのか、謎の覆面作家と言うことになっています。どうやら宮台真司の元妻ではないかと言うのが一般的ですが・・・。もしそうであれば、速水由紀子がその人らしい。
職業はフリージャーナリストとなっています。日本女子大学家政学部住居学科卒業?えっ?今、学会でお付き合いしている構造力学の先生がここの大学のこの科の主任教授です。毎年、卒業論文、修論の発表会に私たち委員会のメンバーを呼んで、学生たちの度胸付けと学外の議論を経験させることを行っています。今29歳位だとのことなので、若しかしたら会ったことがあるのかも。
縁辺の人 櫻井亜美
ジャーナリストのときは雑誌記事や著書の執筆、講演活動などを行い、セクシャリティ、家族問題、サブカルチャーなどが守備範囲だそうで、ノンフィクション作品の他に、援助交際の取材経験を元に「桜井亜美」の筆名で小説を発表しているというのが通説だ。ちょっと、エッチな小説だよ。
で、どこが縁辺の人なのか?実は宮台真司も桜井亜美も、ミスター・チルドレンの絶大なファンで、宮台は桜井和寿の詩を深読みすることで有名、それに感化されたのか、速水はペンネームをなんと「桜井亜美」としてしまう。そこからが不幸の始まりになるのだが、小生意気なブルセラ理論を振りかざす宮台と援助交際論の桜井は、そのテリトリィが重なることから二人の間は冷えていくことに・・・。
そして離婚することになります。しかも『宮台真司intervews』(世界書院)の巻末付録の対談で、速水由紀子と桜井亜美と同一人物であることを暴露されてしまう。元夫からの陰湿な復讐だ。
「あなたはもう幻想の女しか抱けない」(筑摩書房)で、歯切れのいい批評を得意とする速水由紀子と、誰が読んでも少年少女のしょぼい小説の桜井亜美のスタンスを壊されて、これからも覆面作家として生きていけるのかな。
縁辺の人 (海外版:イノセント・ワールド 足元にパンティ!)
藤沢周平:
今でこそ色々取り上げられる作家ですけれど、藤沢は中々、文壇にデビューすることが出来ませんでした。奥さんと娘との赤貧の日々が続いたことは夙に有名です。
1927年に鶴岡市高坂に生れます。生家は農業を営み、藤沢も小さいときから農作業をしていました。小学生のときから本を読むのが好きで、特に小説、雑誌を読み耽っていました。県立鶴岡中学校の夜間部に入学し苦学の末、山形師範学校(現在の山形大学)に進み、教員になったことは「トマソン隊-鶴岡編-」で述べたとおりです。
縁辺の人 藤沢周平
縁辺の人 致道館
縁辺の人 般若寺
けれどもこの教員職も集団検診の際に肺結核が発見され休職させられます。翌年、右肺上葉切除の手術を受けるなど、縁辺人らしい不幸さが付いて回ります。回復後も思わしい就職先は見つからず、上京して業界新聞に勤めるも、なにしろ小さな新聞社ゆえ倒産が相次ぎ数紙を転々とすることになります。それでも八歳年下の三浦悦子と結婚するなど、一筋の光はさしています。娘も生まれ幸せが訪れたかのように見えましたが、その年に妻悦子が28歳で急逝してしまいます。その後、「暗殺の年輪」で直木賞を受賞します。禍福は糾える縄の如しの言葉とおりです。
藤沢の映画化された作品で、「たそがれ清兵衛」、「隠し剣鬼の爪」では、実生活の妻と娘との慎ましい生活が描かれています。「せみ時雨」もそうですが、海坂藩(庄内藩)にある実在の神社仏閣、川や山が描かれ郷土に根付いた小説を作り始めます。朴訥とした恋愛譚が好きで、「ご命令でがんすか?ご命令であれば仕方ねいでがんす。」って口走っております。
しかし、順風満帆に見えてもそこは縁辺の人、若いときの手術の後遺症、輸血による肝炎により苦しんだあげく、69歳で死去しました。
彼の場合、世間に楯突いて生きていこうとしたのではなく、受け入れられようと努力して、縁辺に辿り着いてしまった気の毒な人なのです。
高田渡:
学生運動華やかなりし頃、当時うさおが好きなフォーク歌手は、岡林信康、加川良、高田渡でした。一般大衆からの人気は、岡林、加川、高田の順だったと思います。岡林はこの当時その風貌からキリストに例えられフォークの神様と言われましたが、現在では岡林は人々の記憶から消え去り、吉田
拓郎がフォークの神様と言われています。(岡林のほうが縁辺の人と言うのに相応しいかな。)
ボブ・ディラン風に反戦色が濃くないとフォークと言われなかった時代であったことを考えると、本来の姿に戻ったと言うべきか、隔絶の観があるぞ。加川のねちっこい歌い方、高田の上手いとも下手とも言えない淡々とした歌い方に魅力を感じていました。
縁辺の人 高田渡
縁辺の人 タカダワタル的
さて、高田渡が亡くなってからも彼に関する記事が、朝日新聞に連載されています。団塊の世代の記者がレクイエムを歌いたかったのでしょう。生前、筑紫哲也のニュース番組で、彼を特集したことがあります。その中で未だに演奏活動を続けている姿と、一時あれだけ有名になった高田が、アパート住まいであることに吃驚しました。それにうさおとほぼ同年であるにも拘らず、老成した雰囲気を持っていたことで、既に80歳を超えているのでは思わせました。「タカダワタル的」と言う映画が昨年公開されましたが、今も淡々と歌い続ける姿がそこにありました。客観的に見たならば、(吉田拓郎などと比較するならば)彼は明らかに縁辺の人だと思います。
高田はこの「タカダワタル的」(監督:タナダユキ、狂言回し;柄本明)により、若者の層にも高田渡が知られ始める前に、2005年4月、公演先の北海道で帰らぬ人となりました。享年56歳でした。
縁辺の人 新聞記事
高田は岡林、加川とは異なり、昭和の添田唖蝉坊(辻演歌師)として身を置いていたように思います。途中から自らの詩を作ることより、山之口獏、ラングストン・ヒューズなどの詩を借りて自己の表現をしていくことを選びます。「汽車が田舎を通るそのとき」は、CaccoかTicaさんがLPを持っていたなあ。
「タカダワタル的」のDVDを買いました。中川イサトだとか、早川義夫(Caccoによると今は古本屋の主人らしいです)の名がありました。懐かしかった。実は今回のトマソン隊の企画は高田渡を思ってのことでした。どうやらうさおは高田を縁辺の人から円盤の中ほど位に引き戻したかったのかも知れない。このDVDを見ていてすぐ気が付いたのですが、高田が志向していたのはボブ・ディランではなくカントリィ・アンド・ウェスタンだったんだなあってこと。今でも口の中でぼそぼそ言うMCとステージの上での冷酒は健在で、ライヴ中に酔って眠ったこともあった。彼こそが縁辺の地に居ながら、縁辺を楽しんでいた人で、世俗の欲なんざあ、ありゃあしねえよって呟いていそう。
アーサーキッド:
Eartha Kittが正しいスペルなので、アーサ・キットって言うのが本当なのかも。ずーとアーサーキッドだと思っていました。まだ進駐軍が闊歩しているときに町に流れていたのが、この人の「Sho-Jo-Ji(ショージョージ)」でした。ある大人は真しやかにこう言いました。
「南方の戦線で日本軍が米兵を待ち構えていると、米軍がこの曲を流すんだよ。そうすると望郷の念に駆られた日本兵がばらばら投降したものさ!」ふ~ん。
縁辺の人 アーサーキット
後で調べるとちょいと年代が違うような。まあ、終戦直後に良く流されていたことは確かなようです。それよりも「Come Come everybody, everybody How are you?」って曲と小さい頃、混同していたような。この歌はアーサー・キットじゃないよ。NHKの英会話教室のテーマソングさ。
縁辺の人 意外と肉体派
そして、江利チエミが「ウシュクダラ」をカバーします。この人は何だか演歌歌手のような人だなあって思っていました。すげえ小節は効かすし。入社当時に昔のことが懐かしくて、当時出回って来ていたEP盤レコードを買ったら、ジャケットに簡単な略歴とその後アルコール中毒になり消息が掴めないと書いてあったように覚えています。(うさおのことだから当てにはならないけどね) ええ~?縁辺の人だなあ、これ、アイリッシュのようじゃありませんか。そう言えばその当時、リー・モーガンの「サイドワインダー」が好きで聞いていましたが、そのジャケにも同じような記述が。アルコール中毒の末、消息が絶たれたと・・・。
この失踪にも驚きましたが、本当のサプライズはこれからでした。実は生存していたんです。
アーサーは1927年にBlack Cherokee(北米黒人インディアン)の母と白人の農夫との間に生まれました。子供の頃には肌がミルクコーヒー色だったことから、黒人たちからイジメを受けて育ちます。 後の芸能生活では肌が黒いということで役を貰えず苦労の日々を過ごすことになります。
16歳でKatherine Dunhamの黒人舞踊団に参加し、アメリカ、南米、ヨーロッパを廻った後、歌手としても才能を開き、歌って踊れるエンターテナーとしてパリのナイトクラブに出ていました。
縁辺の人 ナットキングコールと共演
縁辺の人 キャットウーマン ワイルドだぜ
歌手として名声が上がるに従い、1950年代から映画や舞台に出演するようになります。この時期に数々のヒット曲を出します。映画監督のOrson
Wellsはアーサー・キットを「世界中で一番刺激的な女」と称賛して映画に呼び寄せたそうです。1952年に初めて故郷の合衆国で「New Faces
of 1952」を出します。1954年にはその映画に出演し俳優としても才能があることを示します。TVのNat King Cole showの出演や、TVのBatmanで「Catwoman」を演じています。
さて問題はここです。1968年のこと、ホワイトハウスの昼食会に招かれたアーサー・キットはジョンソン大統領夫人にベトナム戦争反対の態度を明らかにします。このことで彼女はアメリカ国内では仕事をすることが出来なくなりました。CIAも絡んで10年間をヨーロッパで過ごすことに。この時期に買ったレコードでは、このパージのためにアルコール中毒になり、ようとして消息が掴めない扱いになったのかもしれない。もの凄い縁辺の人になってたんだね。
これでこの人の人生は終わっちゃたのかと思ちゃいました。
しかし、今でも現役で歌ってますし、黒人から白人に代わっちゃってますし・・・。
縁辺の人 アーサーキット近影
本当にサプライズです。彼女のサイト、http://www.earthakitt.com/を見てください。今年の予定がばっちり入っています。縁辺を脱した人として挙げておきます。