赤羽の旧陸軍兵器補給廠専用線


武豊線と紀勢線

 新幹線「のぞみ」に乗って名古屋に行きました。万博を見に行ったんじゃあないです。武豊線と紀勢線の調査のために現場踏査に行きました。
 両方の線も電化されておらず、2から3両のディゼルカーでした。しか も 1 時間に 1 本の運行です。
 武豊線は名古屋から車で、2時間程度の場所でJRよりも名鉄線のほうが整備されている処で、お客さんの少ない線です。紀勢線も同様です。


武豊線 完成したばかりの高架橋と橋上駅 2005年8月31日

武豊線 ディーゼル車だから架線がありません 2005年8月31日

武豊線 緒川駅 2005年8月31日

武豊線 緒川入江跡、ここまで入江でした 2005年8月31日

武豊線 史跡看板 2005年8月31日

武豊線 この柄はハゼかな 2005年8月31日

 今回の紀勢線の目的地「尾鷲」まで車で4時間も掛かりました。線路に沿った道路を走ります。駅にはお客さんが殆どいません。JRだから経営的に持ち堪えていると思います。そうね、特急ですら時速 70km で、鈍行に至ってはなんと時速 20km ですよ。有りかな?今時!(あっ、一部に不穏当な言葉がありましたことをお詫びいたします。 )


紀勢線 紀北町小山浦付近 2005年9月1日

紀勢線 向こうは天狗倉山かな 2005年9月1日

紀勢線 のどかな田園地帯 2005年9月1日

紀勢線 道の駅海山で昼食 2005年9月1日

紀勢線 この辺りは熊野古道 2005年9月1日

紀勢線 馬越峠が近い 2005年9月1日

 紀勢線は度重なる台風、大雨の影響で橋脚を流されたり、レールだけが残ったりしても、それでも地域の住民のために生きています。今にも廃線になりそうですけど、重要な路線でこれが無くなると、道路以外の交通手段はありませんからね。で、今回は語り残した廃線跡を重点にトマソン隊を進めます。

瑞穂埠頭界隈

 我が家の近くに米軍のベースキャンプがありました。東神奈川のミルクプラント、瑞穂埠頭の軍用補給廠、 専用線などがそれに当たります。  あまり近くだったため、近頃取り壊されると言う噂を聞いたにも拘らず、ミルクプラントの写真を撮りに行きませんでした。終戦直後、ここ県立金属工業指導所が接収され、5棟の建物が建てられ、アイスクリームなどの乳製品が作られていました。
 1997年には返還されミルクプラント はノースドック(瑞穂埠頭)に移転が 決まりました。見事に取り壊 され保育園になってしまいました。


東神奈川・ミルクプラント跡 2005年9月4日 

東神奈川・ミルクプラント跡 保育園 2005年9月4日  

東神奈川・ミルクプラント跡 京急の引込線裏も用地でした 2005年9月4日

東神奈川・ミルクプラント跡 保育園の前の用地もプラントでした 2005年9月4日

瑞穂埠頭  

 仕方がないので瑞穂埠頭の近辺を以前より詳しくご紹介します。
 地図をご参照ください。今は米軍に接収されていますが、以前は日本軍の弾薬補給基地でした。出入口は細い埠頭入口 の専用線だけ。


瑞穂埠頭 2004年5月2日現在の地図

瑞穂埠頭 明治15年の地図 ノースドックは無い

 相模原の弾薬補給廠から横濱鐵道(現横浜線)で東神奈川駅、海神奈 川駅を経由し、瑞穂埠頭に導かれ 船積みされたと思われます。
 この地は江戸から明治に掛けては外国船からの防衛の砲台があり、中央卸売市場の近くに台場跡が残っています。
 江戸時代から戦略的に重要な拠点だったんでしょうね。その時代の地形図が残っており、東海道(今の国道1号線) で台場の位置を見てみると判ります。昔は砂州が海に延びている地形をうまく利用して砲台場を造りました。
日本陸軍も用いたであろう貨物引込み線が橋の隣にある線路で、今も使われているのか、手入れも良く現在の 貨物線まで延びています。
 この専用線は、在日米軍が管理をしており、「Keep out」の看板が立てられています。中はどうなっているのか窺い知ることも出来ません。


瑞穂埠頭 この橋は鉄道との併用橋 2004年5月2日

瑞穂埠頭 米軍専用鉄道線 2004年5月2日

瑞穂埠頭 米軍専用鉄道線 東神奈川方面を望む 2004年5月2日

瑞穂埠頭 ビュースポットです 2004年5月2日

瑞穂埠頭 貨物線は鶴見、川崎に向かっている 2004年5月2日

 この辺りは古くから倉庫街だったようで趣のある倉庫が残っています。
 三井倉庫とか甘粕倉庫とか・・・。


瑞穂埠頭 有名なポーラスターとスターダストのバー 2004年5月2日

瑞穂埠頭 三井倉庫群 2004年5月2日

 臨海貨物線旧横浜鉄道の「海神奈川」駅もこの近くにあった筈で、瑞穂駅のひとつ手前でした。この駅は貨物線専用駅だったため、詳細な記述はありませんが、高島町方面の貨物線との交差する辺りにありました。決定的な場所もうさおはまだ知りません。
 この貨物線の鉄路の雰囲気は鶴見線に通じるものであり(実際、鶴見線とも通じています)、遠い日の記憶に何か触れます。こういう記憶の中に父が居るのはどういう訳でしょう。
 父に連れられている自分が見えます。そして、傍には日出彦さんもいたような・・・。これって凄く、昭和です。

寒川支線跡

 廃線の項で紹介した寒川支線ですが、これも相模線や横浜線の貨物線に繋がっており、多分全盛の当時でも余り民間には開放されなかったところでしょう。
 でもこうして、当時の鉄路が残っており、市民に開放され遊歩道になっているのは、結構、趣ってもんがあるじゃありませんか。
 それにもまして思うのは、鉄路と軍事施設はなぜこんなに、関連性が深いのでしょうか。そして良く残っています。撤去するにはお金が掛かることもあるでしょうが、残して欲しいと言う地元の方の思い入れのほうが強いのでしょうか。


寒川支線跡 相模海軍工廠跡の碑 2001年10月8日

寒川支線跡 線路が残っている 2001年10月8日

寒川支線跡 トロッコの遊具があります 2001年10月8日

寒川支線跡 鉄輪も残っています 2001年10月8日

寒川支線跡 遊歩道になっています 2001年10月8日

寒川支線跡 洒落ているね 2001年10月8日

寒川支線跡 寒川駅ホーム跡 2001年10月8日

寒川支線跡 寒川駅ホーム跡 2001年10月8日

相模原の造兵廠専用線跡

廃線跡
米軍基地内に突っ込む形の専用線跡
 淵野辺駅から相模原駅にかけてに、横浜線に繋がる弾薬庫線の跡が残っています。うさおの小学校の脇を横浜線が通っており、相模原にあった旧日本軍の軍事施設はそのまま進駐軍の管理下におかれ、時、おりしも朝鮮戦争の真っ只中だったため、単線の横浜線に戦車を載せた貨車や軍事物質(弾薬か?)、燃料タンクの貨車が通っていました。
 ここ渕野辺では、多分軍用線の部分返還に際し、記念のために自宅の庭のなかに軌道の一部が存在する風景が生まれたのでしょう。これをうざいと思うか、ノスタルジィと感じるか。


造兵廠專用線跡 踏切脇のお宅の庭に 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 旧線路が残っています 2005年8月14日

 旧陸軍造兵廠に続く専用線はこんな所にも残っています。手前側はつい最近建ったマンションで、反対側の金網の中は米軍の基地です。前方に見えるのは矢部駅です。


造兵廠專用線跡 草地が造兵廠専用線跡 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 上矢部団地全景 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 敷地の先に米軍弾薬庫 2005年8月14日

 矢部駅から、旧陸軍造兵廠までの引込線が残っています。モニュメント化していますが貴重な遺構です。


造兵廠專用線跡 米軍のヤードに向けて 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 団地に入っていく 2005年8月14日

 基地の周りを見ながら、この鉄路の行き先を見ていきましょう。


造兵廠專用線跡 右が団地、左が弾薬庫 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 米軍施設 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 給水塔 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 専用線の終点近くの米軍施設 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 軍用トラック 2005年8月14日


 この上矢部団地の脇にこの廃線は続きご近所の方の一坪菜園になっています。
 指差す処にそのまま鉄路は残っており、とても良い散歩道ですが、「ライ隊員お断り」の看板があちこちに。
 気にしないで歩いていましたらご近所の奥様方の厳しい目が・・・。


造兵廠專用線跡 終点近く 鉄路が残っている 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 草が鉄路に生えている 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 踏切? 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 ここです、鉄路は! 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 ここでシーしていいですか 2005年8月14日


造兵廠專用線跡 さあ、急いで逃げよう 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 両脇は一坪農園 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 鉄路はここまで 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 このおじさん、実はフォークダンスしてます 2005年8月14日

 そして公園の中には、相模陸軍造兵廠跡の石碑が。


造兵廠專用線跡 相模陸軍造兵廠跡 2005年8月14日

 また、横浜線の東神奈川方(鉄道マンの符丁で終点、または起点の○○方面を言うときに「方」と言います。」に緑の草に覆われた広いエリアがあり、草の合い間から僅かに鉄路が望めます。
 冬になるとこの鉄路は明らかになるのですが、まさしく夏草や兵どもの・・・を地で行く廃線跡です。


造兵廠專用線跡 横浜方の不自然な敷地 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 よーく見ると鉄路が 2005年8月14日

造兵廠專用線跡 ここは分岐部だね 2005年8月14日

赤羽の旧陸軍兵器補給廠専用線

 赤羽台団地と桐ヶ丘団地には、大きな給水塔がありました。桐ヶ丘団地の給水塔は今も残っていますが、赤羽台団地の給水塔は無くなってしまいました。道中で所々に出てきますのでご注目下さい。


兵器補給廠専用線 赤羽台団地給水塔 2005年9月4日

兵器補給廠専用線  2005年9月4日

 さて、下の航空写真は昭和10年の赤羽駅周辺で、上下に通っている電車は東北本線です。左手の丘は昔の工兵第一大隊、近衛工兵隊の練兵場で、今は星美学園となっています。ここの坂を師団坂といい、今でも地名が残っています。
 着目していただきたいのは、その麓を巡る道路(赤線)です。


兵器補給廠専用線 昭和10年頃の航空写真

兵器補給廠専用線  2005年9月4日

 地図の赤い線のところが専用線があった処です。この道路のルート上に、旧陸軍兵器補給廠専用線が敷かれていました。明治39年に練兵場、被服廠、火薬庫、造兵廠を結んでいます。 東北本線の一部である京浜東北線から分岐して走っています。
(http://www.kitanet.ne.jp/ ~kiya/hometown/tikeizu.htm)
 江戸から明治の時代は、官軍の火薬倉庫がこの辺り(帝京病院付近)に造られ、明治には陸軍の赤羽火薬庫になりました。

 現在は赤羽八幡神社の参道を始点として、旧陸軍兵器補給廠跡の「西が丘競技場」まで 遊歩道で続いています。
 赤羽は軍需の町として栄え人口も増えましたが軍属も多かったようで、今風な団地のような町並が地図に残っています。陸軍兵器補給廠の周囲で、稲付射場も含まれていましたので、住民は不穏な毎日だったかも。 とり合えず昭和の初めからの航空写真を眺めてみま しょう。


兵器補給廠専用線 昭和22年(戦後)~昭和38年 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 昭和49年から平成13年 2005年9月4日

 年度を追うごとに画像の精度は上がっていくのが判ります。昭和38年までは、ここにまだ鉄路があることが見て取れますが、昭和49年になると緑の通路になっておりますので、廃止されたのでは思います。  昭和59年の変化にお気づきでしょうか。東京方面から伸びて、星美学園の下を掘る工事が進んでいます。東北新幹線の工事です。殆ど開削工事で行われており、アンダーピニングと言って、建物の杭を切って受け替える工法が採用されています。
 時代が変わると、東北本線、貨物線の線数も大分減っています。平成に入ると殆ど現在の線形と変わりはありません。

 では、本題の旧陸軍兵器補給廠専用線跡を見てみましょう。 ここは赤羽八幡神社の参道でここが起点になります。昔、この大鳥居の処に蒸気機関車の給水場があったと聞いています。 今は東北新幹線の高架橋が空間を断ち切り視界を遮っています。


兵器補給廠専用線 赤羽神社碑 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 神社の境内 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 神社の境内 2005年9月4日

 赤羽八幡神社も神殿はこんなに立派で、奥のほうに赤いお狐様が一杯飾ってありました。


兵器補給廠専用線 八幡神社本殿と赤羽八幡神社 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 赤いきつねと赤羽招魂社 2005年9月4日

 古風な和洋折衷の住居がこんなところにありました。何か由緒があるのかしら。


兵器補給廠専用線 大正、昭和のロマン漂う住居 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 手入れが良いので神社さんのものか 2005年9月4日


兵器補給廠専用線 この参道が線路敷跡 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 この参道が線路敷跡 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 鳥居は線路が撤廃されからのものか 2005年9月4日

 赤羽八幡神社の岡の上から見下ろすと、ちょうど東北新幹線の E2 系の列車が走って来るところでした。


兵器補給廠専用線 登り参道の鳥居 2005年9月4日

 赤羽八幡宮、星美学園は小山の上にあります。 今はその下を東北新幹線が通っていますが、昔はお宮の脇を通った線路は師団坂を横断をする形で伸びています。


兵器補給廠専用線 師団坂を望む 2005年9月4日

 現在は空地になっていますが、もう直ぐ開発が進む予定の処で、弧を描くような敷地の形です。


兵器補給廠専用線 線路敷跡 2005年9月4日

 東北新幹線が見えなくなってきました。犬のお散歩に最適な地域です。皆さんもそう考えるらしく、「ライ隊員」お散歩禁止の看板が一杯です。


兵器補給廠専用線 線路敷跡 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 線路敷跡 2005年9月4日

 この区間を過ぎると遊歩道の北区赤羽緑道公園になります。


兵器補給廠専用線 緑道公園入口 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 煉瓦色跨線橋の手前下を横切る専用線跡 2005年9月4日

 ここの専用線跡は軌道を模したペーブメントがあるだけです。味気ないなあ。


兵器補給廠専用線 あじけない線路跡 2005年9月4日

 東京都の公園らしく、野鳥、野草の観察メモのようなものがあったよ。
 これが 40~50 箇所くらいあるので、健ちゃんのようなコレクターには堪らない場所で、写真撮りまくりだね。


兵器補給廠専用線 これは蝶々の説明 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 これは鳥の説明 2005年9月4日

 道路を渡るところに、鉄道橋のような歩道橋があります。でも見え見えのイミテーションなのに少しがっかり。遠くから見つけたときには大喜びだったんだけどね。


兵器補給廠専用線 これは煉瓦じゃあない 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 コンクリートブロックだ 2005年9月4日

 そこには機関車の動輪を模したデザインの手摺が付いています。余りにも綺麗に出来過ぎで興ざめだなあ。


兵器補給廠専用線 綺麗すぎる鉄輪 2005年9月4日

 動輪の形状から見ると、蒸気機関車のけん引する貨物列車のようだが、それなりに重量はあったと思います。敷石のデザインがかつての軌道敷を再現しているなら、1067㎜のサブロクゲージだったと思われます。※サブロクとは3ft6inchのこと。


兵器補給廠専用線 分岐部 島式の駅か、すれ違い場所か 2005年9月4日

 嘗て駅舎のあった場所なのでしょう。


兵器補給廠専用線 駅があった処? 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 緩やかに下っていく 2005年9月4日

 遊歩道の途中の場所で、赤羽台給水塔が見えてきます。今は取り壊されているので貴重ですよ。


兵器補給廠専用線 遊具でもない変なモニュメント 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 の間から赤羽給水塔 2005年9月4日

 これが鉄橋なのってくらい形骸化したミニュチュアのようなもの、いくらなんでもこれじゃあ情緒が無いよ。 まあ、ここがこの通りの短い橋なら、デックガーダーだった可能性があるので、落下防止みたいなものかな。それともこれが実物の下路トラス桁だったのか?


兵器補給廠専用線 鉄橋のミニチュアか 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 緩やかに曲がっている 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 道路を隔ててまた緑道がある 2005年9月4日

 遊歩道の終点はこんなところ。左の建物は福祉の施設だった。


兵器補給廠専用線  2005年9月4日

 遊歩道の終点から道路一本を隔てた処に緑地があり赤羽自然観察公園だった。


兵器補給廠専用線  2005年9月4日

兵器補給廠専用線  2005年9月4日

 旧陸軍兵器補給廠の跡が西が丘競技場で、ここが終点です。 みなさま、大変長らくのご乗車、有難うございました。


兵器補給廠専用線  2005年9月4日

兵器補給廠専用線  2005年9月4日

兵器補給廠専用線 ここからも給水塔が見える 2005年9月4日

 西が丘競技場の近くにある自衛隊の駐屯隊用地。いきなりこんな広いものが団地の中に出てくるよ。演習もやるのかな。結構、赤羽はハードな街です。


兵器補給廠専用線 自衛隊駐屯隊用地 2005年9月4日

兵器補給廠専用線 自衛隊駐屯隊用地 2005年9月4日

次回は廃線跡続きで相模鉄道米軍基地線と廃駅をしましょうか。
 


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