関内あたりの遺構群 2005年5月7日
横浜のお洒落な町は「元町」でしょう、東京で言えば「六本木」、「原宿」って処です。異国情緒が漂い、維新のから明治にかけての新しい文化を取り入れてきたレトロ感のある町です。
結構、元町には国内でも著名なお店が沢山あります。
「きたむら」、「みはま」、「FUKUZO」、「Pompador」なんてのが良く知られています。
元町の喫茶店 元町カレー 2005年3月5日
その隣のお店に 2005年3月5日
ええっ、「大麻入り?」のビール 2005年3月5日
高校時代に憧れだったフェリス女学院の学生さんは、他校の女学生さんとは一線を画す、明るい水色の襟のセーラー服でした。
このフェリスの女学生さんが昔からご愛用してきたのが、「きたむら」のバッグ、「みはま」の靴、「FUKUZO」のドレスで、後に「ハマトラ」
※注1と呼ばれるファッションはここで生まれます。
横浜はアイスクリン
※注2、ビール、パン屋さんなどの発祥の地です。パン屋さんは、本来ならクラークさんと打木彦太郎さんが興した「ヨコハマベーカリーウチキ商店」を嚆矢とするのですが、うさおは「木村屋」や「pompador」のフランスパンが大好きでした。拳骨パンと私達
※注3が名付けたお尻の格好をしたパンもありました。
うさおはあの長いフランスパンでも一口でペロリです。(ライちゃんはいい子だ!なんでもパクパク食べる。お父さんもパクパク食べる。血の繋がりは怖いなあ。)
それ以外にも、新聞、電信、劇場
※注4、床屋さんなど特に関内には維新当時のものが結構残っています。しかし、その軌跡を辿るのは容易ではありません。今の横浜は新しい建物が林立し、よほどの歴史的価値のあるものしか保存されません。
お家に台湾の旦那さんが来て 2004年11月28日
ローピン(葱餅)を作ってくれました 2004年11月28日
ライはお手伝いもせず遊んでました 2004年11月28日
さすがに美空ひばりクラスになると像ひとつくらいは残されるけど、私達はせいぜい風俗史にかつていた原住民ってな扱いで、辛うじて写真ぐらいが残るだけでしょうね。
市の情報誌「横浜」や「我が町の今と昔」あたりから素材を拾ってきて、私たちも現地に取材に行って見ますが、遺構を探せないこともしばしば。そんな思いを万感に込めてお贈り致します。
横浜拾遺物語。
反町にも遊郭があったということで行って見ましたが
※注5、○○楼跡なんて石碑もありませんでした。(花街だからしかたがないかなあ)花街と言えば伊勢佐木町の福富町もかつてはソープランドで有名でありましたが、その以前はキャバレー街(福富太郎というキャバレー王がいた)だったし、それが今や韓流の町として有名らしい。
福富町にだってソープランド跡とはどこにも書いていません。まあ、横浜公園には、岩亀楼の遺構が残っていますがレアケースです。
だから歴史って奴はお上品なんだからあ。音楽で言うなら、まあクラシックは認めるが、タッキー&翼なんて認められないぞって、正史からは消されてしまうのは多々ありそう。
野毛にある美空ひばり像 2003年12月26日
東京キッズの唄の時ですね 2003年12月26日
みなとみらい線の開通により、消えてしまった東急東横線の高島町と桜木町。その高島町にはかつての横浜駅があり、遺構がつい2年前くらいに掘り出されました。Cacco隊員たちの労作がこれ。まずは高島町から。
高島町、桜木町駅が無くなる なぜ同じものが2枚も 2004年1月30日
桜木町行、最後の走行日 2004年1月30日
高島町駅に屯する愛好家たち 2004年1月30日
高島町駅ホーム 2004年1月30日
一方、桜木町駅にも多くの東横線の最後の走行日を惜しむ人たちが集まっていました。
桜木町駅ホーム 2004年1月30日
桜木町駅が終端駅 2004年1月30日
よく知られていることですが、横浜駅は三代に渡って場所が変わっており、初代が桜木町駅でここから居留地の関内
※注6に人力車で行けました。この駅のファッサードは、新橋の汐留駅とそっくりです。当然ですね、新橋駅(汐留駅)-横浜駅(桜木町駅)は、日本で初めて汽車が走った時に、両端駅を双子駅に作ったんです。設計者は、アメリカ人のR・P・ブリジェンスさんです。
初代横浜駅 とうよこ沿線より
復元された新橋駅(汐留駅跡) 2019年3月15日
新橋駅(汐留駅跡)西側 2019年3月15日
二代目が今や地下鉄の駅にしか名前が残っていない高島町駅です。見事なレンガ造りの建物で、関東大震災で崩壊しました。駅のあった場所は今まで明らかではありませんでしたが、マンションの建設時に地中から煉瓦基礎の遺構が現れました。その頃の建築技術の高さを改めて感じますね。それを発掘した時の基礎遺構が下の写真です。
二代目横浜駅 絵葉書より
二代目横浜駅(高島町)の基礎遺構 2003年6月26日
コンクリートと煉瓦積みの基礎 2003年6月26日
三代目の横浜駅は、西側よりも東側の方が開けていました。高島屋、ジョイナス、西口地下街が出来たおかげで、今や西側の方が繁華街です。デパートも、東口にそごう、西口に高島屋、三越、岡田屋が進出しましたが、残念なことに三越は撤退してしまいました。
三代目横浜駅 崎陽軒より
横浜駅西口の再開発中 東口のビルが露わに見える 2016年7月22日
さて、その桜木町駅(旧横濱駅)にモニュメントが残っているのと情報があり、また駅長室遺構もあるということで行って見ました。
モニュメントの碑は直ぐに見つかりました。駅前にすっくと立っています。碑の台座は動輪を模しています。三面の大きなものです。
桜木町駅周辺 2005年5月7日
鉄道発祥の地 記念碑 2005年5月7日
駅前の記念碑 台座は動輪 2005年5月7日
この面には創業当時に横浜駅が 2005年5月7日
西裏面に回る 2005年5月7日
鉄道創業の地の碑文 2005年5月7日
東裏面に回る 2005年5月7日
鐡道列車出發時刻及賃金表 2005年5月7日
しかし、駅長室跡が見つからない。見るからに鉄チャンぽい駅員さんにも聞いて見ましたが、モニュメントの碑は教えてくれたが、どうも駅長室跡は知らないらしい。
そう言えば微かに思い出したことがあったぞ。みなとみらい線の重役をしていた友人から、確か野毛に行く地下道の入口にあるとかを聞いたような気がする。
探す。探す。あっ、あった、あった。
あったけどこれじゃあ、普通の人は見つからないよ。よっぽどマニアじゃ無いとね。こんな小さいとは思いませんでした。ライ隊員も吃驚さっ。
野毛に向かう地下道 2005年5月7日
開業当時の横濱駅長室跡 2005年5月7日
さて今度はパーマー中尉の水道遺構を見に行きましょう。横浜は水道の発祥地であります。(参照、トマソン隊水道の項)
まずは中華街の外れにある下水道の遺構。
こんな所にひっそりとあります。中華街と元町の狭間にある中区下水道事務所の玄関です。その碑にはこうあります。「横浜の下水道の始まり:ここに展示の構造物は、昭和56年2月に中区山下町37番地地先から発掘された卵形下水管である。明治3年に関内居留地区内全域に陶管を埋設した。 これがわが国最初の近代的下水道であった。その後明治14年からこれをレンガ造りの下水管に造り変えた。その断面が卵形をしていたので、卵形管と呼ばれる。このときの卵形管の一部は中華街南門通りで現在も使われている。」現在も使われているってえのが凄いですねえ。(江戸弁風に)
卵型下水管 2005年4月9日
中区下水道事務所前の煉瓦下水管 2005年4月9日
消防救急発祥の地 2004年3月20日
開港資料館
※注7を出てすぐのシルクセンターの前の広場に水道の地下遺構がガラス張りで見えるようになっています。
煉瓦マンホール 2003年11月3日
煉瓦マンホールガラス張り 2003年11月3日
中を覗くが羊歯が繁茂して見えない 2003年11月3日
そして、山下公園の水道栓、開港資料館の庭にある水道栓は、以前にもご紹介しました。
山下公園の水道栓 2004年3月20日
インドから贈られました 2004年3月20日
さらに桜木町から野毛の通りに向かうと水道鉄管とパーマー中尉のレリーフがかざられています。
野毛三丁目公園 2005年5月7日
光ってよく見えない 2005年5月7日
日本最古の水道管 2005年5月7日
パーマーさんの足跡は色んな所に残っているのです。そのまま足を野毛山に向け野毛山公園に行くとパーマー像が出てきます。その像の裏手にあるのが水道貯水池です。
ここの水は居留区以外の横浜の街をも潤したのでしょう。そこの空気抜きの塔は明治っぽい趣です。今日は何か犬の品評会をやっていたのか、犬だらけです。車に残してきてごめん、ライ隊員。
野毛山公園 2005年5月7日
ヘンリー・スペンサー・パーマー像 2005年5月7日
野毛山浄水場 2005年5月7日
展望台 2005年5月7日
アール・エフ・ラジオ日本 野毛山無線基地 2005年5月7日
野毛山プール 2005年5月7日
この前会社に来た地盤屋さんが、以前行った川崎市の仕事で、そこの水道管をボーリングマシンで穴を空けて仕舞ったことがあるそうな。それが二ヶ領用水につながるもので、地域一体が氾濫したとか、この用水も横浜の水道に用いられていました。
さてようやく本題です。って今までのは前振りかい!関内はじいちゃんの項で述べたように西洋歯学の始まりの地です。中華街の南側に関帝廟(あの関羽を祀ってあるところ)の近くに歯科医師発祥の地の碑が建っています。また、ニューグランドホテル
※注8の裏側に歯科医学発祥の地の碑が建っています。残念ながらじいちゃんの名前はどちらにもありませんが。
歯科医師発祥の地の碑 2005年4月9日
碑の裏側 2005年4月9日
歯科医学発祥の地の碑 2005年6月25日
碑の表面 2005年6月25日
エリオットとパーキンス 2005年6月25日
そして鶴見には鶴見大学(総持寺が鶴見女子短期大学の延長線上に作った歯科大学)があり、そこの瀬戸教授
※注9が建立したと言われる歯塚があります。抜いた歯の供養塚です。日出彦さんが以前行ったマイクロディバイスの供養のようなものですね。
ちなみに歯塚というのは、古くからあるもののようでお寺さんや神社さんに多く見られると聞いています。昔から歯というものにある畏怖の念を抱いていたのかも知れません。ちょいとノスタルジックですね。
鶴見大学の歯塚 2005年7月24日
歯塚もストックすると結構面白いかもしれない。全国にあると聞いているので、集めるのに至難の業かもしれない。由佳さんのお寺さんにも、この塚はあるかもしれないな。
事のついでに麦酒発祥の地も行ってきました。山手のゲーテ座
※注4の前の坂道を本牧のほうに下っていくと、北方小学校に突き当たります。その交差点の近くにビール井戸があります。この前の通りを「ビアザケ通り
※注10」と言いますが、もう少し下ると公園がありそこに麦酒発祥の地の碑が建っています。
日本最初の麦酒工場の碑 2005年5月7日
麒麟麦酒開源記念碑 2005年5月7日
碑文 2005年5月7日
麦酒井戸 2005年5月7日
麦酒井戸 2005年5月7日
碑文 2005年5月7日
さて、最後が何となくトマソンです。鶴見の横溝屋敷の近くにある、まだ田園地帯ですがここの電柱は何故か赤く塗られています。
それも限られた範囲だけですので、大変疑問です。
さて、答えは何でしょう。
1 周囲の木に見せかけた。
2 魔物を封じる結界である。
3 雷が落ち安いように赤く塗ってある。
2005年7月24日
次回は又近郊の廃線をやりたいものです。
余計な注釈
※ 注1:ハマトラ Yokohama traditional のこと。横浜ベースターズ(TICAさん)と阪神タイガース(Cacco)のファンのことを言うのでない。類似の言葉に「ハマジル」というのがあるが、これも浜で取れたての魚介類の具沢山の味噌汁のことを言うのではない。Yokohama
Jitterbugのこと。
※ 注2:アイスクリン 昔はこう発音されたね。アイスクリームのことです。自転車で売りに来ていた叔父さんは、「アイスクスッスー」って言って居た様に覚えていますが・・・。
※ 注3:私達 まっ、幼き日のうさおの家族って事ですか。恥ずかしいから、他で「お尻パン」なんて言っちゃあダメですよ。
※ 注4:劇場 以前にトマソン隊で書きましたゲーテ座(本当はゲイティ座)のこと。当時のことですから紅灯緑酒に騒ぎもの!ってことでリクリエーションが求められていました。オランダ人ヘフトは新聞の発刊、ビールの醸造と横浜の物の始めに色々手を染めています。(横浜もののはじめ考 横浜開港資料館版より)
※ 注5:反町 神奈川大学の近くに、浜田省吾さんが住んでいたというアパートをTICAさんと探訪したときに、ついでに行きました。何もありませんでした。反町の山のほうに横浜シネマ商会があります。佐伯永輔氏が興したもので、ニュース映画やNHKのテレビ放送の映画の現像など行っていました。NHKのすごいことはフィルムの運搬にセスナ機を使い、栗田谷中学の校庭に離着陸させていたことです。(わが町の今と昔より)
※ 注6:関内 居留外人と邦人を分けるための関所が設けてあったらしい。関内には馬車道、汽車道があり、汽車道は横浜万博のときに復元されました。「汐風號」、「浜風號」の2両の気動車が作られました。これに一度も乗っていないんですよ。横浜で行われた万博だったんで、すっかり馬鹿にしていたんですね。
※ 注7:開港資料館 横浜開港資料館のこと。子供の頃のここは、英国領事館だった。ユニオン・ジャックが翻っていたね。この前の海岸通りには、ミニ・ホワイトハウスを模した米国領事館があった。いまは創価学会池田講堂ですけどね。横浜は各国の領事館が集まっていたように思う。大使館は東京だったけどね。
※ 注8:ニューグランドホテル 戦後はGHQがこのホテルを占拠していました。マックアーサーが執務室としていました。もともと、横浜のお金持ちの間でのステータスな場所で、華僑が年間契約で宿を取っていたとか。最高の贅沢は、開港記念日の花火をこのホテルで会食を取りながら見ることだとか。ユーミンの歌でも有名です。スノッブだね。
※ 注9:瀬戸教授 横浜の歯学学会に隠然とした政治力をもった先生。
※ 注10:ビアザケ通り ヘフト以前に横浜でビールを醸造していたのは、コープランドでこの地、山手天沼にスプリング・ヴァレー・ブルワリーを開所しました。「天沼ビアザケ」として売出したので、この坂をそう呼びます。イタリア料理のことではなく、ましてや鮭入りのピッザのことではありません。