ザ・鶴岡  2003年6月22日


 さて、鶴岡は武士の街です。街の雰囲気は程よく文化的であり、スーパーストアーなどが整備されつつあり、都市化されていると感じるのですが、一歩裏に入るとそこに武家屋敷や寺院、裏店があり、江戸時代そのままで、しかも時代劇を髣髴とさせる野原や森が現存しています。


鶴岡市の地図 観光協会に貰ったパンフレットから

 小さな水戸の街のようである。しかも、維新や明治の香りも色濃く残っており、ノスタルジックが好きなうさおは嬉しくなってしまいます。忘れてしまった日本という感じなのですよ。
 確かにそりゃあ、街で掛かっている曲は、「あゆ」の曲であり、「ケミストリー」なんですが、でも、そこの辻に佇んでいるのは「たそがれ清兵衛」なんだよね。
 そう、この街は「藤沢周平」の世界なんです。街には、藤沢周平小説の舞台があり、その由来を碑文が語ってくれる仕掛けだ。
 上の地図に緑色の丸番号がありますが、引用された小説のタイトルはこれです。
①「臍曲がり新左」/金峯山
②「三月の鮠」/高坂
③「ただ一撃」/民田
④「花のあと」/湯田川温泉
⑤「紅の記憶」/井岡寺
⑥「ただ-撃」/日枝神社(小真木)
⑦「蝉しぐれ」/内川(荿橋)
⑧「又蔵の火」/総穏寺
⑨「義民が駆ける」/大督寺
⑩「三屋清左衛門残日録」/本町二(七日町)
⑪「義民が駆ける」/庄内藩校致道館
⑫「花のあと」/鶴岡公園
⑬「三ノ丸広場下城どき」/家中新町
⑭「蝉しぐれ」/内川(三雪橋)
⑬「秘太刀馬の骨」/大泉橋
⑬「蝉しぐれ」/龍覚寺
⑬「凶刃用心棒日月抄」/般若寺
⑬「龍を見た男」/善宝寺


文庫本のカバー 文藝春秋版 (1988/05)

 藤沢周平の作品はこれまでにも幾つか、図書館で借りて読んでおり、まあ、そこそこの評価をしていました。映画の「たそがれ清兵衛」の評判がよいので、原本も読みたいと思いました。
 映画を観ずに読んでいた昔は、それほど面白い作家だとは思いませんでしたが、映画がとても面白い。そのせいで読み方が変わったのか、これが結構面白い。


藤沢周平氏 鶴岡市立藤沢周平記念館チラシより

 これと似た記憶がふと過ぎりました。ああ、それは座頭市だ。
 勝新太郎の「座頭市物語」を見て、面白いじゃないかと思い、原作を調べたら子母沢寛だった。どんな小説かと思っていたら、これは氏のエッセイ「ふところ手帖」でページにして一ページ半というところか。江戸の末期の時代、笹川の繁蔵だか、飯岡の助五郎だかの一家に、盲の博打打ちが草鞋を脱ぎ、この男が滅法居合が巧い。並の目明きなんぞは、歯が立たなかったという。そういう人物がいたと言う記録があると言う、ただそれだけの文章です。それが物語りになる。面白いじゃないか。

 所謂、天保水滸伝の世界です。三波春夫で俗ぽっくなっちゃったけど、「利根の川風、袂に入れて月に棹さす高瀬舟」と名調子の関東博徒傳である。
 天保水滸伝は笹川繁蔵と飯岡助五郎の二人の侠客の争いが舞台だ。確かにこれだけでも芝居になるが、座頭の市が加わると新たな切り口のピカレスク・ロマンが生まれちゃうね。
 余談ですが、笹川繁蔵は、文化7年に下総国須賀山村の生まれで、代々醤油と酢の醸造を営んでいた大金持ちだったんですが、江戸に出て相撲取りになってから身を持ち崩し、やくざになりました。
「どうせやくざになるんなら、自分もいい親分について、出世がして見てえ。そういうつもりで上州に来ました。通りかかった峠の茶屋。暖簾潜って中へと入る。」って、これは広沢虎造の赤城の血煙だったね。



 兎にも角にも博徒の一家を張ることになりました。
 一方、飯岡の助五郎は、笹川の繁蔵が邪魔くさくて仕方が無い。天保15年、大利根河原の血闘があり、笹川繁蔵は大勝利をするのですが、助五郎は十手持ちでもあったため、繁蔵を罪人に仕立て上げ、後にビヤク橋で謀殺してしまいました。
 この時、笹川繁蔵、38歳の男盛りであったと言います。




 まっ、とまれ、鶴岡は藤沢周平という作家で盛り上がっています。(唐突だね!)
 あるお寺さんに行くと、看板があり、そのお寺さんを舞台にした氏の小説の一節が書かれています。それが昔からの歴史上の事実でもあるかのようにです。

 架空の海坂藩が物語の地域なんですが、地名は鶴岡藩のものをそのまま使っています。 藩の塾舎跡にも同様な立て看板があります。橋や城壁の残り、板塀にも、同じような看板が建てられていて、藤沢周平の物語の由来があり、駅や観光協会で渡される地図の地番には、番号が振ってあり、観光客がお参りし易いようになっています。

 もっとも、全部回っても四国巡礼のような、有難い御利益は無いようですが。




ザ・鶴岡 戸沢村黒淵すべりどめ観音 2003年6月22日

ザ・鶴岡 地滑りの兆候を観測している井戸 2003年6月22日

ザ・鶴岡 すべりどめ観音の由来 2003年6月22日

ザ・鶴岡 道の途中にあった鉄道橋(デックガーダー) 2003年6月22日

ザ・鶴岡 道の途中にあった殉難之碑 2003年6月22日

ザ・鶴岡 風車の列 2003年6月22日

ザ・鶴岡 大鳥居 2003年6月22日

ザ・鶴岡 常夜灯? 道標?道祖神? 2003年6月22日

 裏町を歩いていると、土が現れている道ではないのですが、そんなふうに感じます。たぱだのアスファルト道路なんですが、これが文学の力でしょうか。「たそがれ清兵衛」の気分で歩いていると、おっ、蔵だ!お寺だ!お屋敷だ!って、現れてくるので目が感激して潤むよ。

 藤沢周平は結構、不遇の人だったようです。
好きだぞ、不遇の人は。他人事じゃあないからね。周平は、幼少のときは暇があればいつでも本を読んでいるもの静かな少年だったそうです。小学校を首席で卒業後、高等小学校から鶴岡中学校の夜間部に進学し、昼は印刷会社や黄金村役場で働きながら生活をしていたそうで、絵に描いたような苦学生をして学校を卒業しました。
 山形師範学校を卒業後、湯田川中学校に教師として赴任しましたが、何と、肺結核になりわずか2年で退職することになりました。
 6年間もの療養生活の後に、東京で業界新聞の仕事に就きました。結婚して家庭も築きました。しかし、奥さんを28歳の若さで失い、同居していた病弱な母と幼稚園に通う娘を抱えながら、苦境の中で再婚をしました。
 この時期が彼の不遇時代の最盛期だったようです。やっと生活も安定し、昭和46年に「溟い海」でオール読物新人賞を受賞しました。さらに昭和48年に「暗殺の年輪」で直木賞をも受賞しました。
 そして平成9年に亡くなりました。享年69歳でした。


 作品の主人公の多くは、優れた才能はあるのですが、下級武士に生まれたために、収入はそこいらの町民よりも貧しいし、内職をしなければ食って生けない、そんな人物ばかりです。
 曾ての東映、大映の時代劇のような若殿とお姫様が出てくる訳ではありません。どちらかと言えば、東宝、松竹のイメージですね。
 この辺の設定は、山本周五郎と似ていますが、貧窮の度合いが山本周五郎より、更に下の設定だ。山本周五郎は貧乏でも明るく生活をしているのだが、藤沢周平の貧乏は暗い。
 継ぎも当てていない衣類や、ほつれたままの鬢、風呂にも入れない武士がわんさかと出てきますが、この武士たちが登城が許されたお目見え以上のお武家様なんだから、そりゃあ驚きさ。この、われらがサラリーマンを暗に揶揄したところが身に詰まされるのかなあ。

 鶴岡は短期滞在だったので、3箇所しかこの史跡?を回れませんでしたね。
 庄内藩校致道館と龍覚寺、般若寺です。後でS君の処にも行かなきゃいけないんですよ。


ザ・鶴岡 内川に架かる鶴園橋 2003年6月22日

ザ・鶴岡 この橋を渡って進むと大宝館に至る 2003年6月22日

ザ・鶴岡 大宝館 2003年6月22日

ザ・鶴岡 大宝館 鶴岡公園内にある 2003年6月22日

ザ・鶴岡 醤油か味噌の倉庫? 2003年6月22日

ザ・鶴岡 味噌蔵? 今は鶴岡倉庫になって居る 2003年6月22日

 致道館が面白くて時間喰っちゃいましたからね。
 致道館は幕末と明治維新の狭間に作られた藩の塾ですが、今は資料館になっています。 庄内藩は財政の行き詰まりに、農民救済の問題、藩士たちの奢侈の風潮などの問題を抱え、9代藩主 酒井忠徳が白井矢太夫に相談し、藩政の建直しを図るために塾を創りましった。文化2年(1805年)に致道館が完成します。名前の由来は、論語の「君子ハ学ビテ以テソノ道ヲ致ス」からきています。
 藩の役所と兼ねて使われ、多くの優れた人材を世に送り出しました。廃藩置県により、明治6年(1873年)に廃校となりました。


ザ・鶴岡 致道博物館マップ 

ザ・鶴岡 致道館 旧西田川郡役所 2003年6月22日
ザ・鶴岡 致道館 旧西田川郡役所 2003年6月22日

ザ・鶴岡 致道館 特徴のある建物 2003年6月22日

ザ・鶴岡 致道館 旧鶴岡警察署庁舎 2003年6月22日

ザ・鶴岡 致道館 民俗文化財収蔵庫 2003年6月22日

 その後には、県庁舎や警察署、小学校に使われたり、一部は取り壊されたり売られたりなどしたようです。内に飾られていたものは、たいした物はありませんでしたが、喫茶室が良かったです。裏手が酒井候の茶室跡でした。


ザ・鶴岡 致道館の内部 2003年6月22日

ザ・鶴岡 致道館の内部  2003年6月22日

ザ・鶴岡 致道館の内部  2003年6月22日

ザ・鶴岡  致道館の内部 2003年6月22日

ザ・鶴岡 致道館の内部 洋風の絵画 2003年6月22日

ザ・鶴岡 致道館の内部 竜吐水 2003年6月22日

ザ・鶴岡 致道館の内にある御隠殿  2003年6月22日

致道館の内にある御隠殿

玄御印傳関

ザ・鶴岡 致道館 田麦俣の民家 2003年6月22日

ザ・鶴岡 酒井氏庭園 2003年6月22日

ザ・鶴岡 酒井氏庭園 鴨かなあ 2003年6月22日

ザ・鶴岡 酒井氏庭園 弥陀来迎標碑 2003年6月22日

ザ・鶴岡 酒井氏庭園 2003年6月22日

 駅にレンタカーを返して歩いていける範囲を、周平マップで見ると、龍覚寺と般若寺でした。
 道々面白いマンホールがあったので、蓋を撮り捲くりました。年代ものの消火栓もあったよ。ノスタルジックだなあ。うさ臣の句心が少し燃えたよ。


ザ・鶴岡 消火栓が随所にある 2003年6月22日

ザ・鶴岡 由緒のありそうな安良町公民館 2003年6月22日

ザ・鶴岡 廃校かな 2003年6月22日

ザ・鶴岡 今クラゲで絶大な人気を誇っている加茂水族館 2003年6月22日

 まず行ってみたのが「般若寺」。墓地によくある何やら由緒ありげな陽明門風な山門。 中で供養でもしているのかな。覗いてみたい。それにしても存在感があるなあ。

 般若寺そのものは、普通のお寺さんだ。回りを見渡して見たけど、普通の住宅街で想像力をかき立てるものはありません。
 ここは「用心棒月影抄 凶刃」の舞台だ。
 「殿が組を解けと申されるからには、何か理由でも」
 「理由はある」と榊原は言い、去年の秋に城下に旅の者が横死し、その死骸が二日ほどして消失するという事件があったのを知っているかと言った。 
 又八郎はうなづいた。
それは城下で一時大きな評判になった事件だった。城の北濠のそばで、刀による深手を負って絶命している町人姿の旅の者が発見され、町奉行の手の者によって、般若寺に運ばれた。」

 物語りも寂しかったが、現実のお寺さんはそれ以上の寂しさだ。寂しいは、静寂とは違う、人の往来もなさそうなお寺さんだ。
 般若寺という名前からすると、真言律宗なのだろうか?夏の暑い時期だったので、私達以外に参拝者はいない。ん~ん、鶴岡だものね。


ザ・鶴岡 般若寺 2003年6月22日

ザ・鶴岡 般若寺 2003年6月22日

ザ・鶴岡 般若寺 2003年6月22日

ザ・鶴岡 般若寺 2003年6月22日

 龍覚寺もやはり小ぢんまりとしたお寺さんですが、丁度法要が営まれていて、今終わった言う雰囲気。玄関先に出て来た若い娘さんが、とても綺麗な娘さんで一際眼を引きました。
 綺麗な娘さんが出てくる藤沢修平の小説みたいだね。って喜んでいたら、何か変な感じがするぞ。
 それは看板だ。看板には龍興寺と書いてある。
 地図には龍覚寺と書いてある野に、お寺さんの立札は龍覚寺と書いてあるよ。
 鶴岡市の方で間違えたのなら、お寺さんの方で違うと言うだろうし、これは謎だ。今の住職さんがご宗旨を変えて、寺号を変えたのか。藤沢周平の作品の中では龍覚寺だったので、2つ名前で呼ばれているのだろうな。藤沢周平の作品「蝉しぐれ」では、こう記されています。

 「門内に入ると境内の砂利に、午後の白い日が照りつけていた。鐘楼から本道の裏にかけて、小暗い森ほどに杉や雑木が生いしげり、そこにも蝉が鳴いていた。
 文四郎と市左衛門は仏殿の階段を上がって寺内に入った。
 仏殿に入ると、入り口に帯刀のままの武士が数人いて、二人を見るとすばやく誰何の声をかけて来た。そこで姓名を改めると二人の刀を取り上げ、そこから仏殿の内部に案内した。」



ザ・鶴岡 龍興寺 2003年6月22日

ザ・鶴岡  2003年6月22日

ザ・鶴岡 龍興寺 2003年6月22日

 微かな、江戸時代の余韻を味わいながら寺を後にしました。

 この地は高山樗牛の生誕地です。とは言うものの住宅地の片隅に碑がひとつ建っているだけの、寂しさ感じです。なにか句が生まれそうですが・・・・。
 樗牛は東大在学中に読売新聞懸賞小説に入選し、出版社博文館の「太陽」の編集者して評論活動に勤しみました。
 日本主義、ニーチェ主義、日蓮主義と短い三十二年の生涯に思想の遍歴をしています。 日本近代化の思想の悲劇を象徴した文学であったそうな。そして『日本美術史』で文学博士号を得ます。


ザ・鶴岡  2003年6月22日

ザ・鶴岡 春日神社(加茂港) 2003年6月22日

ザ・鶴岡 県道356号赤川に掛かる鉄橋 2003年6月22日

ザ・鶴岡 県道356号赤川に掛かる鉄橋 2003年6月22日

 余談ですが、文系の博士号は大変取りにくいと聞いています。
 文学者は自分が世界でただ一人の貴重な学者と思っているところがあり、他者の論旨には見向きもしない。変な話ですが、博士号というのは大学の自、他学部の教授や、公聴会における他大学の教授の一人でも反対があると貰えない仕組みです。
 理系の博士号は、地力、体力、時の運で決まると思っています。地力とは、他学部にも学会にも影響力のある教授に付くこと、体力は仕事とは別に朝方までパソコンと会話ができること、時の運は、他人があまり手掛けていない分野の研究をしているということであり、理系は最初から博士号取得のレールが敷かれているためあまり反対者が居ません。
 それで、取りやすいのだと思う。文系は潰し合いになるので、取れないぞ。だから、文学博士ではなく、哲学博士を取る人が多いのだそうです。

 閑話休題です。なんと、高山樗牛はヨーロッパ留学を目前に病没しました。う~ん、やっぱり鶴岡って暗いなあ。

 おまけはまた、S君がらみの取材だね。
 山形に隠れスタジオを持つ歌手のS君の家に遊びに行きました。二階の窓のカーテンが揺れただけで、「誰か居る!怒られたらどうしょう!」ってびくびくしているcacco、怒られるようなことしていたの。家の周りを2、3回巡っただけじゃないか。
 

ザ・鶴岡 S君のスタジオ 2003年6月22日

ザ・鶴岡 S君のスタジオ 2003年6月22日

ザ・鶴岡 S君スタジオ 今は人手に渡ったって聞いているなあ 2003年6月22日

 この裏手にあるのが湯野浜で、砂浜と温泉のある街です。昔は庄内交通湯野浜線が走っていましたが、廃線になり善宝寺駅跡の博物館に車両が一台残っていると聞いています。
 S君のアルバムの表紙に使われた灯台を撮影しに行きました。


ザ・鶴岡 湯野浜 2003年6月22日

ザ・鶴岡 湯野浜 2003年6月22日

ザ・鶴岡 湯野浜 2003年6月22日

ザ・鶴岡 灯台のある加茂地区 トンネルは旧道路の跡 2003年6月22日

ザ・鶴岡 加茂の灯台 2003年6月22日

ザ・鶴岡 加茂の灯台 2003年6月22日

ザ・鶴岡 加茂の灯台 巨大なテトラポッド 2003年6月22日

ザ・鶴岡 加茂の灯台 2003年6月22日

ザ・鶴岡 加茂の灯台 何かの石碑 2003年6月22日

ザ・鶴岡 加茂の灯台 庚申塚と鳥海山の碑 2003年6月22日

ザ・鶴岡 加茂の灯台 銅像は阿部與十郎 2003年6月22日

 その彼がご愛用している庄内空港がこれ。庄内空港は山形県の日本海側、酒田市と鶴岡市のほぼ中間に位置しています。山形空港に次いで県内2つめの空港として、平成3年10月に滑走路2,000mで開港しました。
 現在は東京、大阪(関西)、札幌線が運航されています。ただし、ANAだけですよ。 


ザ・鶴岡 庄内空港 2003年6月22日

ザ・鶴岡 庄内空港 2003年6月22日

ザ・鶴岡 庄内空港 2003年6月22日

 ここの屋上にとってもセクシーな女の子ペアが居て、写真に撮りたかったけれど、勇気がありませんでした。残念。 飛行場は閑散としていました。日曜日だからかな。駐車場もがらがら。遊びに行くには持って来いの場所だ。 周りに広い公園が有り、キャンプ場もある。アウトドアなら此処に来てもよかったね。ライ隊員。

 その空港から、ほど近い田圃の真ん中に、いきなりジャスコが現れました。シネコンもあります。Tsutayaだ、文化ジャン。アメリカぽいな。
 S君はサーフィンの帰りや飛行機で来たときには、此処に寄るらしい。もっとも地元でもS君がいるなんて誰も知らない。S君は大変地味なので、「コメリ」の店員さんも誰だか判らないと思うけど、「フライディー」はちゃんと激写したとか。えらいなあ。それを持ってくるcacco隊員も。


ザ・鶴岡 JUSCO、コメリの店舗 2003年6月22日

ザ・鶴岡 コメリの店舗 2003年6月22日