長井ダム  2003年6月21日 


 最上川ダム統合管理事務所の広報によれば、長井ダムの概要は以下のようなものです。
 長井ダムは、東北地方では比較的大きな重力式コンクリートダムで、高さは125.5m、長さは381m、広さは約120万m³です。27年の歳月をかけて、2011年(平成23年)3月に完成しました。これにより上流にあった管野ダムは水没しました。
 ついでに、完成写真もお借りしてしまいましょう。(見に行ったのは工事途中の状態でしたからね)


 長井ダム 地図 2003年6月21日 googleより

 長井ダム 山形・新庄行きに乗ります 2003年6月21日 

 長井ダム  2003年6月21日 最上川ダム統合管理事務所より

 長井ダム  2003年6月21日 最上川ダム統合管理事務所より

 ごめんね、今回はライ隊員の出番は無いんだよ。山形って遠いし、新幹線にライ隊員は何故か乗せてもらえないからね。
 Cacco 隊員が某S氏の私宅(それもお忍びのね)を見に、山形に行きたいと言うので、そのついでに山形県の長井ダムを見に行くことになりました。ダム建設は最近では環境破壊の筆頭に上げられています。
 国の予算もここ数年激減しダムの建設計画もぱったり見かけません。しかし、最近の原発の事故や河川流域の洪水などを目の当たりに見ると、水力発電としてのクリーンエネルギー、治水としてのダムの必要性は明確なので、その目的が明らかなものは、国土インフラとして是非、必要です。既得権予算の消化のためのダム、道路建設は、これはまったく不要でしょう。って、少し硬かったかなあ?。


 長井ダム  2003年6月21日 この山合にダムが建設されます。

 長井ダム  2003年6月21日 ライ隊員はお休みね!ぐー、ぐー

 長井ダム  2003年6月21日 ダムの堤体位置です

 長井ダム  2003年6月21日 工事の概要の看板

 この見学会も日本土木工業協会の「100万人の市民現場見学会」に参加したもの。前回は南千住駅の橋の架替工事の見学に行きました。
 この見学会の趣旨は「日本の国土は、この地球上でもかなり厳しい環境にあります。国土面積は狭く、かつ山岳地帯が国土面積の70%近くにも達し、急峻な地形であるために可住地面積も狭く、加えて世界有数の地震多発国であるとともに、火山国でもあります。さらには風水害の多発国ともなっています。いっぽうで、地下資源はほとんど何もありません。
 このような国土状況のなかで、1 億2千万の人々が、安全に、豊かに、安心して暮らせるようにするには、まだまだ整備しなければならないものがあります。わたしたち建設業は、こうした社会資本整備の一翼を担うものとして、国土づくりのあるべき姿についてみなさまと一緒に考えてまいりたいと思います」とあります。
 足代は自前ですが、参加費はなんと無料で、見学中のバスやら、飲み物、お弁当が附きま
す。FAX で申し込むと誰でもが行けのでうれしい限りです。
 うさおは、日本土木工業協会の漫画を担当していたことがありましたので、現地に行くと幹事さん(各見学会ごとに協会の理事さんが付きます。例えば清水建設、ハザマ建設の副社長クラスの人です。)にスタッフサイドとして、ご紹介されます。漫画の名刺は持っていないので、会社の名刺を出すと、何か変な顔をされます。
 誰だ、こいつは?な感じすが、本業は鉄道土木コンサルタントですって言うと、なんとなく和んできます。土木屋の仲間だなって感じです。でも、あんまり世話を焼かれると、ちょいと気分が重いです。いろいろ、帰るときにもご挨拶もしなきゃとか、考えちゃいます。
 さてこのダムは、重力式のオーソドックスなダムですので、大量のコンクリートを使い、その重さで水の圧力を押さえ込みます。


 長井ダム  2003年6月21日 この山ひとつが丸々無くなるぞ

 長井ダム  2003年6月21日 ダム脇の巨大なプラント場

 長井ダム  2003年6月21日 切り出された砕石

 長井ダム  2003年6月21日 

 長井ダム  2003年6月21日 タイヤが大きいので喜しいうさお隊員

 長井ダム  2003年6月21日 この位置の方が迫力満点

 長井ダム  2003年6月21日 ホッパーもごつい

 長井ダム  2003年6月21日 ダムのために設けられた道路トンネル

 そのため、すぐ隣の山を丸々削って、コンクリートの骨材にしてしまいます。前頁の薄緑色の山の部分がそっくり、逆さまにしてダムになると考えれば良いですね。
 水の量の極端に少ないコンクリートをプラントからホッパーで運び、ブルドーザーで均し、ローラーで転圧します。次の打設までに大きなブラシマシンで表面を磨くことをします。グリーンカットって言います。
 ダムの施工に関しては、拙書「コスト縮減の・・・」の小冊子をご覧くださいね。えへへ
 高さ30mはあるホッパー。建設機械が小さく見えます。
 さて、余談ですがこの日の見学は、地元の地権者を集めてのものでした。ハザマの方にCacoo 隊員を紹介すると、あろうことか「いやあ、道理で垢抜けた方がいらっしゃると思いました」とのたもうてから、急に周りに地元の方がいるのに気づき、もにゃもにゃと後を濁してしまいました。うん、不適当な発言だね。しかも、外交辞令とはいえ、ちょいと褒めすぎだな。Cacoo 隊員がこれ以上、増長されると威張られちゃって嫌だなあ。


 長井ダム  2003年6月21日 垢抜けた方なのか?

 長井ダム  2003年6月21日 ダムの底です

 長井ダム  2003年6月21日 ダムの底を上から見ると

 長井ダム  2003年6月21日 30mを越すホッパー

 長井ダム  2003年6月21日 ホッパーに向かって歩く

 長井ダム  2003年6月21日 ここがダムの中に埋め込まれる地下道、PC版で先に形を作ります。

 長井ダム  2003年6月21日 地下道の中

 長井ダム  2003年6月21日 表に出ました

 長井ダム  2003年6月21日 鈴なりの見物客

 長井ダム  2003年6月21日 ここに水が入ってきたら、大パニックだ

 長井ダム  2003年6月21日 小さく見えるが大きいです

 長井ダム  2003年6月21日 この安全柵の中だけ移動が自由です

 長井ダム  2003年6月21日 空中輸送

 長井ダム  2003年6月21日 ダムの形が少し見えて来ました

 長井ダム  2003年6月21日 ここまで仕上がっています

 長井ダム  2003年6月21日 ここに巨大なダムが現れてくることになります

 ダムの底に立つと結構、スケール感に圧倒されます。地球を救うのも破壊するのも、人間だなあと感じる一瞬でもあります。


 長井ダム  2003年6月21日 野川まなび館

 長井ダム  2003年6月21日 野川まなび館内部

 長井ダム  2003年6月21日 現場事務所のお姉ちゃんたち 何だか楽しそう

 長井ダム  2003年6月21日  事務所に連れて行かれて、何故かおどおどしているうさお隊員

 長井ダム  2003年6月21日 ハザマ・前田建設工業・奥村組の現場事務所です。

 長井ダム  2003年6月21日  事務所の地図を指して、長井ダムの位置を示している

 写真の若いお姉ちゃんは、案内の人。の割には自分が楽しんでいるね。
 建設事務所に連れて行かれた、うさおたちは、茶菓の接待を受けた後、あの異常な高値の山形のさくらんぼを一箱お土産に貰うのでした。幸せですう~~~~。(‘_’)

 さて、場面は一転して、某C隊員の要望によりS氏別邸へ。その途中の気に入った景色をいくつかご紹介です。新旧の構築物が入り混じったおり、そこが山形っぽく見えます。


 長井ダム  2003年6月21日 陸羽西線の沢を渡るデックガーダーの形式の橋梁です。

 長井ダム  2003年6月21日 その鉄橋の傍にあった棄景 ブランコと鉄棒 誰が遊ぶのか

 長井ダム  2003年6月21日 捨てられた道路トンネルの跡

 長井ダム  2003年6月21日 風力発電の風車群

 長井ダム  2003年6月21日 風力発電機の威風さ
 長井ダム  2003年6月21日 鶴岡・湯の浜の喫茶店にて

 長井ダム  2003年6月21日 東根駅前にて

 この捨てられたトンネルは、○ス○ル御殿の近くにある海岸縁の道路にありました。中は意外に広いのです。
 もう少し北寄りの海岸の近くには、風車村があります。
 写真にするより現地のほうが、迫力抜群、巨大感があります。
 さて、C隊員のお目当て、○ス○ル御殿は上の写真です。地下には、録音スタジオもあるというりっぱなもので、こんなに大きな家です。
 贅沢、贅沢。これが新興住宅地の中にあります。周りの家とは一味違います。C隊員は写真スクープ誌を片手に探すこと暫し、見事に見つけました。執念、執念。
 さて、左下は佐藤英助翁の銅像。誰かと一字違い。彼の手のさくらんぼが盗まれたのは、この後の話。さて、この町はどこでしょう。答えは写真の中に。さくらんぼ日本一の町ですよ。

 さて、次は藤沢周平の鶴岡の話です。
 陸羽西線は老朽化した線路が多く、随所にいい被写体があります。この鉄橋もそうです。良い仕事していますねえ。


 長井ダム  2003年6月21日 ○ス○ル御殿

 長井ダム  2003年6月21日 ○ス○ル御殿

 長井ダム  2003年6月21日 ○ス○ル御殿

 長井ダム  2003年6月21日 湯の浜町の公民館

 さて、以前TICA さんより、こんな質問が来ました。うさおの記事をなにやら、疑っています。(^^♪

「前のDGのうさおさんの自分史みたいなの。 あれで「共立女子校」ってあったけど、横浜共立って、前の名前ってそれだった?確か、昔はコウランだったって小林さん(註:TICA さんちの近所のおばさん)が言ってたことあったし、共立女子って今も神保町(註:東京)にある学校だからどうなのかなって思って。昔のことは知らないけど、今は横浜共立と共立女子は別の学校って認識です。」
 ふ~ん、そうだったのか。ではでは、齒科醫事衞生史(昭和15 年10 月25 日刊 日本齒科醫師會)をもう少し克明に参照してみましょう。


ヂョーヂ・エリオット

 「セント・ヂョーヂ・エリオット(St.J.Eilliott D.D.S.米国 1837.**.**-大正4 年ごろ) セント・ヂョーヂ・エリオットが日本に來航したのは明治三年(一八七〇年)である。(註 明治二年と記するものあり)。エリオットは天保九年(一八三七年)一〇月紐育に生まれ、父は眼科醫であつた。初め兵士となりて南北戦爭に從軍し累進して聯隊司令官附将校となったが、負傷の為め除隊し、戦爭の終期に至り再び軍醫官として陸軍に入り戦爭終焉後は独立開業した。(中略)
 エリオットが横濱に來た時には二名の外國人が齒科を開業してゐた。其一人は佛人で、他の一人は米人だった。何れも極めて低級の開業で、エリオットが開業するや數週で佛人は内地に入りて佛語教師となり、米人は歸國したといふ程で、いかにエリオットに人氣があつたかが想像される。(註 此二人の外國人齒科醫の事は全く調査の史料を缺く)。(中略)
斯くしてエリオットは横濱山手に住居を構へ、又海岸の五十七番館を借受け之を改造して治療所としたのである。エリオットの住居はどこにたつたかといふに、S.R.ブラウン博士の西隣であつた。
 ブラウン博士は山手二百十一番でエリオットの宅は二百十二番であつた。ブラウン博士宅の南隣地は(二百十番)今の共立女學校の所在地に相當する。(中略)
 日本人への福音を分かつといふ傳道の立前から、ドクトル・シモンズの切なる勸告から邦人の患者
をも取扱ふこととなつたが、エリオットの自記によれば、木戸孝允も其患者の一人なりといふ。明治
事物起源(石井研堂著)によれば「エリオットが治療を施せし邦人は米國より歸朝したる翌日來りし
新島襄と通辯を同行して來た西郷從道の外は絶てなかりき」と記す程に邦人患者は少なかつたやうである。(原文のまま)」


当時の共立女學校

 はは~ん、文中では「今の共立女學校」って表現されていますね。もっとも「今の」って言うのは、戦前の昭和15 年のことですけどね。

 横浜の共立女學校の成り立ちは以下のようなものです。
1871(明治4 年)米国婦人一致外国伝道協会より派遣されメアリー・プライン、ジュリア・クロスビー、ルイーズ・ピアソンの3人の婦人宣教師によって横浜山手四十八番に学園の前身である亜米利加婦人教授所(アメリカン・ミッション・ホーム)が創立された。
 1872(明治5 年)山手二百十二番(現在の場所)に移転。日本婦女英学校と改称。通称ドリーマススクール。
1875(明治 8 年)校名を共立女學校と改称。
1951(昭和26 年)学校法人に変更,校名を横浜共立学園中学校,横浜共立学園高等学校と改称。
 はて、おかしいですね。この学校は明治5 年に山手二百十二番に移転していますが、その場所はエリオットが住んでいた場所ですよ、何故、齒科醫事衞生史にあるように山手二百十番ではなかったのか?どちらかの史料に誤りがあるようです。どちらにせよ、横浜・山手に在住したのは間違いないところと思います。ですから、現在の正式な名称は「横浜共立学園」です。


現在の横浜共立学園 学校案内より

 では名称の混乱が生じているのはなぜなのか。
 さて謎の解明のために、「共立」と言う名前を追ってみましょう。東京の共立女子学園が有名ですので、そこの100 年史を参照してみます。「もともと共立という語は、二、三の公共団体もしくは数名の個人が共同して、学校を起こすような場合、その校名にの上に冠せられた普遍的な名称で、(中略)全国に共立何々学校と呼ばれた学校がたくさんあった。それらの学校ないし校名は、時代と共に消え去り、(中略)今日では共立といえば本学園の略称としておおかた世間に通用している。」だそうだ。当時は共立の名前の学校が沢山あったってことですね。この学校は明治時代に裁縫学校から派生し、現在に至っています。

 それでは、「コウラン」とは、一体どんな学校なのか。同じ学校のことなのか。その答えは次の記述により明らかになります。
 「横浜雙葉学園」は、1872(明治5 年)年にカトリックの女子修道会サン・モール会の修道女メール・マチルドによって創立された女学校です。その起源は、1872 年山手八十三番に設立された孤児院「仁慈堂(じんじどう)」にあります。(中略)居留地に住む外国人の子女や一般家庭の子女教育のため、サン・モール会は1900年山手八十八番に、日本初のカトリック女学校である横浜紅蘭(こうらん)女学校を設立しました。(中略)紅蘭女学校は震災後、現在地に校舎を復興させ、1951(昭和26)年に校名を横浜雙葉学園と改称し、現在に至っています。」


横浜雙葉学園 学校案内より

 う~ん。「コウラン」は「紅蘭」でした。なんだかレディスのチーム名のようですね。ミッションスクールとカトリック女学校が、日本人には理解できず混乱を深めたのでしょうか。山手に存在したと言うことも同じですね。 ふふ~ん、古畑うさおでした。