安福翁伝 抜粋 

安福翁 自傳


安藤井筒堂 店舗

安福翁伝 抜粋

森家時代

開店と象印齒磨の創業

 斯くて私は森家の養子たることを承諾いたしたが、それと共に条件を提出した。それは、元來私の素志が独立自營にあるのだから、養子となった暁には必ず養家と別居して商賣の自營を許す事と云うのである。森家ではこれを二つ返事で承知してくれたので、私は遂に森家の人となつた。そこで森家から三百圓の資金を出して貰つて約束の如く日本橋區横山町に店を開き、森商店と云ふ看板を掲げて井筒油や、石鹸、香水などを取り扱ふことになつた
 勿論、小資本で始めた商賣であるから、旦那顔で納つてゐることなど出來ない。二三人の小僧を相手に私自身が車を曳いてお得意まわりをすると云ふ、丁度井善に奉公した最初に立歸つた心で、朝早くから晩遅くまで眞黒になつて働いた。そのお蔭には商賣は一日ましに面白くなつて來、店を開いてから三年目の明治二十七年に家内を迎えた。それから、夫婦共稼ぎと云ふ姿で、近い將來には森商店の看板を大きくしてなぞと盛んに前途を樂んで働いた。私の象印齒磨を拵へ出したのも此の頃であつて、而して象印齒磨の出現は實に我が國の齒磨界に一新紀元を劃したのであるほどそれほど日本化粧品史上に重要の意義を有するものであるから、此の機會に少々申上げておく。
 一體私が象印齒磨を製造販賣した動機は、丁度私が開店した明治二十五年に米國市俄古で大博覺會があつた。此の博覺會を見物した私の一知人が、その出品中に大好評を博したと云ふ齒磨を持ち帰って私に示し「何うだ亜米利加では斯う云ふ良いものが出來る、お前も一番奮發して造つて見る氣はないか」と勧められたに始つたのである。
 御承知の通り、明治二十五六年と云ふ頃の我が國齒磨界の状態は實にお話にならぬほど幼稚なものであつて、その名からして非文化的のものであつた。何の齒磨も僅かに賣藥の餘勢に縋つて賣つてゐると云ふ有様で、名前まで藥に似せて「何々散」なぞと命じてゐた。年配の人の記憶に残つてゐる筈の「花王散」などはその一つであつた。然かも當時花王散やダイヤモンドなぞは比較的進歩したもので、との他の齒磨は大低砂性のもの、稍々進んだもので澱粉性の片栗澤山で、若しこれに熱湯を濺ぎかけたら忽ち葛湯が出來上がりさうなものが多かつたのである。


ダイヤモンド齒磨の宣伝
 これでは實用上からも衛生上からも不完全と云ふよりは寧ろ危險極まるものである。このやうな齒磨が、日進月歩の向上的國民の要求には到底副ふことの出來ないのは言ふまでもないことである。それだから一方外國品は此の缺陷に乗じてドシゞ輸入されて來て、非常な勢ひを以て和製品を風靡することになつたのである。
 こゝに於て私は考へた。此の形勢をしてそのまゝ放棄して置いたならば、我が國五千萬の同胞は永く外國に齒磨税を取られなければならぬ。斯くては國家經濟上非常の不利を受ける事になるから、これは何うしても化粧品業者がと云つてゐるよりは自分がその先達となり、改良の實行者となつて我が化粧品界の向上と國利の保護とをしなければならぬと深く決心してたのである。その矢先に米國にあつても最新優良の質として好評ある齒磨を手に入れたのであるから私の心は雀躍するほど喜んだ。斯くて私はその見本を精細に分解して研究を重ねた末、首尾よくそれと同様な優良齒磨を完成し、これに『しかご土産象印齒磨』と命名して賣出したのである。
 斯様に申したなら『安藤は狡い、外國の發明品を我が物顔に眞似た』と云ふ人があるかも知れない。併しながら私は決して今時はやる他人の商品を無斷で模造すやうな不徳はしない。私はいよゝ象印齒磨を賣出すと云ふ前に、ちやんと米國の製造元へ同質の齒磨を日本で製造販賣をするから、それに對し同意をしてくれと要求し、その承諾を得て始めで世の中へ發表したのである。それだから包装にも漢字を用ひず、すべて米國製のそれと同様な横文で記し、立派に舶來品として市場へ賣出すに何等の苦情も支障もなかつたのである。
 何がさて粗惡齒磨でなやまされてゐた當時に此の優良な品が現はれ、殊に同質程度の舶來品は可なりに高價であるのに、私の新製造品は値段が安いと云ふのであるから、創業に伴う困難は可なりにあつたけれども、三四年辛抱しえゐる中に追々賣行が好況を呈して來、先ずこれならと思ふ折柄、意外の大災厄が降つて湧き出し、その爲め私の一身も事業も目茶ゝにならなければならなくなつた。
(中略)

高級齒磨エレハントの發賣

 それから明治四十一年に象印齒磨の姉妹品たる高級齒磨「エレハント」を製造した。これについて一つの話がある。象印齒磨の出現に依つて我が齒磨界は著しく覺醒され、相亞いで優良の齒磨が生まれて來たが、然かも一袋何銭、一箱何銭と云ふ程度を越ゆることが出來ない。此の間に乗じて外國の高級齒磨が輸入されて來るやうになつた。前にも申したやうに、私が象印齒磨製造の精神は、何卒我々の手で優良齒磨を提供して外國のそれを撃退し、以て國家經濟の一端に資したいと云ふ點にあつた。幸いにして同業者の努力に依つて一時は外國齒磨を殆んど全く市場から駆逐することが出來た。然るに幾許ならずして今度は高級齒磨が押寄せて、それが需要界の歡迎を受けると云ふことになつては以前に増して憂ひなければならぬ。即ち高級舶來齒磨一個の値段は内地製齒磨の數個若しくは十數個に匹敵するからである。若しもかうした齒磨が時人の嗜好に投じて需要されるとせば我々同業者のためにも亦た由々しき大事である。と考へたのは實は迂闊千萬のことであつたのだ。
 人間の生活と云ふものは日に新にして日に又た新なるのが約束であつて、そこに進歩があり、發達があるのである。齒磨資料が食鹽から房州砂になり、片栗粉となり、象印齒磨にたつた進歩を考へても當然それ以上の齒磨を需要する時代の到來を豫想しなければならなかつたのである。そこに思慮を致さないで、何時も同じ物ばかり押附けておかうと云ふのは餘りに蟲のよい話で、殊に化粧品の如きは、時好に伴つて進歩しなければならない性質のものであつて、これを怠れば見棄てられるに定つてゐる。現在のところでは、舶來高級齒磨の爲めに受けてゐる影響としては見るべきほどのものはないけれども、所詮は進歩の道程を辿る人の嗜好は必ずや現在以上の齒磨を要求するに違ひない。此の道理を辨へずして既製品にばかり執着してゐたのは製造家として迂闊の罪を免れない。私共は既に業に高級齒磨の研究をしなければならなかつたのである。尤も私は「オリヂナル」を研究してゐた頃から、象印以上の高級品を拵えて見たいと云ふ希望を懐いて、當時自分の技師であつた新沼千代治氏と共に研究をしてゐた。何分一袋二錢の齒磨から見ると数倍もする値段で賣らねばならないので、例の大事取から容易に發表しなかつたのである。然るに需要界の趨勢はだんゝに高級品を渇望するやうになり、舶來の高級品も前述の如くホツゝ市場に現れ出したので、最早時分は宜からうと考へ、こゝにいよゝ「エレハント」の發賣となつたのである。
 今日では十錢以上の齒磨は普通のものとなつたが、明治四十一二年の頃の我が化粧品界にあつては「オリヂナル」同様高價なものとして同業者を張目せしめた。殊に包装の如き香ひの發散を防ぐために齒磨粉を容れた袋を更に錫の薄葉で包み、これを上袋とパラピン紙の中袋と二重袋に納めたるなど、全く齒磨界空前のものと稱されたのである。併しながら、時代が恰度日露戰後の好景氣を受けてゐたためか、此の高級齒磨は倖い需要界の迎へるところとなつて、割合に早く多く賣れゆきを見ることが出來た。
 斯くて安藤井筒堂は漸く一個の化粧品業者として世間からも認められるやうになり、私の宿望の一端も實現されたわけで、これから梢ゝ組織的の經營を行ふことが出來るやうになつた。製造業の如きも、前述の外に數種のものを有し、これがまた格別廣告らし廣告をしなくとも、一つの商品として可なりの賣れゆきを見てゐるのは、全く品質本位を實行してゐるがためで、實用的の効果が生きた廣告となつて自然に廣まつたのである。此の實用的の効果と云ふことは、商品の生命であると共に、製造家の絶對に負わねばならぬ責任であるから、重複の嫌ひはあるが序に一言しておきたい。
(中略)

製造にも販賣にも眞面目なれ
(未稿)

舶來化粧品を駆逐するまで
(未稿)


閑話休題

 余談ですが、先日亡くなられた平尾昌晃氏の祖父の平尾聚泉氏は、明治時代に「ダイヤモンド齒磨」を売り出し大ヒットします。
 この商品は、『安福翁伝』に出てくるあの齒磨ですね。その後、平尾聚泉氏は「レート化粧料」を売り出し、これも大ヒットします。同じ時期に、齒磨の情報が入って来ることに、シンクロニティと言うか、何か因縁を感じます。

 「ライオン歯磨80年史」によると、当時国産歯磨を発売するのがブームだったようで、数多くの製品が売られているのが分かります。
 「明治22年のころには金尾商店発売のマッキン氏歯磨、24年には花王石鹸本舗長瀬商店から寿考散、レート本舗平尾賛平商店からダイヤモンド歯磨、26年には、花王石鹸本舗長瀬商店から鹿印煉歯磨、オリヂナル本舗の安藤井筒堂から象印(エレハント)歯磨、28年には、化粧品問屋として有名だった田中花王堂からカチドキ歯磨がそれぞれ発売され、29年には、小林富次郎が出した「獅子印ライオン歯磨」、39年には近源商店からデンワ歯磨、翌40年には、パピリオの前身伊藤胡蝶園から御園歯磨、43年にはクラブ歯磨が中山太陽堂から発売された。ライオン歯磨の新製品である「萬歳歯磨」が国内向けとして発売されたのは明治43年である(英米向けは明治38年)。印度・南洋向けカーボリック歯磨は明治40年に発売された。
 これらの当時の有名品にまじって、大阪は、矢野芳香園からツバメ歯磨、朝日堂からアサヒ歯磨、前神彰栄堂からゼーエム歯磨、稲葉丹浜堂からバイオレット歯磨、脇田盛真堂からベビー歯磨、などが発売された。このほか、日本歯科製剤会社からモデル歯磨、津京東光園から、ばら歯磨などが売り出されている。」(ライオン歯磨80年史より抜粋)


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