廃墟のその後(2002年7月頃です)

 健ちゃんのテレカコレクションで休息していただいた後は「それ行けトマソン隊」後編です。(えっ、「ご近所トマソン隊」だったんじゃないの?それにトレードマークも違うしい・・・)
 さてここに取り出したるは、1枚の写真。得とご覧じろ。前号でご紹介しました、ステーキ・レストラン「ブロンコ」です。これが取り壊されたことは述べておきましたが、今が何になっているかと言うとこれが「ローソン」です。
It’s LAWSON !ウ~ッ。
 手前側は前から駐車場でしたので、あまり変わりません。でも、これじゃあ、味気無いなあ。




廃墟 ブロンコ(嘗てのもの) (2000年4月9日)


廃墟 ブロンコ(今はローソン) (2002年7月頃)

 私事ですがここ、2ヶ月あまりは、挿絵の締め切りと試験勉強に追われて、図書館に行けず、ほとんど活字を読んでいません。(う~ん、自分で買って読まないのか?専門書は別ですけどね。専門書は手から離そうと思えば、すぐ離れるのですが、やはり小説は読み出したら止まらない。このような時期の時にはとっても毒です。
もうあと5分でやめる。もうやめると言いながら、だらだら読み耽っている自分を発見して、真っ青になります。)
 下の道路の写真は、橋脚を圧縮に強いコンクリートで、桁を曲げに強い鉄骨で作ったハイブリッドな合成桁ですっ、
違うでしょっ!(ビシッ)
 ここは三ツ沢の国道1号線沿いのところで、ほら、大きな家と蔵が見えています。「ブロンコ」の斜向かいです。見逃していました。


廃墟 民家の蔵(橋脚の先に見える建物) (2002年7月頃)

 忙しいうさお隊員とライ隊員の代わりに、Cacco隊員が世田谷線の三軒茶屋駅に行ってきてくれました。
 ここは以前、水道の章で世田谷から渋谷まで水道道を作ったところで、それがキャロットタワーの前の道だと紹介しました。これが三軒茶屋キャロットタワーです。確かににんじんをイメージしますね。(悟空をイメージする人は少ないでしょうね。カカロットですけどね)
 以前の世田谷線は玉電の趣を残しており、2両編成の緑色の電車で江ノ電に貰われていくことで有名でした。今度の電車はヨーロッパでよく見かけるLRT(ライトレール)のようで、古い町並みの中を300系のスリムな車体が走ります。意外なことにここのレール幅は、1,372mm。在来線が1,067mm(狭軌)、新幹線が1,435mm(標準軌)なので、車体一杯にレールがあるように見えます。


三軒茶屋キャロットタワー (2001年4月28日)

東急世田谷線 案内図 (2001年4月28日)

東急世田谷線 三軒茶屋駅正面から (2001年4月28日)

東急世田谷線 駅に進入する車両 (2001年4月28日)

東急世田谷線 LRTのようです (2001年4月28日)

 下の写真は、鶴見線の旧本山前駅跡ですか。(って聞いてどうする)確かにそれっぽいものはあるだけど。


鶴見線 鶴見駅付近ガード下 (2002年3月20日)

鶴見線 国鉄労組横浜支部(まだ残っていた) (2002年3月20日)

鶴見線 本山前駅があったであろう処、今はバスターミナル (2002年3月20日)

鶴見線 総持寺架道橋 (2002年3月20日)

鶴見線 総持寺前の開かずの踏切 (2002年3月20日)

鶴見線 (これが本山駅跡なのか?なにかの怨念なんじゃないのか?) (2002年3月20日)

 東北新幹線の盛岡-八戸間の開通前の調査に青森県に行ってきましたが、ドライブ中に廃線を見つけました!早速、最近買った薄型デジタルカメラでパチリ!夏真っ盛りのために、草や木が蔽い茂ってレールがほとんど見えません。その雰囲気だけ見てください。これは「南部縦貫鉄道」と言うもので、ほんの七、八年前までは現役で走っていました。


南部縦貫鉄道 当時の電車 (2002年7月19日)

 1両編成でバスみたいなものだったようです。


南部縦貫鉄道 軌道跡 (2002年7月19日)

南部縦貫鉄道 残された鉄橋 (2002年7月19日)

南部縦貫鉄道 木立の中から見る鉄橋 (2002年7月19日)

南部縦貫鉄道 軌道跡(先程とは逆方向) (2002年7月19日)

 この時についでと言ってはなんですが、一日かけて恐山まで行ってきました。
 こちらで吃驚したのは、この大きな風力発電塔です。高さは30mから40mはありましょうか。車から降りると低周波のブウォン、ブウォンと言う音が聞こえてきます。
 ここにはあまり住みたくはないなあ。わたしゃ敏感だから結構こういう音、気になって寝られない性質です。
 この近くには六ヶ所村の原発も数基あり、当寺は放射能漏れが取りざたされていました。(*^。^*)
 恐山には「いたこ」さんが居ますが、7月の20日前後しか居ないようです。お告げが良く当たるいたこさんとそうでない方がいるようで、差掛けの前の人の並びには差がありました。


六ヶ所村近くの風力発電機 (2002年7月19日)

尾駁沼(吃水湖で蜆が取れる) (2002年7月19日)

恐山入口 (2002年7月19日)

恐山 境内の中を歩く (2002年7月19日)

恐山 吉祥閣ご門 境内に幾つかの御簾の差掛があり、いたこさんがいます (2002年7月19日)

恐山 宿坊 この庭にいくつもの溝があり温泉が流れている (2002年7月19日)

恐山 案内看板 (2002年7月19日)

 鶴見線ではないけど、高架下を住居にしているところは結構あります。
 横浜でも京浜急行の高架下は、住宅に占拠されて昭和30年代のようです。 これは京浜東北線の西日暮里の駅近くです。上野からこのあたりにかけては、時代が動いていないようで、このような仕舞屋(しもたや)が結構あります。
 定番のようにすぐ近くには、クラブ、スナック、なんとかパブがありますね。  
華やかさと侘しさの同居は、新宿のようです。


日暮里 高架下住宅 (2002年8月7日)

日暮里 高架下住宅 (2002年8月7日)

 さて、八戸に着いて驚かされたことは、町に歴史があることです。(ごめんなさい!)
 実はここで、横浜の水道史に繋がる公衆トイレの記述を見つけました。下の写真がそれです。この六角形の建物が日本始めての公衆便所で、横浜に63箇所作られました。
 設計、施工、管理は、淺野総一郎で、この63箇所のトイレを清潔に保つため、毎日見回っていました。洋風に見えますが、便器は和式で汲み取り式です。
 彼はこの糞尿を船に積んで、千葉のお百姓さんに売って大財閥になったとあります。彼はセメントで財を成した人じゃなかったんだ。
 屋根の上の宇龍のような換気塔はどこかで見たような気がしたら、「富津砲台」のときの映画館の屋根についていたのと同じものだと気がつきました。もしかしたら、浅野総一郎が横浜から富津に文化を運んだのかも。


八戸市博物館 南部師行(南部藩の宗主)の騎馬像がある (2002年7月19日)


八戸市博物館 昭和34年頃の資料 (2002年7月19日)

八戸市博物館 横浜の公同便所の模型 (2002年7月19日)

八戸市博物館 その和式便器の蓋の自動開閉機 (2002年7月19日)

 下の写真は、気に入ったおねいちゃんがいたから、つい、パチリと。って、田代まさしじゃないって。(ビシッ)
後ろの建物が廃墟系レトロだと言うことで、運転しながらパチリ。これも八戸です。


八戸市内のどこか (2002年7月19日)

 下のトンネルは浜名湖に近いところで、鉄道の下を潜っているもので、「前田川トンネル」と銘が打ってあります。元々は川のためのトンネルを人道にしたものでしょう。


前田川トンネル 車道の向こうにあるトンネルです (2002年6月12日)

前田川トンネル (2002年6月12日)

前田川トンネル (2002年6月12日)

 前回、雨に濡れた眼鏡橋をラストテーマとし、詩を作るなら桑田圭祐か?と締め括りましたが、あの「東京」はまさしく、それって感じで少し涙目です。くう~っ。