消えゆく映画館(2001年当時です)

 最近ご近所に映画館とか劇場というものがめっきり無くなりました。子供の頃は、この大口の辺りにも東映、東宝、日活系の「大口劇場」、松竹、大映、新東宝系の「曙劇場」、洋画専門の「第一劇場」(必ずディズニーの漫画映画がニュースとともに入っていました)がありました。「大口劇場」、「曙劇場」は3本立て、「第一劇場」は2~3本立てでした。長いあいだ、映画は3本立てが普通のことだと思っていました。
 
 お尻が痛くなる身動きせず座り込んで、時にはぐっすり寝いって見ていました。この頃の映画館は換気が悪く、3本見ると酸素不足で頭が痛くなってきます。大人は煙草を吸い放題で、スクリーンは煙で揺らいでいました。
 映画館があった当時は自宅の塀を映画館に貸して、なんと映画館三館の立て看板がありました。見返りは入場券で、お蔭で映画の只券はふんだんにありました。子供の頃は母親や日出彦さんに、映画を見に連れって行ってもらってました。
 このような環境で私は映画が好きなりました。





 大学生の頃は3本立ての映画館を、2館から3館を梯子をしながら見に行ってました。小さい時から3本立ては鍛えていましたからね。この当時は1年間に300本近く見に行ってました。学割は効くは、学校はサボるは、「白鳥座」、「紅座」、「かもめ座」、渋谷「全線座」などなど、3本立て映画館は沢山ありましたし、天国でした。
 余談ですが、ドサ周りの時代劇劇団が来て芝居をしていたのが、「入江劇場」と「大滝湯?劇場」です。
 「入江劇場」は早々に潰れてしまいましたが、「大滝湯」の2階のに舞台は結構長くありました。「おででこ芝居」と言われておりましたが、人気の男優さん、女優さんには、野菜や御捻りが舞台に飛んでいました。
 お隣の親戚がアパートを営んでおり、よくその芝居の一座が泊まっていました。この近辺も当時は田舎で、車寅次郎の世界のようです。
 ご近所も渡世人と職工さんが多かったねえ。日本鋼管や、旭硝子、東芝に勤める人が、近所の文化住宅に多く住んでいました。一時、隆盛を誇った時もありましたが貨物線が通ったことにより、町が分断され商店街が無くなりました。
今でも田舎ですよ、ここは。横浜、川崎・鶴見、新横浜に囲まれてはいますが、ここは過疎地で経済のドーナツ現象の最たるものです。

 って、前ふりが長かったけど、今回のテーマは消え行く映画館です。
さて、映画館ではありませんが劇場の始まりは、あの有名な横浜の山手にある「ゲーテ座」です。横浜は西洋劇場の発祥の地でもあります。
 横浜にお住みでない方のために、「ゲーテ座」について少し説明しておきましょう。服飾学苑岩崎学園の資料から引用するとこのようなものです。
 明治、大正期のパブリックホール『ゲーテ座』は三代存在します。初代は「横浜本町通りゲーテ座」 (1870/明治3年創立)と呼ばれ、オランダ人ヘフトが今まで倉庫を用いて活動していたアマチュア劇団のために、フランス人建築家サルダに設計を依頼して、1885(明治18)年に本町通り(今のTV神奈川の所です)に建てたものです。「ゲーテ座」とはゲィティ=英語・Gaiety=「陽気な」という意味が訛ったものです。
 二代目ゲーテ座は山手に造られました。シェークスピアの『ハムレット』など、西洋人による生の西洋演劇に触れることのできる当時唯一の劇場として、日本の近代演劇史に残した足跡は大きなものがあり、小山内薫・北村透谷らが足茂く通ってきた地です。
 1923(大正12)年、関東大震災によってゲーテ座は崩壊し、その後昭和50年代 初頭まで、ゲーテ座の正確な位置・資料等は散失不明の状況が続きました。
 三代目ゲーテ座は1980(昭和55) 年、横浜山手の丘に建設されました。岩崎学園横浜洋裁学院の創立50周年記念事業の一貫として、服飾関係の資料、収集品を中心に展示する博物館として建てられました。内部には明治31年頃の写真・復元図、昭和53年に発掘調査をした際の出土品などが展示されています。
 ちなみにノールトフーク・ヘフト(オランダ  1821~1894)は、万延元年(1860)横浜居留地30番に店を構え、弾薬や船具の販売を行っていました。山手地区内に土地を多く所有し、前身は商船の船長でしたが、新聞の発刊、レストラン経営、ビール醸造など種々の事業に携わり、明治3年(1870)現在の山下町に最初のゲーテ座を創立しました。明治27年(1894)、72才で死去。妻、娘と共に外人墓地に眠っています。(横浜もののはじめ考 横浜開港資料館版より)


本町通りゲーテ座

山手ゲーテ座

岩崎学園 ゲーテ座(2002年5月15日)

岩崎学園 ゲーテ座礎石跡(2002年5月15日)

岩崎学園 ゲーテ座(2014年6月21日)

 ゲーテ座のように歴史的に重要なものでも、その履歴はほとんど判らないのが現状のようです。そうとなれば一般の映画館はどんな記録もほとんど残っていないでしょう。家の近くの映画館も何にも残っていませんものね。
 富津の浦河町の映画館ですね。知りませんでしたが、この映画館は廃墟マニアには有名なところらしく、富津砲台見学ツアーのコースに入っています。トマソン隊はお腹が減ったので食堂を探していたんですが、そこにありました。すげえ寂れたところでした。
 このハイカラさが、街にマッチしないところがいいんですね。


富津町映画館跡(2000年8月8日)







 さてさて、今度は本当に家の近くに戻りましょう。最近閉鎖した「横浜オスカー」です。 オスカーについては、Cacco隊員が前号で詳細を述べていますのでご覧下さい。ここではその外観と誰かが書いたスクリーンのミスチル記述を掲げておきます。
 伊勢佐木町から長者町にかけては、本当に映画館が集まっていました。長者町は明治の時代に東京帝国大学の生物学の教授から「おきなえびす」(原生代から生きているという現代の化石、全世界で6~7種しかいないのにそのうち3種が日本近海で取れるだったかな?)という貝を探してくれという頼まれ、海に潜って採って行くと漁師は五圓ほど謝礼を貰えたとか。その当時の教授の月給が1圓位だったかな?なので、家一軒が建ったとか言うことで長者町となったと聞いたぞ、鶴見高校の地学の内野から・・・。(健ちゃんの項を参照してください。生徒受けの悪い先生が出てきますから)


オスカー外観(2002年1月31日)

オスカーにお別れに来た人々(2002年1月31日)

オスカーの劇場内(2002年1月31日)

オスカー映写機(2002年1月31日)

オスカースクリーンへのお別れメッセージ(2002年1月31日)

オスカーこのメッセージは誰?(2002年1月31日)


 この長者町あたりまでも海岸だったと聞いているので、多分、漁師町の黄金時代があったのでしょう。本牧あたりも造船ドックや貯木場があり、朝鮮動乱の時には大儲けしたそうです。この景気のよさが映画館の乱立を呼んだと見ていますが。
 この長者町にはオデオンとかピカデリーとか封切館があり、家の近くの「大口劇場」や「曙劇場」とは一線を画する憧れの地でした。

 次は黄金町にある横浜日劇です。この「横浜日劇」は、まだ潰れずにあります。Cacco隊員のトマソン報告では、劇場の2階には永瀬正敏主演のビデオシリーズ「マイク・濱」の事務所があり、公開もされているそうです。最近は閉鎖状態らしいですけど。
 受付のお兄さんの態度が悪かったようで×を付けていました。
※現在はもう「横浜日劇」は無くなりました。


横浜日劇(2000年9月26日)

横浜日劇 ヒビだらけの外観(2000年9月26日)

横浜日劇 切符売り場(2000年9月26日)

横浜日劇 ゲート看板(2000年9月26日)

 黄金町にはこの他に「ジャックアンドベティ」があり、地下にある「ジャック」は若松孝二監督特集なんかをやっていました。今更、誰が観るのかと思っていたら結構、おじさん連中が入っていたそうだ。ちなみに、5月は今井正監督と山本薩夫監督の特集でした。昔の池袋文芸座のような映画選択をしているぞ。「ベティ」は封切館ですよ。


ジャックアンドベティ(2000年9月26日)

横浜日劇、ジャックアンドベティ閉館のお知らせ(2005年3月5日)

 日の出町には「かもめ座」あります。ビデオレンタルが始まる頃には、大体同じくらいの時期に2本立て映画を上映していました。このあたりは「鶴見文化」や「綱島映画」も同様でした。この位大きさの映画館は、35mmフィルムから16mmフィルムにデュプリしたものが配給されていました。映写機は16mm用と言うことで、設備費も嵩まないという優れたものでしたが、それ故、画面が暗く迫力に欠けたことは言うまでもありません。


かもめ座(2002年4月3日)

かもめ座 こんな感じの劇場内(2002年4月3日)

かもめ座 入り口はこんな感じ(2002年4月3日)

かもめ座 廊下にベンチ、あったなあ(2002年4月3日)

かもめ座 大時計風がほほえましい(2002年2月27日)

 小さな映画館は最近の流行なんですけどね。そう言えば一時、アイドーホールによるビデオ館もありました。やはり画像品質がね。最近は如何かな。ハイビジョンもあるし、35mm映写機もだぶついている見たいだ。
 白楽の「白鳥座」は2階席のあるレトロな造りでした。「紅座」と言うのもありました。でもこの手の造りは痴漢も多くなります。残念ながら、写真はありません。
「光音座」はピンク映画を上映しています。あるんですね。まだ。この手の映画はほとんどビデオとネット配信に席巻されたと思ったのですが。
 お向かいがストリップ劇場「浜劇」です。「光音座」のある意味が判らないなあ。


光音座(2002年2月27日)

光音座(2002年2月27日)

浜劇(2002年2月27日)

 黄金町、真金町、日の出町は昔は、それはそれは怖いところでした。阿片、ヒロポン、ブローニング拳銃、売春窟で有名で、「天国と地獄」のモデルになったり、大岡川に毎年何人か浮かんでいました。今でもこの辺は怖いところで、若葉町、福富町はソープのメッカでしたし、この前トマソン隊で野毛の探訪に行った時、黄金町の大岡川沿いの道を走っていたら、アムステルダムの飾り窓のように金髪、碧眼の女の子や、黒人の娘、フィリピーナらしきボディコンの娘が、半間の店の前に立ち客を引いてました。五~六十軒もありましょうか、そんな中に「日本人の店」と書いてあるのはちょいと笑えました。異様な雰囲気で、ここは日本じゃないぞと思いました。

「横浜シネマリン」、「ニューテアトル」、「関内アカデミー」は、今にも潰れそうな伊勢佐木町から関内にかけての小さな映画館です。「横浜シネマリン」は、封切館でメジャーです。「ニューテアトル」は新聞屋からただ券をもらう映画館ですが、結構良い映画も掛かることがあります。※これらの映画館も消えました。


横浜シネマリン(2001年11月30日)

横浜ニューテアトル(2001年11月30日)

横浜ニューテアトル(2001年11月30日)

「関内アカデミー」は名画座の扱いですが、凄く小さい映画館です。ロビーも無いし、トイレもようやく作れたという感じです。でも、レディースデイには行列ができます。Cacco隊員は、話題のアメリカ映画「アメリ」を見に行きましたが、整理券を配られ2回目の上映の時にやっと入れたそうです。こりゃあライ隊員にはとても入場は無理な話です。


関内アカデミー(2001年11月30日)

関内アカデミー(2002年8月25日)

 馬車道にある東宝会館の「スカラ座」は惜しくも閉鎖されました。東宝会館はタイル張りの壁のもぎりの受け付け窓に歴史を感じます。映画館には、タイル張りが多いですが、これは昭和の時代の世相があります。タイル張りは高価なものというイメージがあったのです。(事実タイル張りは今でも高いです。サイズが大きくなったり、窯変タイルや陶板になると1枚ン十万円というのもあります)ともかくもチケット売り場は整理されていて、この地域では若くて綺麗なお姐えちゃんが受付をしておりました。メジャーでしたがね。


東宝会館(2001年9月22日)

東宝会館 チケット売り場のお姉さん(2001年9月22日

東宝会館 消滅したスカラ座(2001年10月24日

東宝会館 シネマ1、シネマ2(2001年10月24日

東宝会館 エルム、横浜東宝『2001年10月24日

東宝会館 閉館のお知らせ(2001年11月30日)

東宝会館 立ち食いそば屋さん(2001年11月30日)

東宝会館 シネマ1の内部(2001年11月30日)

 鶴見には、「京浜映画」と「鶴見文化」があり、「京浜映画」は和物を良くやっており、黒木和夫の「祭りの後」とかATGぽいものをよく見に行きました。横浜映画祭発祥の地だそうで、授賞式には松田優作や高倉健や緒方拳が来ました。今も映画祭は続いています。鶴見在住の一人の映画好きがこのイベントを作ったと言う話です。

 どうも鶴見には「レアルト劇場」というのが戦前からあったようで、これが知識人にはとても有名だったようです。今はその跡地がスーパーマーケットになっています。「別世界」だか「新世界」だかの名前のストリップ劇場が「レアルト劇場」の跡に造られました。そう言えば野毛のあたりにも「マッカーサー劇場」というのもあったそうで場所を知りたいなあ。

「京浜映画」は写真に興味を持つ前に無くなってしまいましたが、次に潰れる「鶴見文化」はちゃんと撮ってあります。これです。洋画主体ですが見るからに潰れそうでしょ。


鶴見文化 (2001年4月14日)

鶴見文化 (2001年4月14日)

 現在、神奈川区に映画館は2館、港北区に1館、鶴見に1館だそうです。さてそれはどこでしょう。答えのうち、2館はこの中に出てきちゃいました。西口シネマ、西口ニューシネマ、綱島映画、鶴見文化劇場がそれです。
 こう辿って見ると、映画の未来が暗そうですがそうでもありません。一番最近では、海老名のマイカル系(日出彦さんの項を参照)、品川のプリンス系など7~10館程度の小規模映画館群が出来てきています。その代わりに単独館は少なくなって来ているということでしょう。

参考:
最近の映画館群の例
マイカル松竹シネマズ本牧第1館~第8館
109シネマズ港北シアター1~7
ワーナーマイカルシネマズみなとみらい1~8
川崎チネチッタ1~8、川崎チネグランデ、BE
ワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘1~9


消える運命のチネチッタ (2002年2月2日)

消える運命のチネグランド (2002年2月2日)

消える運命のチネチッタビル (2002年2月2日)

新しいチネチッタの建設現場 (2002年2月2日)