猿島・海堡・観音崎の隧道編
若干、「グリコ隊長」のテリトリに引っかかりますが、というより「グリコ隊長」と「Cacco隊員」が取材したものを使わせていただきます。追って詳しい「廃墟遊戯」は、「グリコ隊長」から発刊されると思います。
本格的な隧道は、やはり軍事用に作られたものが多いようです。かつては落城の際の藩主を逃がすための、空井戸からの抜け穴などは興味津々です。もっぱら木製の支保工による補強です。江戸時代はこんな感じでした。
維新の時代は、諸外国からの圧力で開国の動きが出てきます。海外の列強からそれぞれの思惑を込めて支援部隊が送られ、それらの工兵部隊が要塞や兵站補給隧道の建造を指導し、明治の時代に引き継がれていきます。
「東京湾防備についての上申書」(明治7年12月27日)に曰く。首都、東京の防衛線を設けるべく、東京湾の最狭部分である観音崎と富津岬間の防備を万全にすべきと。
しかしながら、当時の人にとって観音崎と富津岬間の距離は約1万米(7.43㎞)もあり、その防備は極めて困難なため、富津岬の洲を埋めて砲台を築造するとともに、西岸の観音崎、走水の山頂および猿島の要域に大口径で遠距離を射撃し得るかつ、装填の速やかな砲を備えるとともに、浮砲台を設けて敵艦の侵攻を阻止する必要がありました。
前に富津砲台をレポートしましたが、東京湾防衛線の一部だったのです。猿島や観音崎、第一から第三海堡までがその遺跡ですが、いずれも要塞-砲台間を隧道で繋いでいます。そのほとんどが煉瓦積み隧道です。
やっと本題に戻ってきましたね。
はい、「グリコ隊長」と「Cacco隊員」の作品をご覧下さい。
猿島:明治10年に島は海軍省が、明治14年には陸軍省が所管し、砲台の築造に着手、明治17年に本格的な洋式要塞として完成しました。
昭和16年には大東亜戦争の煽りを喰らい、高射砲5座を配備します。終戦後は、アメリカ海軍の減磁ステーション(?)になりました。
猿島 1999年11月26日
猿島接近 1999年11月26日
猿島上陸 1999年11月26日
猿島 わ~い、砂浜だ 1999年11月26日
猿島 大東亜戦争の時のディーゼル発電所跡 1999年11月26日
猿島 この道は砲台、弾薬庫に繋がる補給路 1999年11月26日
猿島 今は展望台だが多分観測所跡 1999年11月26日
猿島 観測所跡だろう 1999年11月26日
猿島 遊んじゃダメです 1999年11月26日
猿島 海におりてみました 1999年11月26日
猿島 あれ、猫がいます 1999年11月26日
猿島 気持ち良さそうなので自分もごろり 1999年11月26日
本題に戻りましょう。煉瓦隧道を見に行きます。
猿島 砲台に繋がる道の脇、弾薬庫か 1999年11月26日
猿島 弾薬庫から望む 1999年11月26日
猿島 揚弾井跡 1999年11月26日
猿島 切通路 1999年11月26日
猿島 弾薬庫の上部開口部? 1999年11月26日
猿島 記念にパチリ 1999年11月26日
猿島 楽しく遊んで帰りました 1999年11月26日
第二海堡:第一海堡の西方2,577メートルに位置し、面積は41,300平方メートルほど。明治22年7月に起工し、藤田組が施工したとあります。海面まで大量の捨て石を積み上げて徐々に面積を広げ、砂を大量に撒いて捨て石のすき間を埋めていきました。外周は御影石、海面上2メートルまで積み上げ砂を詰めています。
軍事施設の隧道は側壁を煉瓦で、上半を無筋のコンクリートで作られています。
関東大震災や戦災で痛みが激しく、横断ひび割れや縦断ひび割れが入りました。特に天端部(クラウン)の縦断ひび割れは崩壊に繋がります。隧道は土被りが無くなると、アーチ構造が成り立たなくなり落盤します。いつ崩れるか、大変危険ですよ。
「グリコ隊長」の真似は決して、してはいけません。このトンネルはご覧のように剪断破壊を起こしています。更に埋没もしています。
第二海堡 釣りの人達と上陸します 2000年5月23日
第二海堡 ミスチルの撮影地 2000年5月23日
第二海堡 多分観測所か機銃台座跡 2000年5月23日
第二海堡 裏から見るとこんな感じ 2000年5月23日
第二海堡 砲台と弾薬庫を結ぶ隧道跡 2000年5月23日
第二海堡 多分崖側が棲息掩蔽部 2000年5月23日
第二海堡 内部は崩落しています 2000年5月23日
第二海堡 剪断破壊をしています 2000年5月23日
第二海堡 半分以上は埋まっている 2000年5月23日
第二海堡 この煉瓦は米軍の破壊によるもの 2000年5月23日
第二海堡 アーチ構造は軸力が掛からないと弱い 2000年5月23日
第二海堡 露天塁道かな 2000年5月23日
第二海堡 明らかな観測所跡 2000年5月23日
第二海堡 先ほどの観測所跡? 2000年5月23日
第二海堡 辛うじてバランスを保っている 2000年5月23日
第二海堡 午後の曳航 2000年5月23日
第二海堡 壕内はコンクリート造 2000年5月23日
観音崎:明治13年から明治28年にかけて、レンガ造りの砲台が建設されました。砲台の跡が5箇所に残っています。
ここで興味深いのは、煉瓦アーチと石積アーチが見られることです。石積アーチ隧道では幅員は狭そうですが、天端部にキーストーンが見事に納まっており、石工の自慢気な顔が見えそうです。
多分石積アーチは大東亜戦争の頃のものでしょう。日本人は組積文化が無いような話がされますが、昔から城壁やら雍壁に芸術的な手腕を発揮しています。
観音崎隧道 観音崎灯台 2000年1月14日
見て回った順番は不明ですが、どうやら北門第三砲台から回ったようです。
観音崎隧道 北門第三砲台 2000年1月14日
観音崎隧道 埋もれた弾薬庫か、棲息部 2000年1月14日
観音崎隧道 かなり埋まっている 2000年1月14日
観音崎隧道 揚弾井跡 2000年1月14日
観音崎隧道 揚弾井跡 2000年1月14日
観音崎隧道 海の見晴らし台 2000年1月14日
観音崎隧道 見晴らし台から砲台を望む 2000年1月14日
観音崎隧道 待望の煉瓦隧道 2000年1月14日
ここから第一砲台へと向かいます。途中に猫がお出迎え。
観音崎隧道 隊長を慕う猫軍曹 2000年1月14日
水中聴測所が見えてきます。
観音崎隧道 水中聴測所が見える 2000年1月14日
観音崎隧道 水中聴測所 2000年1月14日
観音崎隧道 海にも降りてみました 2000年1月14日
観音崎隧道 北門第一砲台跡 2000年1月14日
ついでなので、観音崎灯台へも行ってみます。
観音崎隧道 観音崎灯台 2000年1月14日
観音崎隧道 エイゼンシュテインのイワン雷帝ようだ 2000年1月14日
観音崎隧道 景色が良いぞ 2000年1月14日
北門第二砲台に向かいます。
観音崎隧道 2000年1月14日
観音崎隧道 崩落しかけている隧道 2000年1月14日
観音崎隧道 砲台脇の壕 2000年1月14日
観音崎隧道 隧道内の弾薬庫 現在は封鎖されている 2000年1月14日
観音崎隧道(2000年1月14日撮影)
典型的な要石。
観音崎隧道 2000年1月14日