隧道編

 いささか息切れがし始めた「ご近所トマソン隊」。人も犬も夏痩せもせず、太りに太って「ご近所コロリン隊」になっている。前回の予告の通り、今回は「水道」と縁の深い隧道とします。
 改めて隊員を紹介すると、いつも先頭を駆けている元気な「ライ隊員」、なぜか生まれた時から茶髪で、すこし不良です。これもすごいのだが彼は茶髪の尻尾を持っています。
 写真担当の「Cacco隊員」。彼女はあの有名な「廃墟遊戯」の「グリコ編集長」とともに、現存する軍事遺跡の探訪者でもあります。この二人は危険を顧みずに廃墟に分け入ってしまう癖があり、注意が必要です。
そして私、面倒くさがりやな「うさお隊員」です。もっぱら「ライ隊員」のはやる気持ちを抑えつつ、探訪記とイラストを担当しています。

 さて、トンネルまたは隧道ですが、これはあくまでも人工のものです。天然なものは、洞窟と言います。隧道の使命の大きなものに落盤しないと言うことがあります。これは大変なことです。天然なものは落盤しては安定し、バランスを保ちながら悠久のときを経ています。落盤することも自然の摂理として受け入れられます。が、隧道は永久構造物として100年は壊れないことを義務つけられています。これは大変トンネルにとって不公平なことですよ、人の力は自然の力に勝てないのにね。
 今の山岳隧道はほとんど鉄筋コンクリートないし鉄筋網に吹き付けコンクリートですが、ほんの少し前までは無筋コンクリートでした。それ以前はレンガや石積みです。
 確かにコンクリートが発明されてからの歴史も、まだ70年しか経っていませんし、いつまで、持つものやら・・・(゚o゚)  まあ、難しい話はちょいと、やめて・・・ね。
 多分、隧道の起源は黄泉平坂(よもつひらさか)でしょう。



 黄泉平坂とは、現世と黄泉の国(よみのくに) の境となる坂のことです。『古事記』では、「故、其の謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。」とあります。この場合の坂とは、地底の死の国に降りていく地下道のことを言うのでしょう。太古の時代では人は死ぬと祟り神として変化(へんげ)すると考えられていました。別名、伊賦良坂(いぶらざか)ともいいます。
 ということは昔から洞窟は怖くて、厳かなものだったのでしょう。今でも隧道は怖いです。
 ある隧道などは夜通るだけで、憑きものがおまけで貰えるそうです。(いらないけど・・・私は・・・一例ですが、左上の写真は壁に死人の顔が出るとか、深夜に白い着物を着た人が歩いているのを見たとかで有名な横浜・山手隧道です)


山手トンネル(2000年2月24日撮影)

山手トンネル(2000年2月24日撮影)

 前回、横浜の水道の薀蓄をたれた、獅子の頭の蛇口をお見せしました。(最近蛇口にかぶせる獅子の顔が売っているそうです。内田有紀もご愛用だそうです)その歴史的な水道道が関東大震災の時に潰れ、その後の復旧で出来た開削トンネルが、保土ケ谷にある大原隧道と、東隧道です。


大原隧道(2001年2月25日撮影)

大原隧道(2001年2月25日撮影)

大原隧道の内部(2001年2月25日撮影)

東隧道(2001年7月20日撮影)

東隧道(2001年7月20日撮影)

 大原隧道は、高さ3.62m、幅2.44m、延長は254mの大きさで、人と自転車なら漸く通れるような所です。トマソン隊2名がおっかな吃驚、探検しています。夜は一人では絶対勘弁して貰いたい所です。
東隧道は、高さ6.3m、幅5.7m、延長168.71mで大原隧道と同時期に作られましたが、二廻りも大きく自動車が通れます。レンガ積みのように見えますが、コンクリート造です。坑口だけ紫色の煉瓦(焼過煉瓦)をフランス積で積み上げ、花崗岩で造られたトスカナ式のオーダーで支えています。
大原隧道のある南区清水ヶ丘は、地下水が豊富に湧き出る場所です。ここには以前、横浜国大の教養学部だかがあった所です。兄貴の大学の学園祭にまだ小学生のうさおは出かけ、心臓破りの丘といわれたこの清水ケ丘を登り、初めて液体窒素に漬かった薔薇の花を見ました。あの金槌でばらばらにするやつですね。
この丘を抜くように大原隧道があり、その入口に前回の獅子の蛇口があります。獅子頭共用栓と言い、明治時代のオリジナルだと言います。周りの煉瓦はまだ若いですが、あと数年立てば味が出るでしょう。(鑑定団風)



 まあ、この位の古さの隧道は昔から怪談話が多く、いろいろな話が聞こえてきます。コンクリートの表面に人の形が出てきたり、前を歩いている人に追いつこうと、一生懸命歩くのだがなぜか追いつかない。なぜこのように思うのでしょう。
 一つの理由が、やはり人知を越えた隧道の崩落でしょう。技術のない昔は、地球に穴を掘ることは大変な 労力と、犠牲の上に成り立った経験工学だったからでしょう。多分、多くの人が亡くなっているでしょう。その怨念が自縛霊となって憑りついたと考えれば納得ですね。だとすると、隧道の新旧は関係なく、そこに事故死があったか、恨みを持って死んでいった人がいて、祟りトンネルになったと考えられます。昭和の30年代でも、一つの隧道工事で、10人近くは亡くなっています。
 あれ、何時の間にか祟りの話になってきちゃった。おかしいな。
 え〜い、ついでだから隧道の怖い話をしちゃえ。自分ひとりで抱えていると、何かを背負っちゃってるように思えて、気味悪いじゃん。
 さて、一番多いのは、やはり居る筈の無い人を見てしまうことでしょう。



 夏の蒸し暑い頃です。私は営団の仕事で、隧道の健全度調査に入った時のことです。終電車が通り過ぎ、起電線(架線の電気)の停止後、駅ホームから軌道に降りました。
 もう、真夜中、深夜の一時にはなっています。魔の二時にもう少しです。
 調査チームを二班に別け、一班を少し先行させました。シールド隧道のような綺麗な隧道ではなく、箱型隧道と呼ばれる年季の入った隧道です。漏水や黒く煤けた処やコンクリートの成分が流れ出してきて再結晶化した処が薄暗い中で、ほの白く浮かんでいます。調査状況をしばらく見て廻り、先行した班の状況を見に、ひとり、1km先の現場に行くことにしました。
 700mも歩いたでしょうか、200m位先にぽつんと歩いている人が見えます。大きく隧道が曲がっているところで、時たま人影が隧道の陰に隠れてしまいます。先行の班の人間だと思い、何とか追いつこうと歩を早めますが、一向に追いつきません。長いコートを着ているのか、時折裾が翻って見えます。と、その人影は壁に吸い込まれるように、急に曲がりました。漸く追いついて、その曲がった地点に来るとそこはどん詰まりの退避抗。もちろん人影はありませんし、隠れるところや通り抜けできるところはありません。今にして思えば、夏に長いコート着て歩いているのが不自然ですし、工事に入った人間が金具などに引っかかりそうなものを着る訳がありません。時計を見ると二時半を少しまわっていました。



 これは関門隧道の話ですが、調査工事が終わり、全員が坑口から出ようとすると、カーキ色をした作業服の男が脇の枝坑に入っていくのが見えました。
 「お〜い、初電が走るからもう出なきゃ駄目だよ!」声を掛けましたが、一向に出てくる気配がありません。枝坑は先でこちらの出口に繋がっているので、二人で別々の入口からその男を捜しに行きましたが、隧道の中ごろで二人は出くわしただけで、男の影はどこにも見当たりません。
 見間違いだと、首を傾げながら外への出口の鉄扉を閉めた直後、中からドンドンと扉を叩く音が聞こえます。急いで開けてみましたが、もちろん誰も居ませんでした。
この話がなぜ怖いかというと(林家三平風)、これが幽霊ではなく、本当に中に閉じ込められた人が居たら・・・という処です。

 さてさて、本題に戻りましょう。
 若干、「グリコ編集長」のテリトリに引っかかりますが、というより「グリコ編集長」と「Cacco隊員」が取材したものを使わせていただきます。追って詳しい「廃墟遊戯」は、「グリコ編集長」から発刊されると思います。
本格的な隧道は、やはり軍事用に作られたものが多いようです。かつては落城の際の藩主を逃がすための、空井戸からの抜け穴。もっぱら木製の支保工による補強です。



 維新の時代は、諸外国からの圧力で開国の動きが出てきます。列強からそれぞれの思惑を込めて支援部隊が送られ、それらの工兵部隊が要塞や兵站補給隧道の建造を指導し、明治の時代に引き継がれていきます。
  「東京湾防備についての上申書」(明治7年12月27日)に曰く。首都、東京の防衛線を設けるべく、東京湾の最狭部分である観音崎と富津岬間の防備を万全にすべきと。
しかしながら観音崎と富津岬間の距離は1万米もあり、その防備は極めて困難なため、富津岬の洲を埋めて砲台を築造するとともに、西岸の観音崎、走水の山頂および猿島の要域に大口径で遠距離を射撃し得るかつ、装填の速やかな砲を備えるとともに、浮砲台を設けて敵艦の侵攻を阻止する必要がある。 前々回に富津砲台をレポートしましたが、東京湾防衛線の一部だったのです。猿島や観音崎、第一から第三海堡までがその遺跡ですが、いずれも要塞−砲台間を隧道で繋いでいます。そのほとんどが煉瓦積み隧道です。
やっと本題に戻って着たね。はい、「グリコ編集長」と「Cacco隊員」の作品をご覧下さい。猿島:明治10年に島は海軍省が、明治14年には陸軍省が所管し、砲台の築造に着手、明治17年に本格的な洋式要塞として完成しました。
 昭和16年には大東亜戦争の煽りを喰らい、高射砲5座配備。終戦後は、アメリカ海軍の減磁ステーション(?)になりました。


猿島(1999年11月26日撮影)

猿島(1999年11月26日撮影)

猿島(1999年11月26日撮影)

猿島(1999年11月26日撮影)

 第2海堡:第1海堡の西方2,577メートルに位置し、面積は41,300平方メートル。明治22年7月起工。藤田組が施工とあります。海面まで大量の捨て石を積み上げて徐々に面積を広げ、砂を大量に撒いて捨て石のすき間を埋めていきました。外周は御影石、海面上2メートルまで積み上げ砂を詰めています。
 軍事施設の隧道は側壁を煉瓦で、上半を無筋のコンクリートで作られています。
。関東大震災や戦災で痛みが激しく、横断ひび割れや縦断ひび割れが入っています。特に天端部(クラウン)の縦断ひび割れは崩壊に繋がります。隧道は土被りが無くなると、アーチ構造が成り立たなくなり落盤します。いつ崩れるか、大変危険ですよ。
 「グリコ編集長」の真似は決して、してはいけません。このトンネルはご覧のように剪断破壊を起こしています。しかも埋没しています。


第二海堡(2000年5月23日撮影)

第二海堡(2000年5月23日撮影)

第二海堡(2000年5月23日撮影)

第二海堡(2000年5月23日撮影)

第二海堡(2000年5月23日撮影)

第二海堡(2000年5月23日撮影)

 観音崎:明治13年から明治28年にかけて、レンガ造りの砲台が建設されました。砲台の跡が5箇所に残っています。
 ここで興味深いのは、煉瓦アーチと石積アーチが見られることです。石積アーチ隧道では幅員は狭そうですが、天端部にキーストーンが見事に納まっており、石工の自慢気な顔が見えそうです。多分石積アーチは大東亜戦争の頃のものでしょう。日本人は組積文化が無いような話がされますが、昔から城壁やら雍壁に芸術的な手腕を発揮しています。


観音崎隧道(2000年1月14日撮影)

観音崎隧道(2000年1月14日撮影)

観音崎隧道(2000年1月14日撮影)

観音崎隧道(2000年1月14日撮影)

観音崎隧道(2000年1月14日撮影)

観音崎隧道(2000年1月14日撮影)